第6話 狭間
僕ら四人は無事、元の世界に戻って来ることができた。結晶生命体のドロップアイテムの回収は別途冒険者ギルドが対応することになった。
マキノには今回の騒動について説明する必要があると思い全て話した。彼女はソファーに座って話を聞き終えると、安堵した表情になった。
「そう、そんなことがあったのですね……。皆さんが無事で本当に良かったです」
「ありがとう。今度からはこんなことが起きないようにするよ」
マキノの部屋はとてもいい匂いがする。シャンプーと石鹸と柔軟剤の香りだろうか。落ち着く香りに包まれている。そこに女の子特有の甘い香りが混ざり合い、鼻腔を刺激する。なんとも言えない幸せな気分になる。もっとこの香りを嗅いでいたくなる。
窓の方を見ると部屋干ししている洗濯物が見える。可愛らしいパジャマや下着類もあった。履き古した感じのある少し形の崩れたシルク製のショーツが専用のハンガーに吊るされている。ものを大事にするタイプなんだろう。彼女のことが少しわかった気がして嬉しくなる。
僕の視線に気づいたのか、マキノは頬を赤く染めて恥ずかしそうにしていた。
「あの……、あまり見ないでください……」
「あっ、ごめん」
慌てて目を逸らす。しかし、ついつい見てしまう。
「その……、やはり女性の衣類が気になりますよね」
「うん、そうだね」
「男性の方はみんなそうなんですか?」
「まあ、だいたいそうだね」
「やっぱりそうなのですか……、私は今まで男性とお付き合いしたことがないのでわからないのですが」
「そっか」
「はい」
七海とシルバーとレナは長旅の疲れが出たらしく、カーペットの上で眠っている。彼女たちはしばらく起きないだろう。マキノと二人きりになると、なんだか緊張してしまう。マキノと出会って間もないけれど、もうずいぶん長い時間を共に過ごしてきたような感覚がある。彼女に対する好意はどんどん大きくなっている。
「ねぇ、マキノ」
「はい、何でしょうか」
「ちょっと、眠くなってきたんだけど……、膝枕してもらってもいいかな?」
マキノは優しく微笑んだ。
「もちろんですよ。こちらにどうぞ」
彼女はベッドに腰を掛けて乗り、枕の位置で正座した。
「さあ、どうぞ」
僕は仰向けになって彼女の太ももに頭を乗せた。彼女の白くて綺麗な脚はほどよい弾力で柔らかくて気持ちが良い。
(ああ、最高だ)
見上げると、上下逆さの彼女の顔が見えた。マキノの整った美しい顔に見惚れる。思わず笑みがこぼれる。つい彼女をじっと見つめてしまう。
「甘えん坊さんなんですから」
そう言って彼女は僕の鎖骨のあたりを優しく撫でた。そして、そのまま首元まで指先がなぞるように移動していく。ぞくっとする。僕は彼女に触れられた箇所が熱くなったように感じる。マキノの手は温かく、とても優しい手つきだった。まるで愛しいものに触れているかのような。彼女は慈しみに満ちた表情をしていた。僕は心地良い眠りについた。
……
……
……
暖かな重みを感じる。吐息が頬を撫でる。僕はゆっくりと目を開いた。すると、レナが僕の上に覆いかぶさっていることに気づいた。
(あれ?いつの間に……?)
確か、そうだ、マキノに膝枕をしてもらった後に眠ってしまったのだ。きっと、レナが寝ぼけて僕に抱きついて来たのだろう。小柄な割に豊満な胸の膨らみが、僕の胸板に押し付けられている。柔らかさとぬくもりが伝わる。彼女の体温と心臓の鼓動が伝わってくる。白い肌は柔らかそうで艶やかな唇からは規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
「んぅ……ふぁっ」
小さなあくびと共にレナは身じろぎをした。甘い声を漏らす。彼女は腕を背中に回したまま離そうとしない。
「えへへ、キョウタぁ~」
むにゃむにゃと言いながら幸せそうな顔をしている。
(可愛い)
マキノも眠っている……。しばらくこの状態を堪能したいと思ったが、流石にこの状況を七海とシルバーに見られたらまずいと思い、何とかレナの体を引き剥がそうとする。起こさないよう慎重に腕をほどく。
「だめぇ……、行っちゃやだよぉ」
寝言で引き留められる。彼女の腕の力が強くなる。
「ぐおっ」
強い力が加わり、胸がきつく締め付けられる。
「苦しい……」
彼女が無意識のうちに胸を押し当てているせいで呼吸ができない。意識が遠のきそうになる。
(くそっ!なんでこんな目に!!)
僕は必死にもがく。しかし、彼女の力は一向に弱まらない。むしろ強くなっていく一方だ。
「もうダメだ!」
僕は死を悟った。諦めたその時――――
空間の中に黒い闇のような裂け目がバチバチと音を立てて広がっていく。その奥にはすべてを呑み込んでしまいそうな禍々しい底なしの闇がある。そこから巨大な黒い手がニュッと現れ、こちらに向かってくる。突然のことに思考が追い付かない。
(まさか、僕を捕まえる気か!?)
