第10話 戦いの後
体が温かい。まだ鼻水が出るけど、それは免疫システムがウイルスと戦った結果だと考えるとむしろ誇らしいくらいだ。こんなに素晴らしいことってあるだろうか!これで僕の人生に光が差し込んだのだ!
僕が電話ボックスに近づくと、ジリリリリンと音が鳴り響く。
受話器を取ると、僕の体は消えていった。
◇◇◇
現実世界に戻ると、知らない天井が見えた。でも、少し視線を下げるとよく知っている女の子の顔が見える。
「よかった……、京太さん!」
アイは涙を流していた。珍しくスーツを脱いで下着姿になっている。僕を温めるためだろう。
僕は彼女に抱きしめられていた。彼女の温もりが全身に伝わる。その心地よい感触に思わず僕も彼女をぎゅっと抱き返した。アイは泣いているので顔が濡れている。涙で潤んだ青い瞳を見つめているうちに胸の奥がざわめき始めた。今まで経験したことのない感情が湧き上がってくる。僕はなぜか無性に彼女に触れたくて仕方がない。僕は彼女の頬を優しく撫でた。
それから僕はアイの頭を包み込むように両手で引き寄せ、そのまま唇を重ねた。初めてのキスだったけれど、とても自然にできた。僕はさらに強く唇を押しつけると、今度は彼女の方からも僕を求めてきた。
「ん……」
アイは苦しそうに喘いだが、僕はかまわず舌を差し入れた。くちゅくちゅと音を立てながら何度も角度を変えて口づけを繰り返す。彼女の柔らかい唇を貪りながら、唾液を交換する。
「ぷはぁっ!」
息が続かなくなって口を離すと、銀色の糸が二人を繋いだ。アイはトロンとした目で僕を見る。
「ふぅ……、京太さん……、好きです……」
「僕も好きだよ……」
再び熱い吐息を交わし合う。そして、お互いの体を愛おしむかのように、ゆっくりと指先でなぞっていく。
「京太さん、好き……。大好きです……」
「アイ、僕の方こそ君を愛している」
彼女は顔を真っ赤にしながら、恥ずかしそうに目を伏せた。そんな仕草がたまらなく可愛い。
「あの、でも、もうすぐねこみみちゃんがここに来るかもしれません。だから今はダメなんです。ごめんなさい……」
「わかった」
もう一度だけ軽く触れるだけのキスをして離れると、僕は言った。
「早く服を着てくれないか?」
「えへへ、照れてるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
「それならいいですけど」
そう言うと、アイは恥ずかしそうにしながらもゆっくりと立ち上がって、スーツに着替え始めた。
「京太さん……私、すごく心配しました。呼びかけても全く反応がなくて……」
彼女は目にうっすらと浮かべた涙を拭いながら話す。
「ごめんな、心配かけて……」
僕がそういうと、突然、部屋にあるモニターの電源が入り、画面にねこみみちゃんの姿が映った。
『京太さん、無事、現実世界に戻ってこれましたね』
「ねこみみちゃん!」
僕は嬉しそうな声を上げた。
「ねこみみさん、本当にありがとうございます。京太さんを助けてくれて」
アイは深々と頭を下げて礼を言う。
『いえいえ、お役に立てて良かったです。それよりも京太さんはまだゆっくり休んでいてください。ウイルスを倒したとはいえ、まだまだ油断できませんから』
ねこみみちゃんは笑顔で言う。
「ああ、そうだな。マンションに帰ってもうしばらく休むことにするよ」
『はい。それから……、今度また仮想世界に遊びに来てくださいね?待ってますから!』
「うん、必ず行くよ」
『はい、お待ちしています!』
ねこみみちゃんは礼儀正しく頭を下げた。彼女の姿が画面から消え、モニターの電源が落ちた。
「じゃあ、帰るとするかな……、んー、でも、まだ体が怠いな……」
「あ!京太さん、まだ無理しないでください!ウイルスを退治できてもまだ完全には治っていないんです。私が車で送りますから!」
