後編
次の日の放課後、美術室に集まった私達は新作の下描きを始めました。私は昨日食べたストロベリーパンケーキを、友梨奈は山盛りのオレンジを、まっさらなキャンバスに描いていきます。よく削って尖らせた木炭のお尻のほうを握り、場所によって筆圧をうまく変えながらゆっくりと描き込みました。友梨奈はもう下描きを終えてしまったようで、絵具を使った工程に入るかどうか悩んでいるようでした。
「友梨奈、もう終わったの?」
「うん。優美はいつ終わりそう?」
「私はまだちょっとかかるかな……」
「そっか。じゃあもう絵具使っちゃおうかな」
下描きが掠れないようキャンバスにフィキサチーフを吹き付けると、友梨奈は少量の絵具を沢山のテレピンで薄めておつゆ描きを始めました。いつもペインティングナイフを使ってざっくりと色を乗せていく友梨奈には珍しいことです。何か、作風の転換を図って試行錯誤しているのかもしれません。負けていられないな、と思いながら私は下描きを続けました。
私が下描きを終え、友梨奈がおつゆ描きを終えたときには、夜の七時を回っていました。今日は二人で一緒に夕食を食べることにし、私達は親への連絡を済ませて静まり返った学校を後にしました。外はとっくに暗くなっていて、昇降口を出ると冷たい空気に鼻がつんとしました。最寄り駅までの道のりを歩いていき、駅前にある適当なファミリーレストランに入って注文を済ませると、私達は運ばれてきた水を飲んで一息つきました。いくつもの電球で明るく照らされた店内は、暖房が効いてとても快適でした。
「それにしても、すんなり入れてラッキーだったね」
友梨奈が満席寸前の店内を見渡しました。
「そうだね。平日でよかった」
七時と言えばちょうど夕飯の時間なので、もっと混んでいてもおかしくはありません。待たずに入れたのは友梨奈の言う通りラッキーなことなのでしょう。
「友梨奈って、小さな幸せみたいなのを見つけるのが上手いよね。プラス思考っていうか」
「そうかな? ありがとう」
「……いえいえ」
無邪気に笑う友梨奈が眩しくて、私は思わず目を逸らしてしまいました。そんな私にも友梨奈は話を振ってくれましたが、私はそれに作り笑いで応えることしかできませんでした。しばらくそんなやり取りを続けて、私は自分が友梨奈と付き合う資格のある人間か疑問に思えてきました。友梨奈が話しかけている笑顔の鳳優美は、本当は存在しないのです。私は光に背き、闇の道をひとりでとぼとぼと歩く旅人なのです。嘘を吐いているような罪悪感が頭をもたげて、私は全てを友梨奈に話してしまいたい衝動に駆られました。
「あのね、友梨奈」
「どうしたの?」
突然呼び掛けてきた私に驚いたのか、友梨奈は少し目を見開きました。
「あのね……私本当は、友梨奈が思ってるような人じゃないんだ」
「どういうこと?」
「私、友梨奈のほかに友達いないし、中学のとき不登校だったし……それに」
私はワイシャツの腕を捲って、左手首に残る痛々しい傷跡を見せました。
「この通り、ちょっと……いや、だいぶ病んでたの。保健室の先生に教えてもらったアートセラピーに出会って、絵を描くようになってからは治まってるけど……」
「そっか」
友梨奈は特に驚いたふうでもなく、私の手を取りました。
「優美、辛かったんだね。立ち直れて本当に偉いと思う。大丈夫、これからは私がいるから」
「友梨奈……」
太陽のような友梨奈の笑顔に、私は目から熱いものが零れるのを感じました。友梨奈は、私の暗い部分を知っても、私と一緒にいることを選んでくれたのです。この世にこれ以上に嬉しいことがあるでしょうか。涙なんて流し尽くしたと思っていたのに、大きくて温かいものに心を刺激されて、私は泣くことをやめられませんでした。
その後料理が運ばれてくると、私達は談笑しながら夕食を楽しみました。今度は作り笑いではなく、心から笑えていたように思います。それぞれ帰途について別れたあとも、温かい気持ちは続いていました。家に帰り、両親の醸し出すギスギスした空気に触れても、冷淡な態度を向けられても、その気持ちが私を守ってくれました。私の過去を受け入れてくれる人がいるならば、たとえ火のなか水のなか。友梨奈は私にとって、暗闇に差した一筋の光だったのです。
次の美術部の活動日、私はまた友梨奈と並んで作業を始めました。私は以前から描いていた人物画の続きを描き、友梨奈はおつゆ描きを終えたオレンジの絵に本格的に絵具を乗せ始めます。私が中描きを終えたころには友梨奈は仕上げに入っていて、私は友梨奈の筆の速さに舌を巻きました。
