第七章
雨は夜明け前の空を染めながら、静かに、だが確かに降り続いていた。
藤堂柊一は、山の中腹に位置する療養施設を背にし、泥にまみれた足で下りの獣道を進んでいた。背負うリュックには、志乃から託されたファイルが入っている。ファイルは濡れないよう慎重に包んでいたが、彼の指先にはすでに冷たい水が入り込んでいた。吐く息は白く、濡れたシャツのせいで体温がどんどん奪われていく。
それでも足を止めることはできなかった。後ろを振り返ることも、できなかった。
志乃が囮になると言って閉じたあの扉の音が、頭から離れない。彼女の顔、その強い瞳。その奥に見えた、恐れではなく決意。柊一は彼女の意志を受け取った。今度こそ、自分が誰かの意志を背負って前に進む番だと。
やがて舗装された山道に出る。錆びたガードレールと藪の隙間から、遠くに街の明かりが見えた。だが、その光はどこか現実感に乏しく、まるで誰かの夢の中にある蜃気楼のようだった。
2時間後──。
柊一は山を下り、人気のないバス停のベンチに身を投げ出した。体は限界だった。雨に濡れた全身は冷え切り、目の奥は痛むほど熱い。雨の中を彷徨っている間、まるで現実と夢の境界が揺らいでいた気がする。
「本当に……俺はここにいて、誰かを信じていいんだろうか」
呟いた言葉は雨音にかき消された。ファイルを開く勇気が出ない。あれには“全て”が詰まっている。志乃の姉の死の真相、自分に植え付けられた偽の記憶、他の患者たちの無残な記録、そして──この施設の運営に関与していた人間の名。
バス停の隣の自販機で、ぬるい缶コーヒーを買った。震える手で口に運びながら、柊一はかつての自分を思い出していた。あの療養施設に入る前、自分は“記憶をなくしていた”。いや、失ったのではない。奪われたのだ。彼の罪も過去も、全て“与えられた記憶”だった。
──ならば本当の俺は、どこにいた?
その疑問の答えは、まもなく目の前に現れる。
バス停に、傘を差した男が近づいてきた。濡れていない黒のスーツ。艶のある革靴。すべてが場違いなほど整いすぎている。柊一が身を起こすと、男はまるで旧知の友人のように声をかけた。
「ようやく出てきましたね、藤堂さん」
「……誰だ」
「国立精神医療研究所・対外特務課の者です。お話がありまして」
男は名刺を差し出す。だが、名前の部分は伏せられていた。背広の内ポケットから小さな封筒を取り出すと、柊一の膝の上に置く。
「それはあなたの“元の記憶”です。施設に入る前の、本当のあなたの過去。公的記録から消された断片の復元コピーです」
柊一は震える指で封を切る。中には写真が一枚、そして数枚の書類。写真には、どこかの大学の講義室でマイクを持って立つ自分の姿が写っていた。見知らぬはずの顔。でも──そこに宿っている目の色は、今の自分と同じだった。
「あなたは本来、心理学の研究者でした。犯罪心理、集団洗脳、記憶の改竄技術。それらを用いたプロファイリングの第一人者。あなたが施設に送られたのは、被験者ではなく“観察者”としてです」
「……何だと……?」
「しかし、途中であなたは記憶を操作されました。本来の任務を忘れさせられたのです。なぜなら、あなた自身が“最も優れた実験体”だったから」
男の声は穏やかだが、冷徹だった。柊一は口の中が乾いていくのを感じた。自分はただの患者ではなかった。監視者でありながら、被験者にされた。二重の欺瞞。二重の記憶。全てが壊れていく音が、耳の奥で響いていた。
「あなたが暴こうとしている事実は、国と財団の境界線を越えるものです。我々も、全てが暴かれることは望みません」
「なら、なんで俺に記録を渡した? 脅しか?」
男は一瞬だけ笑った。
「希望です。あなたは選べる。真実を晒すか、記憶を元に戻し、研究者として社会に帰るか。今ここで決めてください。もう逃げ場はありませんよ、藤堂先生」
バスのライトが霧の中に現れた。遠ざかる雨音。近づく選択。柊一は書類を握りしめながら、最後にファイルを開いた。そこには、志乃の姉・藤崎玲が残した一文が記されていた。
「人間は記憶に生かされる。だが真実に殺される。ならば、私は記憶より真実を信じたい」
柊一は立ち上がり、バスに乗り込む。
真実の行き先はまだ見えない。けれど、彼はもう逃げないと決めた。
自分の輪郭を、雨の中で掴み直すために。