厳島神社と、神様も呆れる四重の包囲網について
宮島。日本三景の一つであり、世界遺産。
そんな神聖な場所に、色欲と独占欲を煮詰めたような高校生が数千人も上陸するのだから、神様もたまったものではないだろう。
フェリーを下りた瞬間、僕、西野和彦を待ち構えていたのは、潮の匂いと、観光客の喧騒と、そして「僕を誰が占有するか」という、あまりに殺伐とした無言の圧力だった。
「和彦くん! あっち見て、鹿! かわいいよ、一緒に写真撮ろう!」
羽賀杏菜が、僕の腕を自身のパーソナルスペースへと強引に引き寄せる。
チア部で鍛えた反射神経は、こういう時に遺憾なく発揮されるらしい。
彼女の距離感は、付き合い始めてからというもの、完全に「防衛ライン」を消失させていた。
「……羽賀、いや杏菜。鹿は意外と凶暴だぞ。しおりを持っていかれたら、僕の修学旅行の全日程が詰む」
「大丈夫だって! はい、チーズ!」
強引に自撮りのフレームに収められ、僕の顔が杏菜の柔らかい頬と数センチの距離まで近づく。
17歳の男子にとって、これはもはや致死量の刺激だ。
だが、シャッター音が響くより早く、背後から冷ややかな声が差し込まれた。
「……杏菜。観光地での過剰な接触は、本校の生徒としての品位を疑われるわよ。西野、あなたも。鹿に餌をやる前に、自分の理性に餌をやりなさい」
一ノ瀬佳樹だ。
彼女はガイドブックを片手に、厳島神社の歴史的価値について講釈を垂れるふりをしながら、僕たちの間に物理的な楔を打ち込んできた。
彼女の琥珀色の瞳は、観光名所よりも、僕と杏菜の腕の角度を厳密にチェックしているように見える。
「なあ、和彦。そんな堅苦しいこと言わずに、揚げもみじ食べに行こうぜ! 私、もう店のアタリつけてあるんだ」
和久井檸檬が、反対側から僕の肩を組んできた。
部活を引退したとはいえ、彼女の身体能力は健在だ。
健康的な汗の匂いと、少しだけ短くなったスカートから覗く脚が、僕の視神経を不必要に攻撃してくる。
「……和久井。君たちの食欲と独占欲のバランスはどうなってるんだ。あと、柏木はどこに……」
「……ここに、います。和彦さん。……私は、しゃもじに、願いを書いてきました。……『ずっと、一緒にいられますように』って」
人混みの影から、柏木小鞠がおどろおどろしい執念を感じさせるしゃもじを抱えて現れた。
彼女の祈りは、もはや神頼みというよりは呪術の域に達している気がする。
厳島神社の回廊を歩きながら、僕は深い、深い溜息をついた。
朱塗りの柱と青い海のコントラストは確かに美しい。
だが、僕の視界には、常に4人の少女たちの誰かの髪や、肩や、視線が入り込んでくる。
「……ねえ、和彦くん。楽しい?」
杏菜が、佳樹や檸檬の隙を突いて、僕の耳元で小さく囁いた。
彼女の瞳には、かつての「幼馴染」としての無邪気さとは違う、僕を逃がさないという「恋人」としての湿った熱が宿っている。
「……楽しいよ。胃の痛みが絶え間ないことを除けば、一生の思い出になりそうだ」
「あはは、ひどいな。でも、私にとっては、ここがゴールじゃないからね」
杏菜が僕の手のひらを、一瞬だけ指先でなぞった。
その感触が、電気のように背筋を駆け抜ける。
やれやれ。
世界遺産の鳥居の下で、僕は確信してしまった。
この4人の包囲網は、場所を変えても、関係を変えても、決して緩むことはないのだ。
むしろ、神聖な場所であればあるほど、彼女たちの欲望はより純化され、研ぎ澄まされて僕へと向けられる。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
満ちていく潮。
遠ざかっていく「かつての平穏」。
僕は、自分を囲む4人の幼馴染たちの体温を感じながら、この美しくも残酷な修学旅行を、ただ受け入れるしかなかった。




