【王族転生】
一年前。駅前中央デパート五階、ゲームコーナー。
先ほどまで彼女を打ち倒そうとしていた挑戦者達は、尽くその気概を失ってしまっていた。黒木田レイは柳眉を下げる。
「……困ったな」
レイも、このような野試合に彼女と戦えるような転生者が現れると信じていたわけではない。
それでも二人を同時に相手取って勝ってしまった以上、次は一対三のハンデを与えても良いと思っていたのだが。
「もう誰もいない? こんな天才美少女中学生転生者と戦える機会なんて、なかなかないのに。ふふふ」
この年に表舞台に現れた黒木田レイは、瞬く間に新人中学生異世界選手権大会を優勝している。新人限定の大会とはいえ、紛れもなく中学最強の称号を持つ一人であった。
圧倒的なまでの強さの理由が、彼女の過去にあったとすれば……
「レイさァん」
声があった。筐体の影の暗がりである。
「こんなところで遊んでいて構わないんですか?」
「――銅か。きみこそ暇だね」
ゲームコーナーのギャラリーから隠れる位置に、学生服の少年が直立不動で佇んでいる。
レイがかつて所属していた組織――アンチクトンの転生者、銅ルキという。
「そんなに暇なら、きみがぼくと戦ってみるかい?」
「ご冗談を。シミュレーター上ならばともかく、もう我々は実戦過程です。Dメモリ使い同士の異世界転生はご法度ですよ」
「ぼくはもう組織を抜けたし、【悪役令嬢】だって返上した。問題はないさ」
「……そのことについて、あらためて意思確認のために来たとお考えください」
死んだ魚の如き虚ろな目が、ゲームコーナーの照明を反射した。
「アンチクトンには、莫大な資金源があります。ドライブリンカー関連の特許権の一部は、ドクターの所有ですからね。身寄りのないあなた一人に、今後も援助を行い続けられるだけの資金的余裕は十分にあります――よって問題は額の大小ではなく、用途についてであるとお考えください」
気怠い様子で、ルキはレイを指差す。
「組織を抜けた無関係者には、いつまでも援助を継続することはできないということです。まァ。脅迫のような物言いになってしまいましたが、当然の組織的判断でしょう」
「……そっか。仕方ないよ。そうなるのは当たり前だ。ドクターには……今まで育ててくれてありがとうって伝えておいて」
「これからどうされるおつもりですか?」
「そうだなあ……ぼくは天才だし、異世界転生の賞金で暮らしていこうかな? あと、そうだ。これだけ可愛いんだから、雑誌モデルにだってなれるかもしれない。ケーキ屋でアルバイトもしてみたいな……」
「……レイさん」
「ふふふ……多分野垂れ死ぬさ」
世界を滅ぼしたくない。【基本設定】のCスキルがありながら、何も捨てるもののない人造転生者でありながら、取り返しのつかない罪を犯すことを恐ろしいと思ってしまった。
アンチクトンにおける訓練の日々。異世界転生の基礎戦術課程で水準以上の優秀さを示しながら、レイはDメモリを実戦で扱う段階にまで進めなかった。
彼女は、自分自身を失敗作であったと判断している。どの道切り捨てられる以外の道がないのならば、せめて普通の少女としての自由を謳歌した後がいいだろう。
「外の転生者と戦うのが楽しみだったけど、きみ達と比べたら全然歯ごたえがないや。この前の大会だって、なんとなく勝っちゃったし。あとは……関東最強の外江ハヅキでも倒して、それで終わりにしようかな」
「組織を抜けたというのに、何故まだ異世界転生を?」
「好きだからさ」
レイは、目を細めて笑った。生まれてからそれしか与えられていなかったのだとしても、それだけは確信を持って言えた。
自由を得た後でも、彼女は異世界転生を続けている。
「好きだから、滅ぼしたくないんだ」
その会話から僅か三日後、そんな彼女の世界は崩れ去ってしまう。
二度と取り返しのつかないほどに。
――――――――――――――――――――――――――――――
「ウワアアアアアーッ!」
「勝ったぞ! チャレンジャーが勝ったッ!」
「嘘だろ……相手はあの黒木田レイだぞ……!」
転生レーンより姿を現した少年は、手の甲で額の汗を拭う。
鋭い、氷めいた表情のままだが、それでも今しがたの一戦の興奮と緊迫が残っているのが分かった。
喧騒鳴り止まぬ中、少年は対戦相手を振り返る。
黒木田レイは押し黙ったまま前方の床に視線を落としていたが……その視線に気付いて、何事もなかったかのように笑みを作った。
首の辺りで二つ結びにした、細く長い黒髪。中学生離れして端麗な容姿。この年の中学生異世界選手権大会優勝者、黒木田レイ。同年代の転生者に、この可憐なる新星の名を知らない者はいないだろう。
