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閉館間際の図書館と、参考書の余白に書けない僕らの約束について

2月。受験シーズンという名の集団ヒステリーが校内を席巻する中、僕、西野和彦の放課後は、図書室の片隅という極めて狭窄な空間に限定されることになった。

理由は明確だ。隣で必死に青チャートと格闘している羽賀杏菜。彼女が「一般受験」という片道切符を手に、僕の進路という名の泥沼に飛び込んできたからに他ならない。


「……ねえ、和彦くん。ここの微積、全然分かんない。……教えて?」


杏菜が、僕の肩に頭を預けるようにして身を乗り出してきた。

図書室の静寂の中、彼女の髪から漂う石鹸の香りが、僕の脳内の公式を片っ端から消去していく。

付き合っているのだから当然の光景――かもしれないが、ここは公共の場だ。17歳の男子に、この至近距離での個別指導は、もはや拷問に近い。


「……杏菜。ここはまず、公式を丸暗記するんじゃなくて、グラフの形をイメージしろって。あと、そんなに密着されると、僕の偏差値が物理的に吸い取られるんだが」

「いいじゃん、減るもんじゃないし。……和彦くんと一緒に合格したいんだもん。私、今人生で一番頑張ってるよ」


杏菜が、僕のルーズリーフの端っこに、小さなハートマークを描いた。

その無邪気で、けれど退路を断った者の必死さが透けて見える笑顔に、僕は毒づく言葉を飲み込んだ。

だが、僕たちの「二人だけの勉強会」という名の聖域を、容赦なく蹂躙する足音が響く。


「……西野。図書室は私語厳禁よ。それに、その解き方は非効率的だわ。杏菜、あなたにはこの問題集を10回解き直すことを命ずるわ」


一ノ瀬佳樹だ。彼女は自分の学習計画表を手に、僕たちの向かい側の席を音もなく占拠した。

彼女の眼鏡は、朝の光を反射して怪しく光っている。

佳樹にとって、僕と杏菜が同じゴールを目指し始めたことは、自分のアイデンティティを脅かす重大な事案らしい。

彼女の琥珀色の瞳は、僕たちが机の下で足をぶつけていないかまで、厳重に検閲していた。


「あはは、佳樹ちゃん怖いなー! 和彦、差し入れ持ってきたぞ。糖分補給だ!」


さらに、和久井檸檬が購買のパンを抱えて現れた。

部活を引退しても、彼女の声量は図書室の結界を容易に突破する。

彼女は僕の隣、杏菜の反対側に陣取ると、僕の首に腕を回して無理やりパンを押し付けてきた。


「あんたたちばっかりズルいだろ。私も、引越し準備が終わるまでは、ここで和彦の監視役をさせてもらうからな」


檸檬の明るい声の裏に、時折混じる寂しさ。

推薦で遠くへ行く彼女にとって、この放課後の時間は、砂時計の最後の一粒のようなものなのだろう。


「……和彦、さん。……これ、耳栓……です。……周りの雑音、消して……集中、して、ください」


闇の中から柏木小鞠が、僕にだけ聞こえる声で囁いた。

彼女は隣の棚の陰に座り込み、僕の靴の先を自分の靴でそっと突ついている。

彼女の愛は、静寂の中でこそ、その濃度を増していく。


やれやれ。

閉館のアナウンスが流れるまでの数時間。

僕を巡る4人の幼馴染たちの執念と愛情は、参考書の文字よりもずっと濃く、僕の視界を埋め尽くしていた。


「……ねえ、和彦くん。帰り道、少しだけ遠回りしてもいいかな」


図書室を出る際、杏菜が僕のコートのポケットに、自分の手を滑り込ませてきた。

他の3人が、明日の学習範囲について議論(という名の言い合い)をしている一瞬の隙。


「……寒いぞ。早く帰って寝た方が、脳にはいい」

「いいの。……和彦くんの体温、補給しないと、明日頑張れないんだもん」


杏菜の瞳が、冬の夜空に浮かぶ月のように、どこか儚げに揺れた。

17歳の冬。

僕たちは、まだ何者でもない。

合格も、卒業も、その先にある未来も、何一つ保証されていない。

けれど、握りしめた手のひらの熱さだけは、今、この瞬間を生きている確かな証拠だった。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、凍てつく駐輪場で零れた、最後にして最大級の敗北宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる想いを背負いながら、自転車を漕ぎ出した。

2年生という季節が終わろうとしている。

その終わりが、僕たちの関係をどう変えてしまうのか。

今はまだ、誰にも分からなかった。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、冷たい夜風の中で噛み締めながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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