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第24話 ハリネズミ

エミルは真っ直ぐに僕の顔を見つめている。そして、僕はその視線から目を逸らすことができなかった。……見惚れてしまったのだ。僕は彼女の瞳の中に吸い込まれそうになった。まるで深い森の中に迷い込んだかのような不思議な気持ちにさせる神秘的な魅力があった。僕はそれに抗うことができない。彼女の目を見たまま何も言うことができずにいると、彼女は僕の手を握ってきた。それから手を引いて歩き出した。彼女の体温を感じる。柔らかくて温かくて優しい。彼女の手に引かれるままについていく。


しばらく歩くとエレベーターホールに到着した。彼女はボタンを押して待つ。すぐに扉が開いた。僕たちは中に入って1階のボタンを押す。ゆっくりと下降を始める。僕たちはその間ずっと手を繋いだままだった。やがて到着を知らせるチャイムが鳴って扉が開く。僕らはそのまま外に出て正面出口に向かう。


外はもう真っ暗になっていた。……なんだか妙な気分だ。エミルと一緒にこんな時間に帰ることになるなんて思ってもみなかった。……というか夢にも思わなかった。……ただ、彼女とこうして歩いていると心が落ち着いて安らぐ。それは嘘じゃない。僕は素直に認めることができた。彼女は何も言わずに黙々と歩いている。その表情はとても柔らかい。


僕たちは無言のまま駐車場まで歩いてエミルの車に乗り込んだ。彼女はエンジンをかけてヘッドライトをつける。シートベルトを着けると彼女は車を発進させた。ヘッドライトが夜の闇を切り裂いていく。……静かな夜道を走り続ける。……車内は静寂に包まれていた。……でも、別に嫌な雰囲気ではなかった。むしろ居心地が良いという感じだろうか。不思議と落ち着く空間だった。僕はぼんやりとした意識の中で考える。昔、彼女が僕に冷たくしたのは何故だろう……。そして今日、彼女は何故僕を赦したのだろう……。そんなことを考えているうちに眠気に襲われてきた。瞼が重くなる。僕はそのまま眠りに落ちていった。



……

……

……



どのくらい時間が経ったのか……。僕は肩を揺さぶられて目が覚めた。僕は寝ぼけ眼で彼女を見る。彼女は微笑んでいるように見えた。そして、彼女は囁くように優しくこう言った。


「着いたよ……」


僕はハッとして目をこする。……それから車の外へ出る。まだ頭が少しボーっとしている。どうやら、かなり深く眠っていたようだ。少し体が重い気がした。僕は欠伸をしながら伸びをする。それから大きく深呼吸をして新鮮な空気を肺に取り込む。……すると、


「おはよ!」


と声をかけられた。エミルはニッコリと僕に向かって笑いかけた。その笑顔を見てドキッとする。……やっぱり綺麗だ。……彼女の笑顔に見惚れてしまう。


「あ、ああ……ごめん、寝てた。おはよう」


「ううん、大丈夫だよ」


彼女はそう言うと僕の手を取った。僕はビクッとして戸惑う。彼女は構わずに手を引いた。そして僕たちは一緒にエレベーターに乗った。5階で降りると彼女はまっすぐ通路を突き進んでいく。……僕は彼女の後についていった。……やがて彼女の部屋の前までくると足を止める。彼女は鍵を取り出してドアを開ける。そして、こちらを振り向くとニコッと笑って言った。


「入って!」


靴を脱いで玄関を上がる。昨晩見た光景を思い出した。あの時は眠っているエミルを起こさないように注意して歩いたけど……、今はそんな心配は必要ない。……なんだか不思議な気分だ。僕はそう思いながら、彼女に導かれるままにリビングへと入っていった。


……リビングに入ると彼女はソファーに腰掛ける。僕もそれに倣って隣に座った。彼女は少しの間、何も言わず窓の外を見つめていた。そして、ふぅーと小さく息をつくと僕に視線を向ける。


「ねぇ……」


「……なに?」


「……私と君の関係って、もうどうにもならないぐらい壊れちゃってるよね……」


「……」


僕はそれに答えられない。……確かにそうだと思ったからだ。僕たちは互いを裏切り、傷付け合った。それは事実であり変えることのできない真実だった。僕は目を伏せたまま押し黙っている。エミルは僕の様子をじっと見つめているようだった。そして、しばらくすると口を開いた。


