9.
城へ帰ると、エセルはヤナルの世話になった。
動揺による暴飲暴食のせいだ。胃薬を処方してもらい、ヤナルの寝台を借りて横たわる。
そのそばには、ロゼットが付き添っていた。
「エセル。大丈夫?」
「大丈夫。心配ないから、部屋に戻っててくれ」
エセルがそういっても、ロゼットはその場を離れない。
ベッドカバーをかけなおしたり、お水を持ってきたりと、かいがいしく患者の世話を焼く。
「私に構わなくていいから」
「……邪魔?」
緑色の目が、あからさまに暗い色に沈む。
「……いや、邪魔とか、そういう訳ではなくて」
突っぱねることができず、エセルの語尾はだんだん弱くなっていく。
見かねたエドロットが助け舟を出した。
「これ以上は心臓が持たないんだってさ、ロゼットちゃん」
ロゼットはぴたりと動きを止めた。
「……エセル、心臓も悪いの?」
「ボケも二百点満点のかわいさ〜」
真顔で青ざめるロゼットに、エドロットがうなずいた。
「後は医者のヤナルに任せていいからさ」
「ただの食べ過ぎだから。すぐよくなるよ」
キートとヤナルに説得され、ロゼットはようやくエセルのそばを離れた。部屋へと戻っていく。
エセルはほっと一息ついた。
「……ずいぶん、様子が変わったね。ロッツ」
ロゼットの出ていったドアを見ながら、ヤナルがいう。
表情は驚きに満ちていた。
「昨日まで、あんなに警戒していたのに」
「だろ。昼食時なんて、伯爵に給仕してたんだぜ」
「嘘でしょ!?」
キートの報告に、エドロットがさらに付け加える。
「で、その後はずーっと伯爵にべったり」
「それ、本当にロッツ!?」
キートの報告に、ヤナルが仰天する。
死人が咳払いをした、というくらいのレベルで。
「びっくりだろ? まあ記憶がないから、どこまでが本来のロッツの気質なのかは謎だけど」
「別人格かもな」
「俺は、それもロッツだと思うけど」
ヤナルは穏やかに笑った。
「お師匠様といた頃は、きっとそんな風だったんじゃないかな」
「伯爵はー? どう思う?」
「……さあ」
エセルは寝返りを打った。
「ロゼットの記憶を戻したら、私も今日のことは忘れる気でいるから。どうでもいい」
しっかしさ、とキートが明るく話題を変える。
「あれなら、もう大丈夫そうじゃね? 記憶戻すの」
「今なら伯爵のいうこと聞いて、大人しく治療受けてくれそうだよな」
「伯爵、今日の夜、試してみたらどうですか?」
三人は嬉々としたが、当のエセルは口ごもった。
「……そうだな」
浮かない口調だった。
キートがおもむろに切り出す。
「伯爵、こんなこと疑いたくないんだけどさ」
「なんだ」
「今日のロッツ、実は伯爵が何かの暗示をかけてあんな風だったとかじゃないよな……?」
「するかそんなこと!」
エセルは猛然と否定する。
すると今度はエドロットが口を開いた。
「じゃあさ。このまま記憶が戻らなくてもいいって思ってない?」
「思ってない!」
思わず起き上がる。
ヤナルが怪訝そうに尋ねた。
「記憶を戻すのに乗り気でないみたいですけど……。
他に、そうできない理由でも発生したんですか?」
「いや、別にそういうわけでもないが」
歯切れ悪く答えて、ただ、と補足する。
「……あと三日くらいはこのままでもいいかと思って」
偽らざる本音だった。
「最初は早く戻さなければ急いていたが、いざ、こうも平和でおだやかな日常が目の前にぶらさがるとな」
エセルは前髪をかき上げた。
「すぐに治療するつもりでいたから、使用人たちには隠していたが、頭をぶつけて記憶喪失になったと言えば済む話だ。
焦る必要はないと思って」
目をそらすエセルに、ロゼットの親愛なる友たちは詰め寄った。
「いつものロッツがトラブルメーカーでしかないみたいにいうなよ。
あいつだっていいところあるんだぜ?
