第23話 鼻くそ健康法
翌日、僕は久しぶりに地球滅亡管理局の本部ビルに出社した。エミルも今日から本部に出社だと思う。彼女と顔を合わせるのが怖い。僕は自分の席に座る。しばらくすると七海が出社してきた。
「おはよう。久しぶりだね、京ちゃん。出張はどうだった?」
「あ……、ああ……、そうだな……、結晶生命体のドロップアイテムが手に入ったし、お金もかなり貰えそうだ」
「そっか、良かったじゃん!」
七海はいつものように明るく返事をする。だが、昨日のエミルのことが頭から離れない。
(そうだ……、あれは一体、なんだったんだ……。あのとき彼女は寝言で僕の名前を呼んでいた。そして好きだと言っていた……)
「ねぇ、京ちゃん、なんか疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
七海が僕の目を覗き込むようにして言った。
「えっ、……そ、そうか、ちょっと寝不足気味だからかな……」
「ふーん、そっか……、あんまり無理しない方がいいよ」
(エミルがあんなこと言うから……、僕は全然眠れなかったんだよ……。まったく……、『だいすきだよ、きょうた』なんて言いやがって……)
僕は彼女に陥れられた過去を思い出して彼女に対する怒りが沸々と込み上げてくる。……しかし一方では、なぜだか妙な期待をしてしまう自分がいるのだった。僕は彼女の寝顔を見ていたときの感情を思い出す。彼女のことを憎んでいるはずなのに、眠っていれば、あどけない可愛い少女にしか見えなかったのだ。
そのとき突然、机の上に置いてある僕のスマホが鳴った。僕はドキッとする。恐る恐る画面を見る。……そこにはエミルからのラインの通知が表示されていた。僕は慌てて内容を確認する。
『今日、会える?』
心臓が止まるほど驚く。だが、その短い文章からはエミルの意図は読み取れない。僕は少しだけ冷静さを取り戻し、エミルのメッセージを眺める。そして考える……。彼女の不敵な笑みが脳裏に浮かぶ。彼女が僕を陥れた日のことを思い返せば、彼女がいかに悪魔のような女なのかがよく分かる。彼女は悪辣な魔女であり冷酷な死神なのだ。僕は彼女を心底嫌っている。そのはずだ。……しかし同時に彼女は、とても可愛らしく魅力的な女性であるようにも思えるのだった。……本当は嫌いではないのではないか? それどころかむしろ……。
彼女のことを考えていると胸が締め付けられるような気分になる。まるで彼女の存在自体が呪いのようだ……。ダメだ。考えれば考えるほど分からなくなる。こんな状態で彼女に会ったら、また、彼女の掌の上で踊らされるに違いない。しかし、一方で僕はこう思う。彼女のことを無視することで逆に、より一層、気にかかってしまうのではないかと。それは結局、彼女の術中にハマってしまうことなのではないだろうか。僕はしばらく悩んだ後で答えを出した。そして送信ボタンを押す。
『今日は会えない』
しばらくして既読がついた。だが、そのメッセージに返信は無かった。
(まぁいい。しばらくは放っておけばいいだろう……)
彼女のことは忘れて仕事に集中すべきだ。
「七海、手伝ってほしい仕事があるんだけど……」
そういって僕は彼女に結晶生命体のドロップアイテムのことやサクヤさんが元いた世界のことを話した。当面の目標は異世界からの侵略者に関する情報を集めることと対抗する戦力を増やすことだと説明した。一通り話をしたところで、彼女は納得した様子だった。
僕たちは仕事にとりかかった。
……
……
……
僕は眠い目を擦りながらなんとかその日の業務を終えると、しばらく食堂で休むことにした。夕方の食堂には誰もいないので広く使えた。食堂の端にあるテーブルに着くと座ったまま目を閉じた。このまま眠ってしまいたい……。
……
……
……
……どれくらい時間が経ったのか分からない。誰かの声を聞いた気がして僕はハッと飛び起きた。辺りを見回す。
そこに居たのはエミルだった。彼女は僕の向かい側の席に座っている。彼女は僕の方を見てニコッとした。……なんなんだコイツは。どうしてここに居るんだ? いつから僕のそばに座っていたんだろう。……全く気づかなかった。
彼女の表情は明るい笑顔だが瞳は暗く冷たい。……相変わらず僕を小馬鹿にしたような目つきだ。
しばらく無言の時間が流れる。やがて沈黙を破ったのはエミルの方だった。
「京太……、私ね……、君に話したいことがあるの……」
僕は彼女の方をジッと見る。すると彼女も真剣な眼差しをこちらに向けた。……どうやら真面目な話のようだ。僕は身構えた。
「昨日の夜のことだけど……」
……まさか昨日のことがバレてしまったのだろうか。……だとしたら、非常にマズイことになるかもしれない。
「君……、私が寝ている間に何かしたでしょ?」
エミルは探るような視線を向けてくる。僕はドキッとする。……やはり昨夜のことを聞かれている。僕は平静を装う。……しかし動揺を隠せない。
「なっ、何の話?」
僕は冷や汗を流しながら目を泳がせる。そんな僕の様子を見て彼女はニヤリと笑う。そして言った。
「……私のユニークスキル知ってる……?【過去視】っていうのよ」
エミルは自慢げに微笑む。僕は言葉を失う。……なんてことだ。僕は彼女を完全に見誤っていたらしい。まさかこんなことになろうとは……。僕は自分の迂闊さを悔やむ。彼女は続けて話す。
「だから私は、君が何をしていたか分かるんだよ」
そう言うとエミルは勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せた。彼女の目は僕の心を覗き込むように真っ直ぐに見つめてくる。その緑色に光る双眼が不気味に輝く。そして僕の顔を見ながら、さらに続けた。
「私のスキルにも限界はあるから全部は見えないけど……、それでもある程度なら過去を見ることができる。例えば、そうね……。君は私の洗濯かごの中に脱ぎ捨ててあった下着の匂いを嗅いでハァハァして興奮していた。……それでその後、君はベッドの横で私の寝顔をずっと眺めていたでしょう……、でも結局、襲わずに終わったようだったわ。……なぜかしら? なぜ途中で止めたの?……ねぇ、どうして?」
彼女は妖艶な笑みを見せる。まるで挑発するような態度だ。
「そ……それは……」
……僕は答えに窮する。それは当然だ。彼女の言っていることは全て真実なのだから。……つまり僕の行動はすべて彼女に筒抜けになっているということだ。下手な嘘は通じない。……どうすればいい?……。僕は焦燥感を募らせた。
彼女はクスッとして、それから少し意地悪そうな口調で話を続けた。
「あぁ~、これはいけないことをしているなぁ、この人は変態なのかなぁ、って思ったわ……。だって、そういうことでしょう。君のやったことは……。でも不思議よね……、だってさ、ほら、あるじゃない。女の子が眠っている隙にイタズラしちゃうとか。普通そう思うじゃん?」
僕は彼女の言葉を聞いて胸の奥が苦しくなる。顔が熱くなって鼓動が激しくなる。心臓が破裂しそうだ。……しかしその一方で頭の中だけは妙に冴えていて、ある考えが閃いた。
(……待てよ。……そう言えば、これは彼女も知らないんじゃないか?)