「……でもね、私は思うんだ」


「……?」


僕は思わず顔を上げる。そこには笑顔の彼女がいた。……でもどこか哀しげな表情だった。……それから言葉を続ける。


「もっと壊してしまえばいいんじゃないかなって……」


「えっ!?」


僕は驚いて目を見開く。彼女はさらに続けた。


「今更、元には戻れないなら、いっそのこと全部めちゃくちゃにしてしまおうかなって思ったの……」


……僕は彼女の言葉を聞いて呆気にとられると同時に、なんとなく彼女の言っていることが分かる気がした。不器用なんだと思う。僕も彼女も……。だから、きっとお互いに寄り添って生きていくことができないのだ。僕らはどこまでも孤独な生き物なのだ。……僕たちは似ている。


「そっか……」


僕は呟くように言った。彼女はそれを聞いて静かにうなずく。そして少し間を置いて、ゆっくりと話し始めた。


「……それで、これからどうしようか? 私の家に来てもらったんだけど、特にすることもないよね……。……あ、そうだ! 夕飯がまだだったよね。何か作ろうか。……食べたいもの、ある?」


彼女は笑顔を浮かべてそう訊いてきた。その様子からは先ほどの哀しい表情は消え去っていた。僕は戸惑いながらも返事をする。


「じゃあ……オムライスが食べたいな」


「了解! ちょっと待ってて!」


彼女は嬉しそうにそう言うとキッチンの方へと向かった。そして冷蔵庫を開けて材料を確認してから調理を始めた。トントンとリズミカルに包丁を刻む音が聞こえてくる。僕はぼんやりとその姿を眺めていた。しばらくして彼女はフライパンを手に取ると、バターを引いて卵を焼き始めた。ジューという食欲を誘うような音と共に香ばしい匂いが漂ってくる。……僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。



……

……

……



ふぅ……美味かった。僕は満足感に浸りながらスプーンを置いた。……それから目の前で同じように食事を終えたエミルを見る。


「ごちそうさま!」


「うん、お粗末様です。……どうだった?」


「凄く美味しかったよ!」


「本当? よかったぁ!」


彼女は満面の笑みを浮かべる。僕はそんな彼女を見て微笑ましい気持ちになった。


「じゃあ、食器片付けちゃうね」


「あ、うん。ありがとう」


彼女はそう言って立ち上がると食器を持って台所へと向かっていった。……僕は彼女の後ろ姿を見ながら少し考える。昔、皿洗いのことで彼女と喧嘩したことを思い出した。




***

「怒ってる?」


「……」


「ねぇ、エミル……、なんで怒ってるの?」


「……別に怒ってないわよ」


「いや、明らかに不機嫌だよね……」


「……だから、本当に怒ってないってば」


「じゃあ、こっち向いて」


「……」


「僕が食器を洗うのが不満なの?」


「……めんどくさ……」


「いや……違うんだ……。そうじゃなくて……あのさ……」


「なに?」


「どうして怒っているのか教えてほしいんだ」


「……そんなの、言わなくても分かるでしょう」


「分からないから聞いているんだよ」


「……君に洗ってほしくないのよ。二度手間になるから」


「えっ!? 」


「聞こえなかった? もう一度言うけど、私は君に食器を洗わないでほしいの。分かった?!」


「……よく分かんないんだけど」


「……君が洗うと洗い残しとかすすぎ残しがあるから、結局私が洗うことになって二度手間になるのよ!!」


「そうかなぁ……? ちゃんと綺麗に洗ってると思うんだけど」


「いいえ、洗ってない。君は洗ってるように見せかけてるだけ。ほら、この汚れなんて全然落ちていないでしょ。こんなの洗ったうちに入らない!だいたい、君の洗い方は乱暴すぎるのよ! 力任せにゴシゴシと擦るだけで、洗い方の基礎がなってない!……こんなんでよく一人暮らしできたわね! 今までどうやって生きてきたわけ!?」


「……僕だって、皿洗いくらいできるよ!」


「ふん、どうだか!」

***




彼女は、僕のために紅茶を用意してくれた。


「はい、どうぞ」


「あ、ありがと……」


僕はそれを受け取って一口飲む。そして、ふぅーと息をついた。



つづく

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