アクリルガラスのこちら側
福止屋。
薄暗い電算室。
「そろそろ、名前が必要だと思います」
白鳥は、貧乏神を見た。
貧乏神は交換用のパソコンを、一台ずつ仕分けている。
「……名前?」
「ちょっと、呼びづらいのよね」
枯れ木のようだった風貌は、もうない。
長い髪には艶が宿り。
頬にも、少しだけ血色が戻っていた。
「……どうしよう、白鳥さん」
「仮の名前でもいいの。何か、選んでみない?」
ボリ、ボリ。
「田中か鈴木で、いいんじゃないの~」
橋本は、ポテトチップスのうす塩味を頬張る。
企画書へ次々と、指摘事項を書き込んでいく。
「まずは、苗字から考えましょう」
白鳥は紙とペンを差し出した。
「……はい」
「社員証も、作らないとね」
貧乏神は静かに頷く。
「名前に縁のあるものはどうでしょう。例えば、この電算室は二階ですから――『二神』さん、とか」
少し考えたあと。
貧乏神は、小さく頷いた。
「……二神。それが、いい」
「はい」
白鳥は微笑む。
「今日から、二神さんです」
さらさらと紙へ書き記す。
ふと、白鳥は橋本を見た。
「そういえば。座敷童の名前は、誰が決めたのですか?」
橋本は面倒くさそうに答える。
「先代の死ず子だ~」
白鳥は少しだけ目を見開いた。
あの先代社長にも。
怪異へ名前を贈る一面があった。
「……そうでしたか」
再び紙へ視線を落とす。
「さて、今度は下の名前ですね」
貧乏神を見つめる。
整った顔立ち。
擦り切れた厚手の服。
それでも、その瞳には確かな意思が宿っていた。
「……白鳥さんと、同じがいい」
初めてだった。
彼女が、自分の意思で何かを選んだのは。
白鳥は少しだけ笑う。
「分かりました。美しい砂と書いて、美砂です」
紙へ書く。
『二神 美砂』
その文字を、彼女は何度も見つめた。
そして、小さく頷く。
「……二神、美砂。」
その名を。
大切そうに、口の中で繰り返した。
翌日。
擦り切れた服の胸元には。
福止屋の社員証が揺れていた。
『二神 美砂』
仕事の合間。
彼女は何度も社員証へ目を落とす。
少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しそうに、微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
福止屋。
エントランス。
「社長」
白鳥は歩きながら口を開く。
「午後の予定ですが」
「ああ。まずは人事、そのあと営業だ」
「はい」
白鳥は既に資料を抱えていた。
氷室は受け取る。
表紙に刻まれた突起を、指先でなぞる。
その瞬間。
足が止まった。
「……待て」
「何ですか」
「何で、人事と営業だと分かった」
白鳥も立ち止まる。
「……私も、分かりません」
二人で首を傾げる。
エレベーターが到着する。
扉が開いた。
乗り込む。
ふわりと身体が浮く。
静かな上昇。
「社長」
「何だ」
「どうして、いつも、見なくても私だと分かるんですか。」
「……分からん」
氷室は少し考える。
そして。
白鳥へ視線を向けた。
「お前の因果だけは、基準になる。他の人間は、その光と比べて、見分けている気がする」
白鳥は思わず笑った。
「……何ですか、それ」
無機質な電子音。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
白鳥が一歩先を歩き出した。
カツ。
カツ。
靴音が廊下へ響く。
氷室は耳を澄ます。
この歩幅、この足音。
知っている。
「白鳥」
「何でしょう」
「機嫌がいいのか」
白鳥は答えなかった。
ただ。
少しだけ。
歩く速度が速くなった。
◇ ◇ ◇
水族館。
平日の午後。
受付。
「おすすめは、ペンギン、アザラシ、シャチ、クラゲ――」
言い終わる前。
「クラゲで」
白鳥が即答する。
「……かしこまりました」
チケットを受け取り、ゲートを抜ける。
「クラゲが好きなのか」
氷室が尋ねた。
白鳥は少しだけ笑う。
「はい」
館内には、子どもたちの声が響いていた。
「おさかなー!」
氷室は、小さな因果の光を一瞥する。
(……平和だな)
二人は、深海魚エリアへ向かった。
青白い男――河童は、少し離れた場所から眺めている。
ボコ。
泡が一つ。
『今日も平和だな』
その背後から。
氷室と白鳥が歩み寄る。
「河童」
河童がゆっくり振り向く。
『何の用だ』
「顔を見に来た」
河童は鼻で笑う。
『暇人め』
その時。
子どもたちの笑い声が響いた。
河童は何も言わず、その様子を眺める。
そして。
ほんの少しだけ、水流を変えた。
魚たちが、ゆっくりと一か所へ集まっていく。
「わあ!」
「おさかな、いっぱい!」
子どもたちが歓声を上げ、水槽へ駆け寄る。
白鳥は、その光景を静かに見つめていた。
中央の巨大水槽では。
アザラシが愛嬌たっぷりに泳ぎ回っている。
「……帰るよ」
『気をつけてな』
二人は並んで歩き出す。
その背中を見送りながら。
河童は、また子どもたちへ視線を戻した。
ボコ。
小さな泡が、一つ。
ゆっくりと水面へ昇っていった。




