背水の聖域。あるいは、彼女の人生という名の「心中志願」について
2月。受験シーズンの冷気は、僕ら2年生の教室にまで容赦なく染み込んできていた。 進路希望調査票という名の「人生の踏み絵」を前に、僕、西野和彦の精神状態は、すでに末期の受験生に近い摩耗を見せていた。
そんな中、放課後の教室で羽賀杏菜が放った言葉は、爆弾というよりは、僕の心臓を直接握りつぶすような重圧だった。
「……和彦くん。私、指定校推薦、断ってきたよ」
その瞬間、教室の喧騒が真空に吸い込まれた。 指定校推薦。それは3年間の努力と引き換えに得られる「確実な未来」だ。それを、この時期に、自ら破り捨てる。
「……杏菜。頼むから、冗談だと言ってくれ。それは、僕との『放課後デート』を守るために、自分の人生を質に入れたってことか?」 「冗談じゃないよ。和彦くんと同じ大学に行きたいから。今の私の成績じゃ足りないから、だから、同じスタートラインに立ちたいの。……隣にいる『権利』じゃなくて、隣にいる『資格』が欲しいんだよ」
杏菜の瞳は、これまでに見たことがないほど澄んでいた。 付き合っているから、同じ場所にいたい。そのあまりにもピュアで、あまりにも残酷な純愛という名の自傷行為。 彼女は僕への愛を証明するために、退路という橋を自ら焼き落としたのだ。
「……羽賀杏菜。あなたのそれは、献身ではなくただの蛮勇よ」
教室の入り口で、一ノ瀬佳樹が氷のような声を響かせた。 佳樹の手にある英単語帳が、怒りで微かに震えている。 佳樹にとって、効率と計画性を無視した杏菜の暴挙は、美学に反する以上に、自分たちが保ってきた「5人の均衡」を力技で壊す反則行為だった。
「指定校を蹴って一般に回るなんて、確率論的に見ても自滅行為。西野、あなたが彼女を煽ったの? もし彼女が落ちたら、あなた、その一生を背負う覚悟があるの?」 「……煽ってない。むしろ、今すぐにでも時間を巻き戻して止めたいくらいだ」
佳樹の琥珀色の瞳は、僕と杏菜の間に横たわる「共依存」という名の重い鎖を、憎しみを込めて見つめていた。
「あーあ、杏菜。お前、マジなんだな……」
和久井檸檬が、窓際で珍しく真剣な表情を浮かべていた。 彼女は推薦ですでに進学が決まっている。その「安全圏」にいる自分への自己嫌悪と、泥沼へ飛び込んだ杏菜への敬意が混ざったような、複雑な顔。
「和彦、お前……もう逃げらんねーぞ。杏菜の人生、半分はお前が預かったようなもんだからな」
「……和彦、さん。……これ、お清めの……塩、です。……杏菜さんの、迷いが……浄化される、ように。……それとも、私の、念で、埋めましょうか」
影から現れた柏木小鞠の言葉は、いつも以上に重く、湿っていた。 彼女は、杏菜が「命がけ」の勝負に出たことで、自分の「影からの愛」が相対的に弱まることを本能的に危惧しているようだった。
やれやれ。 杏菜が退路を断ったことで、僕たちの「幼馴染ごっこ」は完全に終わりを告げた。 ここにあるのは、一人の少女の人生を懸けた、剥き出しの戦場だ。
「……ねえ、和彦くん。私を、合格させてね?」
杏菜が、僕の腕を今までになく強く握りしめた。 その指先の震えは、恐怖か、それとも僕を巻き添えにする歓喜か。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、静まり返った夕暮れの教室で零れた、最大級の敗北宣言。 それは、彼女の人生という重すぎる荷物を、一緒に背負うことを決めた、僕なりの「愛の誓い」でもあった。
17歳の冬。 僕の平穏は、彼女が焼き落とした橋の炎に包まれ、灰となって消えていった。 僕は、4人の少女たちの狂気にも似た熱量の中で、ただ深く、深く、覚悟を伴う溜息をついた。




