自由行動という名の規律崩壊。あるいは、広島の街に散る僕の自意識につい
修学旅行2日目。広島の朝は、昨夜の旅館での喧騒をあざ笑うかのような快晴だった。
だが、僕、西野和彦の心象風景は、どんよりとした曇天に覆われている。
なぜなら、今日のメインイベントは「班別自由行動」だからだ。
高校生にとって、それは教員の監視の目を盗み、意中の相手との距離を詰めるための聖戦の場に他ならない。
「和彦くん、準備できた? 今日は私たちが計画したルートで回るからね!」
羽賀杏菜が、僕の腕を自身のパーソナルスペースへと力強く引き寄せる。
今日の彼女は、歩きやすいスニーカーにミニスカートという、活動的かつ攻撃的なスタイルだ。
彼女になったはずの幼馴染は、この自由行動という特権を使い、僕を他の3人から隔離しようと目論んでいる。
「……杏菜。自由行動といっても、基本は5人で行動するのがこの班の鉄の掟だったはずだろ。一ノ瀬の顔を見てみろよ。般若の面より怖いぞ」
「あら、西野。私は至って冷静よ。……ただ、この行動計画表にある『14:00から16:00の空白時間』について、杏菜に説明を求めているだけだわ」
一ノ瀬佳樹が、しおりのページをペン先で叩きながら冷徹に告げた。
彼女の眼鏡は、朝の光を反射して怪しく光っている。
佳樹の管理欲は、昨夜の「密会未遂」を経て、より精緻な検閲へと進化していた。
「なーんだ、固いこと言うなよ佳樹。平和記念公園を回った後は、お好み焼き屋で解散! 後は自由! ……だろ、和彦?」
和久井檸檬が、反対側から僕の首に腕を回してきた。
部活で鍛えた彼女の体温は、朝から驚くほど高い。
石鹸の香りと、少しだけ乱れたジャージの襟元が、僕の健全な自意識を激しく揺さぶる。
「……和久井。君の言う『自由』が、僕を路地裏に連れ込んでプロテインを飲ませるようなことなら、全力で拒否させてもらうぞ」
「……和彦、さん。これ……広島の、地図、です。……近道、書き込んで、おきました。……2人きりに、なれる場所も」
柏木小鞠が、書き込みだらけの地図を差し出してきた。
彼女の指先が僕の手の甲に触れる。その冷たさと、瞳の奥に宿る湿った執念に、僕は背筋が凍る思いがした。
広島の街に繰り出した僕たちは、表向きは「平和学習」という大義名分を果たしながら、その内側では熾烈なポジション争いを繰り広げていた。
杏菜が僕の右手を握れば、佳樹が左側を固め、檸檬が背中を押し、小鞠が裾を掴む。
観光客の視線が痛い。
「なんだ、あの贅沢な4人組に囲まれた地味な男は」という無言の罵倒が聞こえてくるようだ。
「……ねえ、和彦くん。あっちの雑貨屋さん、寄ってもいい?」
平和記念公園から本通りへと移動する途中、杏菜が僕にだけ聞こえる声で囁いた。
彼女は、佳樹が地図を確認するために足を止めた一瞬の隙を突いた。
「今なら、みんなを撒けるよ。……2人だけで、歩きたいな」
杏菜の瞳が、射抜くような熱を帯びて僕を見つめる。
17歳の男子にとって、それは抗いようのない「誘惑」という名の命令だった。
僕は、彼女の引力に負けて、一歩踏み出そうとした。
だが。
「……逃がさないわよ、西野」
佳樹の声が、僕の背後から静かに響いた。
彼女は顔を上げることなく、ガイドブックを見つめたまま、僕のシャツの裾を正確に掴んでいた。
「……ちぇ、佳樹ちゃん、勘が鋭すぎ」
杏菜が頬を膨らませる。
やれやれ。
広島の街、100万人を超える人口の中でさえ、4人の幼馴染たちが形成する「西野和彦包囲網」に死角は存在しなかった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
お好み焼きのソースの匂いが漂う街角。
僕は、4人の少女たちの熱気に包まれながら、本日何度目かの敗北宣言を呟いた。
修学旅行2日目。
僕の平穏は、広島の平和記念公園に捧げられることもなく、彼女たちの欲望という名の戦場で、完膚なきまでに粉砕され続けていた。