「――すごいね。見事な転生だった。まさか……このぼくが負けるなんて、思ってなかったよ。ぼくが……そっか、負けたんだね……」
「運が味方しただけだ。【王族転生】を読んでのシークレット【政治革命《ポリティカルR》】か……これほど強い転生者が、まさか外江の他にもいたとは思わなかった。一手誤れば、負けていたのは俺だ」
「そう。ふふふ、楽しんでもらえたみたいで、何よりだな……」
「……お、おい」
レイを打ち負かした少年は、そこで狼狽えた。初めて見る物に困惑していた。
「……どうしたの?」
「貴様……泣いているのか? 気の障る事を口にしていたなら、謝罪する……」
「……え?」
レイは、自らの頬に触れた。温かな雫が指を濡らすのが分かった。
「あ、あれ?」
気付いていなかった。
この程度の……アンチクトンとしての責務も負わない、遊びの異世界転生で負けただけで。
「お、おかしいな……ふ、ふふふ。ごめん、ぜ、全然、なんでもないんだ。困ったな……なんでだろ……おかしいよね……」
「だ、大丈夫か……急病などではないか?」
「ぜ、全然……う、あ……平気、平気だから……」
泣いているわけではないのに、いつものように余裕の微笑みを作ることができているのに、涙を止める術が分からなかった。
顔を覆う掌でも止めることができなくて、レイの上着の袖までが濡れた。
外の世界に出てから、一度も負けたことがない。黒木田レイは天才だった。
強い喜びも悲しみもなく、天才が当然そう定められているように、異世界転生を戦えば必ず勝つようになっているのだろうと思っていた。
アンチクトンの外では勝利の喜びが起伏のない繰り返しだったとしても、手を伸ばせばいつでもそこに置かれている勝利だけが、その他の何も持っていないレイを保証する、確かなものだった。
「な、なんで……?」
「……」
「なんで、ぼくは、負けたの、かな……?」
レイは笑いのような顔で呟いた。感情を処理することができていなかった。
「……序盤だ。貴様は蛮族の国家に対し和平交渉を行った。結果として貴様の勢力は拡大し、多くのIPを獲得したが……効率で言えば和平でなく殲滅を選ぶ方がタイムロスは少なかったはずだ。紙一重で俺と貴様の明暗を分けたものがあるとしたら、あるいは、その時間だろう」
「そ……」
東方から人里を脅かしていたオークの小国家。取るに足らぬ存在だった。配下に加えた召使の実力披露の機会に変えることも、和平を選んで度量と慈悲をアピールすることもできた。
天才であるレイは、いつも気分の赴くままに選択して、そして勝ってきた。
「……そんなことで?」
「貴様の転生スタイルには優しさがある」
その言葉が、レイをひどく打ち据えた。
――優しさ。
そうだったのかもしれない。彼女はDメモリを返上してなお、人を傷つけることを無意識のうちに恐れていたのかもしれない。
内政型のデッキで対戦相手の動きを縛り、無血でIPを稼ぎ、現地の人間の力で世界救世を果たす。天才であるレイは、気分の赴くままに戦っても、勝つことができた。
優しさ。そんな取るに足らないことに足を取られて、初めて負けた。
「ち、違う……ああ……こうじゃない……本当は、こんなじゃないのに……か、かっこ悪いな、ぼく……」
レイは、再びその銀髪の少年を見た。憎悪に近い気持ちだったのかもしれない。
勝利を初めて奪われた。敗北の恥辱を思い知らされた。黒木田レイの世界をここまでかき乱しながら、それがどれほど重いものであったか分からないでいる。
たった今まで、彼女自身にもそれが分かっていなかったように。
「きみの……名前は?」
「純岡シト。覚えるほどの名ではない」
「……本当は、こうじゃないんだ。どこに行けば、きみとまた戦えるかな……」
アンチクトンとしての存在意義を果たせなかった彼女に、生きる目的などないはずだ。いずれ忘れ去られ、消えていく運命を受け入れているつもりでいた。
今は違う。この少年に――純岡シトに勝たずにはいられない。
レイがこれまで勝ち続けてきた相手にそうしてきたような、取るに足らない敵の一人のように忘れられたくない。たとえば誰もが彼女らの転生を見る中で、自分の方が上だと証明するまで、決して死ねない。
「異世界全日本大会」
「……全日本大会……」
「俺は関東地区予選にエントリーする。外江ハヅキを倒さなければならない」
「……そう。リベンジしたい相手がいるんだ」
「ああ、必ず借りを返す」
彼もまた、敗北の屈辱を味わった事があるのだろう。
ならば黒木田レイよりも大きなものを奪われたのだろうか?