そう思って、僕は呼吸を整えた。そして話を切り出した。僕は、彼女の目を真っ直ぐに見て、それから落ち着いた声でゆっくりと話し始めた。……なるべく丁寧に話すことにしよう。僕は彼女の目を見て告げる。
「……君が……、鼻くそを食べていたからだよ……」
…………
……………………
………………………………
沈黙の時間が流れる。彼女は呆然とした表情で僕を見つめたまま微動だにしない。僕たちはお互いに相手の目を見ている。彼女は無表情のまま何も言わない。僕にはそれが何を考えているのか分からない。僕は彼女をただ黙って見ていた。……彼女はやがて口を開いた。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。……いよいよ判決が下される……
「 ……はぁぁああ?! ふざけんな!! 誰が鼻くそ食べるかぁ!!!」
彼女は大声を上げると勢いよく立ち上がった。椅子が大きな音を立てて後ろに倒れる。僕は驚いて目を見開く。彼女は鬼のような形相をしている。怒りに満ちた表情だ。……やばい、完全に怒った。僕は恐怖のあまり固まってしまう。
エミルは僕を睨んでいる。その瞳は激しい憤怒の色に染まっている。僕は気圧されて思わず一歩後退する。
彼女はテーブルをバタンッと強く叩いたかと思うと、次の瞬間、テーブルをひっくり返した。ガシャンという大きな音が食堂に響く。
彼女は肩を上下させて呼吸を繰り返している。僕は驚きながらも彼女の様子を観察している。
刹那、彼女は僕との間合いを一気に詰めると、右手を大きく振りかぶった。直後、僕の顔面に強い衝撃が走る。僕はそのまま床に転げ落ちた。視界が大きく揺れる。……痛い。僕は鼻を手で押さえる。……どうやら殴られたようだ。僕はよろめきながら立ち上がる。……ふらついて倒れそうになるのを堪えてなんとか踏みとどまる。彼女は息遣いを荒くしながら近づいてくる。
「……私が鼻くそを食べる?……ふざけんじゃねぇよ!!」彼女は叫んだ。
その迫力は凄まじかった。僕は身の危険を感じて後ずさりする。彼女は僕を追いかけるようにして迫ってくる。
「おい、エミル!食堂には監視カメラがついているぞ!お前も懲戒処分になりたいのか?!」僕は慌てて叫ぶ。
「うるせぇ!知るかボケェ!てめーは私の下着で興奮する変態野郎だろうが!そんな変態に言われたくないんだよぉおお!!」
……まずいな。……これは本格的に怒ってるみたいだ。僕はどうしたらいいんだ?……。……仕方がない。
「あぁ……、その通りだよ、僕は変態だ!」…………
沈黙。そして……
「は?」
エミルは怪しみの眼差しを向けてくる。僕の真意を探るようにジトっとした視線を僕に向けている。……僕は覚悟を決めた。……もう隠すことはできない。僕はそう判断すると、彼女の方を向いて真剣な面持ちで告げた。
「……僕は君の下着の匂いで興奮する。確かにそうだ……、本当は……僕は君のことを嫌ってなんかいない……。僕は……、君のことを愛しているんだ!」
彼女は唖然として言葉を失う。僕たちの目が合う。お互いの意思を確認し合っているような気がした。
……長い沈黙の時間が流れる。……僕は彼女の答えを待つことにした。
彼女は少しだけ顔を赤らめてうつむく。そして恥ずかしそうに下唇を強く噛んで目を伏せた。それから、しばらくして顔を上げた彼女は何かを言いたそうな表情を浮かべた。僕はそれを見ると静かに深呼吸をした。緊張している自分がいることに気づく。
「私は……」
……彼女は少し躊躇いながら口を開く。しかしそこで言葉を止める。彼女はそれから大きくため息をつく。
「ふぅ……」
「…………」
「……ねぇ……、一緒に帰らない?」
彼女は唐突にそう言った。僕が困惑していると、彼女はもう一度、言葉を繰り返した。
「……一緒に帰ろうよ」
彼女は笑顔だった。そしてとても嬉しそうだった。
つづく




