修学旅行前夜。あるいは、パッキングされる恋心と幼馴染の包囲網
修学旅行。それは多感な時期の高校生を一箇所に集め、非日常という名のガソリンを注いで着火させる、教育委員会公認の危険行事だ。
出発を明日に控えた学校は、心ここにあらずといった様子の生徒たちで溢れかえっている。
僕、西野和彦は、そんな浮ついた喧騒から距離を置くように、放課後の無人の教室で修学旅行の最終確認事項をチェックしていた。
「……よし。着替え、常備薬、そして現実逃避用の文庫本3冊。完璧だ」
誰にも邪魔されない、僕だけの平穏なパッキング計画。
そう確信した瞬間に、背後から柔らかな重みと、甘いシャンプーの香りが僕を襲った。
「和彦くん、お疲れさま! 明日からの準備、もう終わった?」
羽賀杏菜。
僕の首に腕を回し、背中にぴったりと寄り添ってくる彼女の行動に、もはや躊躇いの文字はない。
付き合い始めてからというもの、彼女は「幼馴染」という最強の盾を「彼女」という矛に持ち替え、僕のパーソナルスペースを更地にする勢いで侵食してきている。
「……羽賀、じゃなくて杏菜。近すぎる。あと、ここは学校だ。誰かに見られたら、僕の修学旅行が始まる前に終わってしまう」
「いいじゃん。だってもう、みんな公認みたいなものでしょ? 明日からは広島だよ。宮島で二人っきりで鹿に餌をあげたり、夜の旅館を抜け出したり……」
「……最後のは完全に校則違反だ。というか、班長の一ノ瀬がそんなこと許すはずがないだろ」
僕の言葉を証明するように、教室の扉がガラリと開いた。
そこには、修学旅行の班別行動表(完全版)を手にした一ノ瀬佳樹が、氷点下の眼差しで立っていた。
「杏菜。西野の背中は座席シートではないわ。早く離れなさい。……西野、あなたも。浮ついた空気に流されて、班全体の規律を乱すのは論外よ」
「……一ノ瀬。僕はむしろ、流されないように必死に踏ん張っているところなんだが」
佳樹は僕たちの隣に座ると、冷徹な手つきでしおりのページを捲った。
彼女の計画表には、秒単位での行動予定が書き込まれている。
だが、よく見ると「自由行動」の項目だけが妙に空白が多く、不自然な付箋がいくつも貼られていた。
「いい、今回の旅行の目的はあくまで『5人の絆』を再確認すること。一部の人間が暴走して、既存の人間関係を破壊することは私が許可しない。……私だって、広島の夜には話したいことが山ほどあるのよ、西野」
佳樹が眼鏡を押し上げ、琥珀色の瞳で僕を射抜く。
彼女の独占欲は、もはや「管理」という名の支配へと昇華されていた。
そこに、部活のジャージ姿のまま、和久井檸檬が飛び込んできた。
「あ、みんなここにいた! 和彦、修学旅行のパジャマ、私と色違いの買ってきたぞ! はい、これあんたの分!」
「……和久井。どうして君は、そうやって他人の部屋着を勝手にプロデュースするんだ。しかも色違いって、それこそ誤解を招くだろ」
「いいじゃん、幼馴染なんだし! 杏菜にも内緒で、夜にロビーで集合な!」
檸檬の直球すぎる誘惑に、杏菜と佳樹の視線が鋭く交差する。
さらに、扉の陰から柏木小鞠が、お守りのような小さな袋を握りしめて僕を見つめていた。
「……和彦、さん。これ……広島、持っていってください。……私、お祈り、してきました。……二人きりに、なれますようにって」
「……柏木。その祈りの矛先が僕に向かっているのが、一番の恐怖だよ」
やれやれ。
明日から始まる広島への旅路。
新幹線の座席割りから、宿泊先の部屋割り、自由行動の行き先に至るまで。
4人の少女たちの執念が凝縮されたこの「修学旅行」が、平穏に終わるはずがないことを、僕は確信せざるを得なかった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
夕暮れに染まる教室。
パッキングされた荷物の中に、僕は一抹の不安と、そして認めざるを得ない微かな期待を詰め込み、カバンのジッパーを閉めた。
17歳の秋、修学旅行という名の戦場が、いよいよ幕を開けようとしていた。