そんなはずはない。断じて。
……全日本大会。その戦いに出たなら、この純岡シトともう一度戦うことができる。いずれ戦うつもりであった、関東最強の外江ハヅキとも。
全てを取り戻すことができる。
「純岡シト――」
彼の顔を忘れる事のないように、瞳の寸前まで近づく。真剣に彼を見つめた。
「シトって呼んでいい?」
「……な、なんだと……!?」
「ぼくも、関東地区予選に出るよ。こんな無様な戦いは、次は絶対にしないから」
彼女は人造転生者だ。優しい転生スタイルなど、元より大した拘りではない。そんなことよりもずっと、彼を打ち負かしたい。
涙を拭く。いつものように、余裕のある笑みを。そうでなければ、天才で、美少女の転生者ではない。
「本気の転生で、きみを倒してあげる。シト」
――――――――――――――――――――――――――――――
「……いかがなされましたか、レイ様」
「ん? 別に、何もないさ」
「物思いに耽っておられるようでしたので」
「……そうかな。気のせいだよ、きっと」
優しさを切り捨てた結果として、黒木田レイはこの転生の勝利を収めつつある。古傷のように心の中に想い続けた純岡シトを、今、ようやく乗り越えることができる。
あの襲撃の日以来、シトの行方は杳として知れない。レイがどれだけ望んでも、シトが再び彼女の前に姿を現すことはなかった。
経歴の定かでない強者の情報は漏らさず集めるよう従者に指示しているが、シトには【正体秘匿】のCスキルが存在する。彼ほどの転生者ならば、レイの捜索の目を潜り抜けることもできるだろうか。
(……まさか。本当に打つ手がなくなってしまったなんてことは、ないよね。シト)
望んでいるが、恐れてもいる。こうまで呆気なく勝ててしまうのなら、世界を滅ぼす必要すらないのだから。
【英雄育成】によって世界最強の護衛にまで成長させた使用人。複数の形態に分散して隠し、【経済革命】でも容易に突き崩せぬ資産。そして【超絶交渉】を使いこなす天性の資質で張り巡らせた人脈。
どのような形でシトが出現しようとも、全てを味方につける準備は整っている。
世界救済まで残り僅かな地点にまで駒を進めてもいる。教主選挙を裏で手引きして、ファルア教の主要聖職者を一つの街に集めている。
この世界を脅かす死者の軍勢『呪われし者』を街に誘導し……ファルア教の指導層が全滅すれば、勢力図は一方的にラダム教に傾き、いよいよ宗教対立は収束に至るはずだ。
「……レイ様。本当に、このまま計画を進めてしまってもよいのですか」
レイの部屋に立つ従者は、一人の護衛だけだ。彼女はレイに完全な忠誠を誓っていたものの、それでもこれから為そうとする事態の重大さへの恐れは大きいようだった。
「もちろんだとも。言っただろう? ぼくは、ぼくを見放したファルア教への仕返しのために生きているんだ。……今になって叡智の聖女だとか呼んで手の平を返したって……もう遅いさ。結局、彼らはぼくのお金が欲しいだけなんだから」
「も、もちろんそれは……私達が皆、あの日に誓ったことです。どこまでもレイ様にお仕えし、レイ様の復讐のためにこの命を使うと。け、けれど……」
「アリシア。手を下すのが怖いの? ぼくより彼らの方を助けたいなら、いつだってそうしていいとも。ぼくは止めはしないよ」
「いいえ。その。そうではなく……私……私が案じているのは、きっと……レイ様のこと、なのだと思います……」
「……ぼくを?」
「私は……正義のことも、政治のことも分かりません。家に見捨てられて、剣の才覚だけで幸いにもレイ様のお傍仕えをさせていただいているだけの、無学な女ですが……それでも、幼い頃からレイ様のことを見ておりますから」
異世界には、時折このような言動をする者がいる。転生者の本来の人生を知る由もないのに、【基本設定】で制御されているに過ぎない転生体の人格を見て、彼女らを理解したつもりでいる。
