修学旅行という名の戦場と、恋人の皮を被った幼馴染の誘惑について
17歳の秋は、僕の予想を遥かに超えるスピードで「平穏」という言葉を辞書から抹消していった。
羽賀杏菜と正式に付き合い始めてから数週間。
僕、西野和彦の日常は、バラ色のロードムービー……とは程遠い、緊迫した外交交渉の連続となっている。
原因は明白だ。
僕の隣を「彼女」として占拠する権利を得た杏菜と、それを「あくまで暫定的なもの」として認めない3人の幼馴染たちによる、高度な情報戦とゲリラ戦が繰り広げられているからだ。
「和彦くん、見て! 修学旅行のしおり、もう配られたよ。自由行動、私と二人っきりで回る計画、もう立てちゃった」
休み時間。
僕の机に身を乗り出してくる杏菜の距離感は、もはや公共の秩序を乱すレベルに達している。
チア部で鍛えたしなやかな体が、制服越しに僕の腕へ柔らかく押し当てられる。
……ダメだ。
17歳の男子が、元・幼馴染で現・彼女のこの攻撃を無効化できる防壁など、この世のどこにも存在しない。
「……羽賀、じゃなくて杏菜。自由行動は班単位だろ。勝手に二人っきりのスケジュールを組むのは、民主主義の根幹を揺るがす暴挙だぞ」
「いいの! 佳樹たちにも了解(?)取ってあるし!」
「その『了解』の後ろにあるクエスチョンマークが、僕には凄まじく不穏に見えるんだけど」
僕が溜息をついた瞬間、背後から冷気を含んだ声が響いた。
一ノ瀬佳樹だ。
彼女は「修学旅行の効率的運用」と書かれた自作のバインダーを叩きつけながら、僕と杏菜の間に割って入った。
「杏菜。独占禁止法という言葉を知っているかしら? 今回の修学旅行は、あくまで5人での『幼馴染の思い出作り』が主目的よ。不純な男女の交遊を助長するような単独行動は、班長である私が許可しないわ」
「えー! 佳樹ちゃん、それは職権乱用だよ!」
「……西野。あなたも、彼女の暴走を止める義務があるわよ。……それとも、あんな薄着の格好で他校の男子にナンパされる杏菜を見たいのかしら?」
佳樹の琥珀色の瞳が、冷徹に僕を射抜く。
彼女の独占欲は、最近「正論」という名の武器を手に入れ、さらに手が付けられなくなっている。
放課後。
僕は佳樹たちとの会議から逃れるように、図書室へ向かっていた。
すると、廊下の曲がり角で和久井檸檬に捕まった。
部活を引退して少しだけ髪を伸ばし始めた彼女は、以前よりも「女の子」としての成分が強まっていて、僕の視神経を不必要に刺激する。
「和彦! 修学旅行、海に行くんだろ? 私、新しい水着買ったんだ。……楽しみにしてろよな」
「……和久井、修学旅行で行くのは晩秋の海だぞ。泳げるわけないだろ」
「そんなの、ホテルのプールとかあるじゃん。……とにかく、あんたの視線、杏菜だけに固定させないから」
檸檬は僕の胸を軽く小突くと、照れ隠しのような速さで走り去っていった。
さらには、図書室の隅で柏木小鞠が、僕を見つけるなり顔を赤くして、本で顔を隠しながら近づいてくる。
「……和彦、さん。あの、修学旅行の……夜、少しだけ、お話し、できますか? 誰にも、内緒で……」
「……柏木。その『内緒』という言葉が、どれだけ血なまぐさい騒動を引き起こすか分かってる?」
小鞠は無言でこくりと頷き、僕の服の裾をそっと、けれど離さないという意思を込めて握りしめた。
やれやれ、これだ。
修学旅行という、学生生活最大の「青春爆弾」。
付き合っているというステータスは、彼女たちの闘志に火をつけるための油でしかなかったらしい。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
夕暮れの教室。
4人の少女たちの思惑が複雑に絡み合い、もはや原型を留めていない修学旅行のしおりを見つめながら、僕は深い、深い溜息をついた。
平穏なモブキャラの人生は、この第2部においても、一切の休息を許されないらしい。
けれど、握られた裾の熱や、耳元で囁かれた挑発的な言葉。
それらが、僕の冷え切った自意識を少しずつ溶かしていくのを、僕はもう、嫌だとは思えなくなっていた。
「……まあ、なるようになるか」
僕は、15個目の自由入力キーワードに『修学旅行の悲劇(予定)』と書き加えたい衝動を抑えながら、騒がしい明日に向けてカバンを肩にかけた。