アイの言葉に甘えて僕はアイの運転する車に乗って家まで送ってもらった。
「京太さん、お大事に」
「ありがとう」
「それではまた」
アイは運転席から顔を出してそう言うと、車を発進させた。
「またな」
僕は車が角を曲がるまで見送った。その後、僕は自分の部屋のベッドで横になりながら考えた。
――僕とアイの運命は、いったいどこへ向かっているのだろうか。彼女は僕が危険なことに巻き込まれるといつも駆けつけて助けてくれる。今はアイが側にいないだけで心細い気分になる。しかし、僕はあまり彼女の力になれていない気がする。彼女とは長い付き合いのようで、実はまだまだ分からないことも多い――
そんなことを考えながら、僕は体力を回復させるため、眠りについた。
◇◇◇
朝になった。体調はすこぶる快調だ。そして、幸運にも今日は土曜日でこれから二連休だ。
(よし、お腹が空いてるし、買い物にでも行くか)
僕は身支度を整え、近所のスーパーマーケットに向かうことにした。一週間ずっと寝ていたから、食料がほとんどないのだ。
スーパーマーケットまで歩いて20分。僕は歩き慣れた道を進んだ。目的地に着くと自動ドアを通り抜け、店内に入った。
(こういうときは、温かいうどんがいいよな)
などと考えながら、買い物カゴを持って店内をうろつく。
「あ、キョウタ!」
不意に声をかけられたので振り返ると、そこには笑顔がよく似合う可愛い女の子がいた。橙色の髪に薄紫色の瞳、背丈は低く、幼い顔立ちの割に胸は大きく膨らんでいる。服装はパーカーとショートパンツというラフなものだったが、それが彼女の可愛らしさをより際立たせていた。
「レナ!久しぶりだな」
「うん、久しぶり」
「元気だったか?」
「もちろんだよ。キョウタも元気そうで良かった」
レナは僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「まぁ、なんとか生きてるよ、ところで今日は七海と一緒じゃないのか?」
彼女は七海の家で暮らしており、家事全般を担当していると聞いている。空き時間は七海の集めた映画を見たり、ゲームをしたりして過ごしているようだ。
「うん、今日は私だけで買い物。今夜は鍋にしようと思って、いろいろ買いに来たんだ」
そう言ってレナは楽しげに笑った。
「へぇ、レナが作った鍋か、食べてみたいな」
「え!?ほんと!じゃあ、今晩、ウチに来る?みんなで食べると楽しいと思うんだけど……」
レナの瞳がキラキラと輝いた。
「ああ、それは名案だ。是非ご馳走になろうかな」
僕が答えると、彼女は嬉しそうな表情を浮かべた。
「わーい、やった!」
その無邪気な姿はまるで子供のように愛らしく見えた。
(なんか、犬みたいで可愛いな。)
僕たちはレジに向かい会計を済ませた。僕は買い物袋を片手に持ちながら、隣を歩くレナを見下ろした。レナは両手に荷物を持っていた。
「持つよ、片方貸してくれないか?」
「え……でも……」
「いいから、遠慮するなって」
「うん、ありがとう……」
レナは照れくさそうに微笑むと、僕に持っていたスーパーの袋を一つ渡してきた。すると彼女は空いた手で僕の手を取った。
「おい、どうしたんだよ」
「あのね……手、繋ぎたいなと思って」
彼女の小さな手から彼女の体温が伝わってくる。
「……手を繋ぐくらいなら、いつでもやってやるよ」
「うん……、ありがとう」
彼女の柔らかい手の感触が、彼女の温もりが、僕には心地よかった。
「ねえ、ちょっと寄り道しようよ!」
「うん、いいけど、どこに寄るんだ?」
「ん~、秘密!」と言って、彼女は楽しそうに笑った。僕はレナに手を引かれ、街を歩いていく。
……
しばらく歩くと僕は近所の公園に連れてこられた。
「はい、到着です!」
「到着って言われてもな、ただの公園じゃないか」