「……たまに、考えることがあるのです。私が手を血に汚した時に苦しんでいたのは、本当は私ではなく……レイ様なのではないかと……」
「……っ」
口に出しかけた言葉を寸前で止めることができた。
陳腐な台詞だ。滅びに瀕した世界は、得てしてその全体が単調化する傾向にある。これも転生者が繰り返し遭遇するような、そうしたパターンの一つに過ぎない。
「……今さら大した違いじゃないよ。和平派の枢機卿も、改革派の貴族も消してきたんだ。後戻りなんかするつもりはない」
そうだ。闇の中に戻ることができる。アンチクトンにいた時のような、本来のレイ自身に。
ただ一人への執着に苦しまなくていい、自由に。
運命の日は明日。純岡シトが来ても、そうでなくても、彼女は集った人々を滅ぼして、世界救済を成し遂げるだろう。
全てを忘れ去ってしまえることは、とても素晴らしいことのように思えた。
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純岡シト IP228,234,578 冒険者ランクA
オープンスロット:【超絶成長】【正体秘匿】【全種適性】
シークレットスロット:【????】
保有スキル:〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉〈UNKNOWN〉他46種
黒木田レイ IP636,198,629 冒険者ランクS
オープンスロット:【悪役令嬢】【超絶交渉】【英雄育成】
シークレットスロット:【不朽不滅】
保有スキル:〈政治交渉SS+〉〈籠絡SS+〉〈礼儀作法SS〉〈宗教指導A〉〈大扇動SS〉〈軍勢指揮A〉〈美貌の所作SS〉〈完全言語S〉〈完全鑑定A〉〈カリスマA+〉〈農業A+〉〈公共事業S〉〈ファルア法術A〉他29種
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「ねえ」
試合が決着へと近づく緊張の中、星原サキはその異変に気付いた。
「さっきから、ずっとなんだけど……純岡クンのイベント、何も起きてないよね……画面に映るの、黒木田さんの動きだけで……」
注目に値する功績も、自ら引き起こした行動もない。そのような期間の転生者は、超世界ディスプレイに投影されることもない。
我らが純岡シトは、自らの手酷い失敗に心折れ、降参できるだけの潔さもなく、ただ対戦相手の世界救済を待つばかりでいるのだろうか。
「……ああ、おかしい。絶対おかしい。そいつをさっきから考えてる」
大葉ルドウが答えた。これは本来あり得ない盤面なのだ。
いくら身元の特定を不可能にする【正体秘匿】を用いていたとして、それは異世界の中でのみ通用するものだ。元の世界の観客にまで情報が伏せられ続けるわけではない。超世界ディスプレイは常に、ドライブリンカーを装着した転生者が発生させたイベントを追跡しているはずである。
そして、ステータス画面。
レイに遠く及ばぬまでも、純岡シトはIPを稼ぎ続けている。IPの獲得とは、超世界ディスプレイが追うべきイベントに他ならない。レイの側だけが映り続けているこの現状は、明らかに異常なのだ。
「…………。もしも、そういうことだとしたら辻褄が合う……だが、ンなことしたところで、それで黒木田に勝てるか……? 何のためだ?」
「タツヤはどう? 何が起こってるか分かる?」
「全然分からねえ! けど、シトがまだやるつもりなら……あいつは絶対に黒木田の虐殺を止めるはずだ!」
タツヤは常に直感で異世界転生を戦っている。彼はCメモリではなく、転生者を見て判断しているのだ。
「あのシトが……! 友達を見捨てるわけねえ!」
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朝方からの雨が、教徒の集う大教会の外で鳴り響いている。教主選挙のために集った彼らは、迫りつつある脅威をやり過ごすべく、今はこの建物の中に避難していた。