「友梨奈って、本当に描くの速いよね」
「まあね。私、優美みたいに丁寧に描くの苦手だから。今日だって、優美の真似して描いてたのに結局飽きちゃったし」
友梨奈はいつもの豚毛の筆で細部を描き込みながら、困ったように肩をすくめました。
飽きた。
その言葉に引っ掛かりを覚えながらも、私は何も言うことができませんでした。
「そっか……」
私は小さく呟いて友梨奈のキャンバスを見つめました。そこにはいつものように生命力に溢れた絵ではなく、どこか寂寥感のある静物画が出来上がっていて、私はこれはこれでいいのではないかと思いました。絵肌に普段の友梨奈の絵にはない透明感があり、筆跡もあまり目立たず、いつもより丁寧に描いたことがよくわかる絵でした。
描き終わったキャンバスを収納場所に持って行った友梨奈を尻目に、私はやや急いで作業を終わらせ、この間下描きをしたキャンバスをケースにしまって持ち帰ることにしました。遅れを取り戻すには家でも作業するしかないからです。自室が画溶液臭くなるのは少し嫌ですが、仕方のないことです。
その日も私たちは二人揃って下校し、駅で別れてそれぞれ家路につきました。帰宅して夕食を済ませ、自室でストロベリーパンケーキの絵の制作を進めるべく作業をしていたときでした。私は左の手首の内側にむず痒いものを感じて、ミミズ腫れのような傷跡が残る肌を思いっきり引っ掻いてしまいました。伸び気味だった爪に盛り上がった皮膚が引っ掛かり、傷ついて赤い血が滲みます。無意識に自傷行為をしてしまったことに気が付き、私は筆を持った右手をぎゅっと握りしめ、手首を引っ掻きたい気持ちを押し殺しました。同時に、何故突然自傷癖が再発したのか考えてみました。
原因はすぐにわかりました。友梨奈に、私が今まで信じて貫いてきた描きかたを「飽きた」と言われたこと。その言葉の裏にくだらない、取るに足らない、つまらないといったネガティヴな意味が隠されている気がして、私は心臓を握り潰されるような気持ちがしました。たったそれだけのことで昔に戻ってしまうなんてなんて精神が弱いんだろうと自分でも思いますが、それが事実なのです。
その晩は友梨奈からの連絡が来ることはなく、私は少々ホッとしていました。メッセージを見ると、今日言われたことを思い出してしまうからです。友梨奈の言葉が気になってしまってあまり制作が進まなかったので、私は作業を早々に切り上げて風呂に入り、今日のことを忘れるべく夢の世界へ旅立ちました。
次に友梨奈と顔を合わせたのは、美術部の活動日でした。メッセージアプリでのやりとりは続いていましたが、他の友達と遊ぶのに忙しいのか、友梨奈から放課後の遊びに誘われることはありませんでした。それで良かったのかもしれません。いつものように二人並んで描き始めたはいいものの、私は友梨奈の言葉が気にかかってろくに集中できていなかったのですから。思い通りに描くことができず苦しんでいる私の横で、友梨奈は大胆さと繊細さを併せ持った素晴らしい絵をすいすいと描いていきます。あまりの劣等感に眩暈がしました。私がたった一言に囚われて思うように描けないでいるうちに、友梨奈はこんなにも上手くなっているのです。私は生まれて初めて、絵を描くことが辛くなりました。
その日の夜、友梨奈から『調子悪そうだったけど大丈夫?』というメッセージが来ました。私は『大丈夫』とだけ返信しましたが、本当は全然大丈夫ではありませんでした。それでもスマートフォンを机に置き、ストロベリーパンケーキの絵の中描きに入ろうとしました。しかしいざ筆をとってみると、私の描きかたに「飽きた」と言った友梨奈の声が蘇って、手首を引っ掻きたい気持ちでいっぱいになってしまいます。絵筆がパレットの上を彷徨い、何色にも染まらぬまま落ちて床に転がりました。私にはもう、どこにどんな色をどんなふうに乗せたらいいのか全く思いつかなくなってしまいました。私の見る世界の全てが、色褪せてぐちゃぐちゃになってしまったからです。
