宮島の夜、あるいは、幼馴染という名の均衡が崩壊する音
修学旅行最終日前夜。
旅館の広間に集まった僕たち5人の間に流れる空気は、広島の名産である「牡蠣」よりもずっと重く、そして飲み込みづらいものに変質していた。
原因は単純だ。
数日間の強行軍と、僕、西野和彦という唯一の資源を巡る「過当競争」が、彼女たちの理性のリミッターを焼き切ってしまったからだ。
「……ねえ、和彦くん。明日の新幹線の座席、私と二人で座ってもいいかな?」
静寂を破ったのは、羽賀杏菜だった。
彼女の声には、いつもの天真爛漫な明るさはなく、どこか切羽詰まったような、特権階級としての焦燥が滲んでいた。
彼女になったはずの幼馴染。だが、その称号は、この4人の包囲網の中ではかえって彼女を追い詰める足枷になっているようにも見えた。
「杏菜、それはもう新幹線の中で議論し尽くしたはずよ」
一ノ瀬佳樹が、冷徹な手つきで眼鏡の位置を直した。
彼女の瞳は、連日の「西野監視業務」で少し充血しているようにも見えるが、その鋭さは増す一方だ。
「公平性の観点から言えば、最終日の移動は、最も貢献度の高かった私が西野の隣に座るのが妥当だわ。……不満があるなら、この三日間の行動ログを精査してもいいけれど?」
「……一ノ瀬、貢献度って何だ。僕はポイント制の何かで運用されているのか?」
僕のツッコミは、和久井檸檬の豪快な溜息にかき消された。
「あー、もう! 佳樹も杏菜も固いこと言いすぎ。和彦、明日の自由時間は私と一緒にフェリーのデッキに行こうぜ。……誰にも邪魔されない場所で、言いたいことあるんだ」
檸檬が僕の膝に手を置く。
その熱い手のひらの感触が、僕の思考回路をショートさせる。
「女の子」であることを隠さなくなった幼馴染の攻撃は、あまりに直球で、破壊力が高い。
「……和彦、さん。……私も、います。……明日、おみくじ、引きたいです。……二人で、末永く、っていうやつを」
背後から柏木小鞠が、僕のシャツの裾を握りしめる。
彼女の指先が震えている。
その震えは、恐怖ではなく、自分の存在を僕の記憶に刻み込もうとする執念の証だ。
やれやれ。
僕を巡る4つの引力が、ついに臨界点を超えようとしている。
17歳の秋。
僕が守りたかった「5人の絆」という名の平和な繭は、もうどこにも存在しない。
そこにあるのは、互いを牽制し合い、奪い合おうとする、むき出しの恋心の残骸だ。
「……みんな、いい加減にしろよ。せっかくの修学旅行だろ。最後くらい、笑って終わろうよ」
僕が発したその「正論」は、今の彼女たちにとっては火に油を注ぐようなものだった。
「和彦くん、どうしてそんな風に他人事みたいに言えるの!?」
杏菜が、僕の胸元を掴み上げた。
彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「私は、和彦くんの特別な人になれたと思ってた。でも、みんながこんなに本気で、和彦くんもみんなに優しくて……私、自分が誰なのか分からなくなっちゃうよ!」
彼女の叫びが、旅館の静かな廊下に響き渡る。
佳樹が顔を伏せ、檸檬が唇を噛み、小鞠が僕の背中で泣きじゃくる。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、最悪のタイミングで零れた独白。
それは、自虐ではなく、僕が引き起こしてしまったこの「詰んでいる」状況への、完全な降伏宣言だった。
僕の平穏は、17年という歳月の重みとともに、ここで完全に崩壊した。
誰一人として幸せになれないかもしれない、この袋小路の愛憎劇。
それを引き受ける覚悟が、僕にはまだ、できていなかった。
「……ごめん。僕は、どうすればいいか分からないんだ」
僕は、自分を縛り付ける4人の手を振り払うことができず、ただ暗い旅館の天井を見上げた。
修学旅行最後の夜。
僕たち5人の間に流れる涙は、11月の広島の海よりも、ずっと冷たく、僕の心臓を凍りつかせていった。