「神は……俺達を守ってくれるだろうか」
息を潜める群衆の中にあって、一際目立つ高貴な身なりの若者がいる。
かつてレイの婚約者でもあった、フィルハルト・ロートローゼン。第三王子の身でありながら、一介の聖女見習いに過ぎなかったサラ・アルティリーの護衛騎士へと志願した事件は、民の記憶にも新しい。
「情けない。何を弱気なことを言っているのですか。これからの世の中は、いつまでも神にばかり頼るのではなく、私達が自分自身を守らなければならないのですよ。そのための教主選挙です」
「すまない……サラ。君のことは、俺の命にかえても守るつもりだ。しかし『呪われし者』の軍勢は山一つ向こうまで迫ってきているという話ではないか。レイの兵が防衛をするという話はどうなったのか……彼女を信用すべきかと迷っていてね」
「そうした態度が、情けないと言っているのです!」
聖女らしからぬ率直な物言いで、サラは第三王子を咎めた。
「そもそもレイさんが追放されたのは、ほとんどフィルハルト様のせいではないですか。辺境の土地をただ一人で復興させて、恨み言も言わずに私達を庇護してくれているというのに、そのような方を悪く言うなんて信じられません!」
「う、うむ。そうだ。そうだったな。若気の至りとはいえ、彼女には悪いことをした」
新たな婚約者の剣幕から逃げるように、フィルハルトは窓の外に目を向けている。雲もないというのに空が暗い。『呪われし者』の接近に伴う、暗黒の兆しだ。よもや、軍勢は相当に近づいてきているのではないか。
そして事実、フィルハルトが予感している通りの事態が起こりつつあった――教主選挙の護衛を任されたレイの兵が防衛線をわざと開け、街の付近にまで密かに誘導した『呪われし者』の群れが、雨霧に紛れてファルア教の要人を虐殺する。それがこの状況の裏で仕組まれている謀略だ。
この教会に集う聖職者の中には高位法術を操る聖女も何人か混じっているが、大陸最強に近い精鋭で構成された護衛軍の裏切りと、その護衛軍でようやく防げる物量の『呪われし者』の前では、誰ひとりとして生き延びることはできないだろう。
「サラ……」
今一度名前を呼んだ時、それが起こった。
雨音に紛れて軋んでいた町の門が、その時破砕された。
爆ぜ割れた木材の隙間から、不浄そのものが流れ出るように――蠢く死者たる『呪われし者』の波は、市街を飲み込まんばかりに押し寄せた。
「そ、そんな……!」
気丈なサラも、恐るべき破滅の兆しに身を強張らせた。
フィルハルトは剣を抜いたが、数千の死者の軍勢を前にどれほどの役に立つか。
「もう駄目だ……! 皆死ぬんだ!」
「護衛軍は何をやっているんだ!? ま、まさか全滅したのか!?」
「大丈夫だ……護衛騎士として、俺が君を守る……サラ!」
『呪われし者』の虚ろな吠え声が教会を囲み、恐怖は次々と伝播した。
今にも扉が破られ、死が押し寄せる――と思われた。
「待って、フィルハルト様。今……馬の音が」
雨音に混じって、馬が駆けている。その音は教会の外をぐるりと廻るように駆けて、通り過ぎた後に『呪われし者』の呻きは残らなかった。数百はくだらなかったはずの死者の包囲が、通り過ぎただけで――
仮にそれがただ一人の騎手であったとすれば、この世にあり得ない強さであった。
外から扉が開け放たれて、その一人の生者の声が響く。
「――皆の者! もはや恐れることはない!」
教会に集う人々の前に現れたものは、黒き甲冑に身を包んだ騎士であった。
盾には、彼らの対立教派であるはずの、ラダム教の紋章が刻まれている。
「我が名はラダム教の特一級正統騎士、シータ・グレイである! レイ・エクスレン様の懇請に応じ、諸君らを余さず救うために来た!」
次回、第二十二話【英雄育成】。明日20時投稿予定です。