それまで頻繁に来ていた友梨奈からの連絡が来なくなって一週間が経ちました。美術部の活動日、美術室に行ってみると友梨奈はちゃんといましたが、私よりもっと上手い先輩たちに混じって作業をしていて、私は近づけませんでした。先日の人物画に多少描写を加えようと思い、いつものイタチ毛の筆で睫毛、髪の毛、服の皺などを丁寧に丁寧に描き込んでいきました。しかし、やはりうまくいかず雑な仕上がりになってしまいます。顧問の先生にも調子が悪いと言われてしまいました。そんなことを言われたのは初めてでしたので、私はひどく落ち込んでしまいました。対する友梨奈は、先輩や先生に褒めちぎられてご満悦のようでした。心底嬉しそうな友梨奈の笑顔を見たとき、私は心の中に禍々しいものが生まれるのを感じました。何故、私を傷つけた友梨奈ばかりが褒められて、私は美術室の隅でひとりぼっちでいなければならないのでしょう。何故、私に謝罪すらしていない友梨奈が何もかもに恵まれていて、傷つけられた私は痛みを主張することすら許されないのでしょう。私はスカートの端をぎゅっと握り、唇を噛み締めました。こんな不平等が当たり前にあるのが世の中だというのはわかっていますが、私は友梨奈を恨めしく思わずにはいられませんでした。
帰宅した私は、何とか調子を取り戻そうとストロベリーパンケーキの絵の続きを描くことにしました。苺の赤色を塗ろうとブライトレッドをペインティングオイルで溶き、イタチ毛の絵筆で乗せていきましたが、なんということでしょう。いつものように塗っているはずなのに、キャンバスの上の赤色は絵具の塊をぼてっと乗せたようにのっぺりとしてしまって、深みも何もあったものではありません。私は絶望しました。友梨奈に飽きたと言われるのもわかるほど、薄っぺらくてつまらない絵。私はキャンバスをカッターナイフでズタズタに切り裂いてしまいました。
それからの日々は、まるで地獄のようでした。絵を描くことができず、無為に過ぎていく毎日。ときたま廊下で見かける友梨奈はいつも沢山の友人に囲まれていて、ずっとひとりでいる私を嘲笑しているようでした。私をこんなに傷つけておいて、絵を描く楽しみを奪っておいて。私の中に萌芽した憎悪は大きく成長し、心を冒し、身体を操るまでになっていました。私は、友梨奈に復讐をすることに決めたのです。
冬休みの直前になって、私は『久しぶりに一緒に絵を描こうよ』という心にもないメッセージを送り、友梨奈を美術室に呼び出しました。重たい木製の椅子を一脚抱え、美術室の引き戸のそばの壁に背中を預けて友梨奈を待ち受けていると、廊下からコツコツという軽い足音がして、美術室の引き戸がガラッと開きました。
「優美、来たよ……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、私は椅子を高く上げ、友梨奈の頭に向かって力一杯振り下ろしていました。ゴツンという鈍い音と共に腕に衝撃が走り、椅子を取り落としそうになりました。いっ、という短い呻きの後、友梨奈は気を失って膝から崩れ落ちました。その脚を持って美術室の奥に引きずっていき、扉を内側から施錠すると、私は準備室から拝借した彫刻刀を蛍光灯の光に翳しました。
これを使ってしまったら、もう戻れなくなります。
冷たい銀色の彫刻刀と横たわる友梨奈を見比べて、私は友梨奈との思い出を振り返りました。一緒にパンケーキを食べに行ったこと、一緒に絵を描いたこと、私の暗い過去を受け入れてくれたこと。不思議なことに、友梨奈を憎めば憎むほど、それらの思い出は眩いばかりに輝くのです。私はきっと、友梨奈を愛していたのです。だからこそ、たった一言でここまでおかしくなってしまったのです。
彫刻刀を振りかざし、私は友梨奈の小さな手に狙いを定めました。勢いよく振り下ろせば、研ぎ澄まされた刃は深々と友梨奈の手に突き刺さります。そのまま滅多刺しにすると、ブライトレッドよりも鮮やかな赤があたりに飛び散りました。まだ、足りません。もう一回、もう一回、もう一回。肌を裂き、肉を削ぎ、白い骨が露出するまで。友梨奈の両手を壊し終えたとき、私は笑っていました。これで友梨奈は絵が描けなくなったのです。私と同じように。
「あれ、私っ……」
鋭い痛みのためか、友梨奈はじきに目を覚ましました。変わり果てた自らの両手を見て叫び声をあげ、泣き崩れてうずくまります。その喉の奥から漏れる嗚咽を聞いたとき、私は胸がすっとしました。友梨奈はやっと、自分が犯した過ちの報いを受けたのです。
私は床に散った友梨奈の血を、前に友梨奈と一緒に世界堂に行ったときに買った豚毛の筆で掬い取り、スケッチブックの白くて厚い紙に乗せました。筆がひとりでに動いているかのようにするすると進み、ふと気づいたときには、赤一色で描かれたストロベリーパンケーキの絵が完成していました。けれど、何故でしょう。絵を描く楽しさを思い出したというのに、私の目からは涙がどっと溢れて止まりませんでした。