「そうだけど……ほら!ここに座って」
ベンチを指差しながら、レナは僕に言った。僕は彼女に言われるがまま腰かけた。
「なんだ、何かあるのか?」
「うん!いいから座ってて!」
彼女があまりにも楽しそうにしているので僕も思わず期待してしまう。
……
少し待っていると彼女が缶ジュースを買って戻ってきた。
「はい、これあげる!」と言って彼女はオレンジジュースを手渡してきた。
僕はそれを受け取ると、「サンキュー、ちょうど喉が渇いてたところだ」と言いながら蓋を開けて一口飲んだ。
レナはその様子をニコニコと見つめている。
「ふぅ、美味いな」
冷たい液体が身体に染み渡るような感覚だ。彼女はというと、買ってきたばかりの温かいお茶を手に持っている。束の間の沈黙の後、僕は彼女を見て訊いてみた。
「で、どうしてこの公園に連れてきたんだ?」
「えっと、その……特に理由はないの、二人きりになりたかっただけ」
そう言うと彼女は困ったような笑顔を見せた。その顔はとても可愛くて、抱きしめたくなるほどに愛おしかった。
「そっか、二人で散歩か……」
僕は自分の気持ちを抑えながら言った。
「キョウタ……」
「ん、どうした?」
「ううん、なんでもない」
彼女が首を横に振ると、再び沈黙が訪れた。すると、彼女は僕の手に自らの掌を重ねた。その仕草が妙に可愛らしく見えて、ついドキドキと胸が高まるのを感じた。彼女の顔を覗くと頬を真っ赤に染めていた。薄紫色の瞳が僕をジッと見つめている。その潤んだ瞳に引き込まれるように、僕の心は彼女へと引き寄せられる。彼女の唇は艶やかに濡れていた。それがとても魅力的に見える。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
「レナ……」
僕は無意識のうちに呟いていた。
彼女はビクッとして目を逸らすと俯いた。そして消え入りそうな声で囁いた。
「キョウタ……私ね……」
彼女はそこで言葉を切ると黙り込んでしまった。何とも言えない気まずい空気が流れる。
「あ、あのさ、キョウタは……私のことどう思ってるの?」
突然の質問だった。彼女の声が震えているのが分かった。
「ど、どういう意味だよ……」
僕は動揺して言葉を詰まらせた。
「そのままの意味……」
彼女の表情が強張っているのが分かる。僕たちはお互いに視線を合わせたまま動けずにいる。心臓の鼓動が激しくなるのを感じる。彼女を見つめると、薄紫色の瞳は不安げに揺れていた。僕はそんな彼女を安心させたいと思った。無意識のうちに、吸い寄せられるように彼女との距離を縮めていく。そして二人の距離がなくなった時だった。
―――ゴホンっ!!! 突然背後から咳払いが聞こえてきたので、慌てて振り返るとそこには七海の姿があった。
「お前、いつからそこに居たんだ!?」
「ずっといたよ?それより……、何をしようとしていたの?」
金色の双瞳は僕を射抜くように輝いていた。
「別に何もしていないぞ」と、僕が答えると、
「そう……、でも、まだ早すぎるんじゃない?」と彼女は言って、レナの方を見た。
レナは顔を赤くすると下を向いてしまった。
「七海、ごめん……」僕は素直に謝った。
「うん、分かればいいんだよ、分かってくれれば」と言って、彼女は笑みを浮かべた。
「ところで……、今日の夕ご飯は何にするの?」七海はレナに訊いている。
「今夜は鍋にしようと思って、さっきスーパーで材料を買ってきたの」レナは笑顔で答えた。
「へぇ~いいじゃん!楽しそう!」と、七海は嬉しそうに言うと、僕の方を見て「京ちゃんも一緒に作るの手伝ってくれるよね?」と言った。
「ああ、もちろん手伝うよ」と僕が答えると、レナが「やったぁ!」とはしゃいでいた。
僕たち三人は七海とレナが暮らす一軒家に向かった。
つづく