黒い手が伸びて来るのを見て僕は戦慄した。しかし恐怖と混乱に思考回路が支配されてしまい体が思うように動かない。
(このままでは逃げ切れない。せめて彼女だけでも逃がさなければ……)
しかし、彼女は僕を強くホールドしたまま微動だにしない。迫りくる死の瞬間、走馬灯のように過去の記憶が次々と蘇る。それは今まで出会った様々な人々の笑顔の記憶。思い出の数々。そして僕のことを助けてくれた女の子。彼女たちは走馬灯の中で僕に微笑んでくれていた――――
その時であった。アイが部屋に駆け込んできた。青いポニーテールの少女。黒いスーツに身を包み、胸元には地球滅亡管理局のバッジをつけている。いつもクールな彼女にしては珍しく息切れをしている。
「アイ、どうしてここに?」
「説明は後よ。それよりも時間がないわ」
「どうしたんだ」
「時空の裂け目よ」
時空の裂け目は過去に何度か確認されており、その際に中から大量の怪物たちが溢れ出して来たらしい。もし、今度も同じ現象が起きれば大変なことになる。そうなる前に手を打たなければならない。
「とにかく今はここから離れましょう!」
そう言うとアイは印を結び術式の詠唱を始めた。
『天命の理、運命の螺旋、因果律を司る善なる者よ。彼方より願う、汝の力による導きを。我は叫ぶ、汝の力による奇跡を』
部屋全体が青白く輝き始める。彼女の周りを橙色に光るルーン文字が渦巻くように浮遊している。
『テレポーテーション!!』
眩い光が視界を埋め尽くす。あまりのまぶしさに目を閉じた。
……
……
……
(……ここは……どこだ……)
目を開くといつものオフィスにいた。周囲を確認すると、マキノ、レナ、七海、シルバーは床の上でまだ眠っている。隣にはアイがいる。彼女の術式が無事成功したようだ。
「ふう……」
安堵のため息をつく。
「うまくいったみたいね」
「ああ、助かったよ」
彼女のお陰でとりあえずは難を逃れた。アイはめったに術式を使わない。因果律を歪めるほどの強力な力は代償を伴う。彼女は疲れ切っていた。こんなにも消耗する彼女を見ることはめったにない。
「大丈夫か?」
「ええ、少し休めば平気」
「すまない、無理させたな」
「いいの、私がしたくてしたことだから」
彼女の青い瞳を見つめると吸い込まれそうになる。綺麗な青い瞳だった。彼女とは離れ離れになっていた歳月が長すぎる。しかしこうしてまた出会うことができて一緒に働けることは本当に嬉しいことだ。
そんなことを考えていると、突然、彼女は糸が切れたように倒れ込んだ。僕は慌てて抱きかかえる。
「おい、大丈夫か?」
「ちょっと頑張りすぎちゃったかな……」
スーツを着ている割には体つきが柔らかい。女性特有の丸みが感じられた。
(やばい、意識すると変な気分になる……)
自分の中の煩悩を振り払う。彼女は僕の首に腕を回して体を預けてきた。その重みが心地よい。甘い香りが鼻腔をくすぐる。密着した部分が熱を帯びてくる。ドクンドクンと心臓の鼓動が激しくなった。彼女の柔らかな膨らみの感触が布越しに伝わってくる。このまま抱きしめたい衝動に駆られるがなんとか理性を保った。彼女を大切に想うからこそ安易に触れてはいけない。そんな気がしていた。僕とアイの距離は遠い昔に別れてしまった恋人同士のようだった。お互いに求め合いながらも手を伸ばすことはできない。それが今の僕たちの関係なのかもしれない。
……
しばらく沈黙が続く。彼女が僕に話しかけようと口を開きかけた時であった。
『緊急事態発生、緊急警報。エリアX-Cにて時空の歪みを確認しました。至急対応してください』
部屋の中全体にサイレンが鳴り響く。これはただ事ではない、すぐに状況を確認せねば……。僕は窓の外を見る。空に亀裂が入っているのが見えた。時空の裂け目だ。しかもマキノの部屋で見たものと比べて数十倍の大きさがある。少しずつ裂け目が大きくなっていき周りの風景を歪ませていく。
「嘘だろう……」
思わず言葉を失う。この大きさだと何が出てくるのか想像もできない。
(対処できるのか?いや、弱気になってはいけない!必ず何か方法があるはずだ!!)
自分に言い聞かせる。今できることを考えるのだ。アイの疲労具合を見ると今すぐ動くことは難しい。他の者たちはまだ眠っているようだ。起こすしかない。まずはシルバーを起こして事情を説明することにした。
「ん……?どうかしましたか?」
シルバーはすぐに目を覚ます。
「シルバー、急いで準備をして。時空の裂け目が発生した」
「時空の裂け目ですか……、分かりました」
そう言うとすぐに立ち上がった。
(頼れる奴で良かった)
続いてマキノ、レナ、七海の3人も起こした。みんな眠そうにしている。そりゃそうだ、ついさっきまで寝ていたんだからな……。
『時空災害発生区域、エリアX-Cです。繰り返します。時空災害の発生区域は……』
アナウンスが聞こえる。
(くそっ、もう時間がない!)
僕とシルバーは先に走り出し、ビルの屋上に出た。時空の裂け目は広がり続けながら周りを浸食していく。
「シルバー、どうする?」
彼女は少し考えた後、
「対症療法だけでは根本的に解決しないわ……」
と言った。確かにシルバーの言う通りだった。しかし原因がどこにあるのか皆目見当がつかない。一体どうすればいいのだろうか……?
「防衛は他の部隊に任せて、裂け目の中に入りましょう」
彼女は毅然としていた。
「え!?でも危険じゃ……」
「あなたの力があれば問題ないと思うけど……、心配なら私が先に行くわ。私を信じて」
彼女は強い意志を持っていた。その姿は凛々しく美しい。僕の心は激しく揺れ動いた。彼女の気持ちに応えたいと思った。そして僕は決心した。僕は彼女と手を繋いでいた。強く握り返す。彼女の体温が感じられた。僕たちはビルの屋上から飛び立ち、時空の狭間へと足を踏み入れた。
……
……
……
僕らが立っている場所は漆黒の闇に包まれていた。目の前には一筋の光が見える。それはとても眩しく温かいものだった。まるで未来を照らす希望の光のようだった。
つづく