第三章
雨は止まない。
窓の外、夜空は濡れそぼり、灰色のヴェールが闇を包み込んでいる。シリウス療養施設の屋根を叩く雨音は、まるで悲鳴のように鳴り響き、柊一の鼓膜を突き刺した。
その晩、患者たちの間には異様な緊張感が漂っていた。
「誰かが消えた……」佐久間の呟きが廊下の端から聞こえた。
柊一は廊下の隅で、薄暗い照明に浮かび上がる彼の顔を見た。目は赤く充血し、頬はこけていた。彼が言う“消えた”という言葉に重みがあることは、誰もが知っていた。
「また……か」誰かが囁く。
柊一はその言葉の意味をすぐに理解した。去年、雨の日に三人の患者が忽然と姿を消したという噂。病院からも、職員からも一切説明はない。報告書には「事故死」と記されているが、死体も見つかっていないという。
「どうして、そんなことが起きるんだ?」
柊一は不安げに声を潜めて尋ねた。だが、答えは誰からも返ってこなかった。
療養施設シリウスは、外界から隔絶された空間だ。電話もインターネットも遮断され、患者は各々の世界に閉じ込められている。スタッフは親切だが、どこかぎこちなく、笑顔の裏に何かを隠しているように感じられた。
その夜、柊一は不意にベッドの中で目を覚ました。
暗闇の中で、雨の音だけが明瞭に響いていた。だが、彼は何か別の音も聞いた気がした。
──足音だ。
重く、鈍い音が廊下を歩いている。
「誰か……?」
寝ぼけた頭で問いかけるが、返事はなかった。
彼は布団から体を起こし、静かに寝室のドアを開けた。
廊下は濡れたタイルの床に、ぼんやりとした非常灯の光が映り込み、異様に長く伸びていた。
「どこへ……?」
足音は、確かに近づいている。だが、その音は人間のものではないように思えた。どこか空虚で、湿った風が廊下の隅を揺らすたびに、揺らめく影が生まれた。
柊一は心臓が激しく打つのを感じながら、恐る恐る足を踏み出した。
廊下の奥、スタッフルームの前で、足音は消えた。
息を整えようとした矢先、扉の隙間から漏れる微かな光に気づいた。
彼はそっと扉を押し開けた。
中は薄暗く、パソコンの画面だけがぼんやりと輝いていた。だが、その画面には異様なものが映し出されていた。
患者たちの情報がリストになっている。
その中には、“消えた患者”として記録された名前があった。
「……誰も知らないんだな」
画面のデータは、不自然に改ざんされていた。存在しているはずの記録が削除され、代わりに偽の事故報告が上書きされている。
柊一の頭の中に、あのノートの一節が蘇った。
【彼女の目は、最後まで僕を見ていた。問い詰めるように、赦すように】
彼は立ちすくみながら、知らず知らずのうちに呟いた。
「真実は、ここにあるのかもしれない……」
その瞬間、背後でドアが閉まる音がした。
振り返ると、三嶋医師が立っていた。
「まだ知るには早すぎる。藤堂さん」
医師の声は冷たかった。
彼の瞳は、雷のように激しく光っていた。
「この施設は、単なる療養所ではありません。真実を追求する者は、痛みを伴います」
柊一は歯を食いしばった。
「痛み……か」
外の雨音が、ますます大きくなる。
その夜、柊一はベッドに戻ったものの、眠れなかった。
雨の音に紛れて、どこからか低いうめき声が聞こえてきた。夢と現実の境目があいまいになり、彼の中の霧が深くなる。
やがて、彼の心に囁く声が聞こえた。
「忘れられない真実は、必ず誰かの記憶の中にある」
柊一は目を閉じた。
そして、ゆっくりと拳を握り締めた。
自分が追うべき真実とは何か。
失われた記憶の先に、いったい何が待っているのか。
雨音のノクターンは、まだ終わらない。