星空の賞味期限。あるいは、十光年先の僕たちを縛るための、あまりに重い口約束について
結局のところ、旅館の夜というものは、理性の賞味期限を狂わせる。 一階の大浴場から漂う硫黄の匂いと、廊下を走るクラスメイトたちの卑俗な笑い声。そんな非日常の熱気に浮かされ、僕、西野和彦は、一人非常階段の踊り場で夜空を見上げていた。
「……ふう。ここなら、少しはマシか」
そう呟いた瞬間に、背後の暗がりに潜んでいた「影」に、逃げ場を塞がれた。
「和彦くん。……こんなところで、何を一人で『モブキャラの黄昏』みたいなことしてるの?」
羽賀杏菜。 風呂上がりで湿った髪を無防備に晒し、着崩れた旅館の浴衣を纏った彼女は、昼間の太陽とは違う、どこか月の光のような、静かで、けれど抗いようのない引力を放っていた。 彼女は僕の隣に潜り込むと、当たり前のように僕の右腕を自分の体温で支配する。
「……羽賀、じゃなくて杏菜。男子が女子フロアの踊り場にいるのは、風紀委員の佳樹に見つかれば即座に極刑だぞ」
「いいよ、佳樹ちゃんならあそこで檸檬ちゃんと小鞠ちゃんを説教してるもん。……ねえ、和彦くん。星、綺麗だね」
杏菜が、僕の肩に頭を預ける。 「私たち、あと一年で卒業なんだね。……卒業して、大人になっても、今の私みたいにこうして和彦くんの袖を掴んでいられるのかな」
彼女の指先が、僕の浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。 その微かな震えが、僕の「やれやれ」という防御膜を簡単に突き破ってきた。 僕たちは付き合い始めた。けれど、それは同時に「いつか終わるかもしれない」という恐怖の始まりでもあったんだ。
「……西野。そこで何を『時間という不確かな概念』について感傷に浸っているのかしら」
冷徹な声とともに、一ノ瀬佳樹が現れた。 彼女は完璧に着こなした浴衣の襟を正しながら、僕たちの間に、まるで判決を下すかのような厳格さで割って入る。 「杏菜。十光年先の星の光を見て感傷に耽るのは自由だけど、私の計算では、あなたが西野を独占できる時間は今夜の消灯時間までよ。……西野、あなたも。十年後の私たちがどうなっているかなんて、法的な保証は何もない。……だからこそ、今ここで、私にも『何か』を刻ませなさい」
佳樹の琥珀色の瞳が、夜の闇の中で鋭く、そして濡れたように光る。
「和彦ー! 佳樹だけズルいぞ! 十年後のことなんて走ってみなきゃわかんねーだろ!」
和久井檸檬が、浴衣の裾をはためかせながら階段を駆け上がってきた。 彼女は僕の空いている左腕を強引に奪い取ると、僕の耳元で熱い吐息を漏らす。 「私が世界一のランナーになっても、あんたの隣は私の指定席だからな。……忘れるなよ、和彦」
「……和彦、さん。これ……十年後も、消えないインクで……書きました。……タイムカプセルの、地図、です……」
闇の中から、柏木小鞠が震える手で一通の封筒を差し出した。
やれやれ。 旅館の夜。僕たちを包んでいるのは、修学旅行の解放感なんて安いものじゃない。 それは、十年という長い月日を飛び越えて、お互いを繋ぎ止めようとする、少女たちの凄まじい「呪い」にも似た執念だった。
「……ねえ、和彦くん。約束して。十年経っても、二十八歳になっても。……私たちが、どんなに変わってしまっても。……今日、ここでこうしてみんなでバカ騒ぎしてたこと、絶対に忘れないって」
杏菜が、僕の胸元を強く掴んで見上げる。 佳樹が僕の肩に手を置き、檸檬が僕の背中を押し、小鞠が僕の影を踏む。
「……ああ、わかったよ。どうせ、僕の記憶容量はお前たちの思い出でパンパンなんだ。……十年経っても、二十八歳になっても。やれやれって言いながら、お前たちの相手をしてやるよ」
それが、僕が彼女たちに与えられる、精一杯の「永久保証」だった。
夜空に浮かぶ星の光が、十年前の過去を映し出しているのだとしたら。 十年後の僕たちが見上げる空にも、きっと今のこの熱気が、光となって届いているはずだ。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだよな、僕は」
深夜の旅館。 僕は、自分を離さない4人の幼馴染たちの体温を感じながら、十光年先の未来を、少しだけ信じてみることにした。