俺がイタズラのネタが切れて悩んだり、伯爵にめっちゃ怒られて落ち込んでると『キートの本気はまだまだこんなものじゃないでしょ?』って励ましてくれるんだぞ」
「それは焚きつけている、の間違いだろう」
エセルはキートの反論を一蹴した。
「そうそう。ロッツだって役に立つときあるんだよ。
この間、俺が気にしてるメイドちゃんについて『胸の谷間にホクロがあったよ』って超重要情報くれたし」
「なんの役に立っているんだそれが」
エセルはエドロットの主張も一蹴した。
「俺は、俺は――ロッツに『暇だから整理しといた』とか『暇だから手伝ってあげる』とか暇つぶしにされている身ですけど。
ロッツにもいいところはあります! 今のロッツだけじゃなくて、普段のロッツもかわいがってあげてください!」
「待てヤナル、それはかなり大事にされていないか?」
ヤナルの時だけは、エセルはロゼットを見直した。
「ともかく! 自分がおいしい思いしたいがために、ロッツの記憶を戻さないなんて。酷いぜ伯爵」
「記憶が戻ったら、ロッツに『おまえの記憶がないのをいいことに、伯爵が好き勝手してた』って言ってやるからな」
「それを言うなら、おまえたちもだろう」
エセルは、キートとエドロットに指を突きつけた。
「おまえたちが早く記憶を戻したいのは、自分のためだろう。
今のロゼットが素直でいい子過ぎて退屈だからというだけだろう!」
「ああそうだよ、違わねえよ!」
「一片のためらいもなく全肯定するな」
「悪いのかよ!? 帰り道はずーっとイチャイチャしやがって」
「人をからかって遊んでいたくせに、それをいうか!?」
エセルとキートとエドロットは、お互いを責め立てあった。
「三人とも、落ちついて。
キート、エド、伯爵は具合が悪いんだから。静かにして。
伯爵も。わざと治療を怠ったとロッツに知られたら、信頼を失くしますよ。早く戻しましょう。ね」
ヤナルの的確な仲裁により、しょうもない言い争いはやんだ。
最後に、キートとエドロットがいう。
「伯爵、かならずしも素直がいいとは限らないからな」
「そうそう。素直すぎて困るってこともあるぜ」
「どういう意味だ?」
「今に分かるよ」
二人のいった意味は、エセルが自室に帰った時に判明した。
「お帰りなさい。具合はもう大丈夫?」
「ああ。――そっちはもう寝るところだったんだな」
ロゼットは大きなシャツ一枚という姿だった。
反射的に部屋を出ていこうとして、エセルは引き留められる。
「ここ、エセルの部屋でしょ? どうして出ていくの?」
三日連続で自室から締め出されていたエセルは、理由を目の前にして、なんでだろうな、ととぼけた。
「一緒に寝よ? 私とエセルは、ずっとそうしてたんでしょ?」
「は?」
「キートとエドロットが言ってた。私とエセルは将来を誓い合ってる間柄で、とても仲が良かったんだって」
どこの世界線の話だ。
部下たちのとんでもないホラに、エセルは気が遠くなった。
「お休みなさい」
頬に、柔らかいものが当たった。
キスされたのだと気付いて、固まる。
ロゼットは小首をかしげた。
「キートとエドロットから、寝る前はいつもこうしていたって聞いたけれど……何か違った?」
伯爵様は天井を仰いだ。
確かに、素直すぎるのも問題だった。
深呼吸を一つして、心身を整える。
「ロゼット。そこの寝台に横になってくれるか?」
「何するの?」
「記憶を戻す」
「……痛い?」
「いいや、痛いことは何もない。眠っている間に終わる」
優しく促すと、ロゼットは寝台に身をゆだねてくれた。
その穏やかな表情を見て、エセルはふと思う。
このまま記憶を戻さない方がいいのではないか、と。
戻せば、彼女は過去に受けた辛い仕打ちも思い出す。
世界に対して、不安と敵意を抱いて暮らしていかなければならない。
(いっそ、何も知らない方が)
途端、小憎たらしい声が脳裏によみがえった。
――バカじゃないの?
エセルは自嘲した。
そう、愚かな考えだ。
(逃げるような解決を、アレが望むわけがないな)
苦しい過去を消せないなら、せめて自分は自分にできることを最大限やるしかない。
エセルは手を一叩きした。呪具を握る。
宙に放った符は部屋の四隅に貼りつき、この場を聖別した。
『汝に幸あれ。前途に光あれ。神の加護あれ。世界の祝福あれ』
本格的に始める前に、エヴァンジェリンの言葉でつぶやく。
呪文でもなんでもない。ただの言葉だ。
けれど強い想いのこもった言葉は、それだけで世界の理に働きかけるようだった。
力が満ちるのを感じる。
ベッドの上の小さな手に、自分の手を重ねる。
触れた場所から、力がよどみなく流れ込んでいくのが分かる。
記憶だけでなく、今なら治癒もうまくいくと思えた。
苦手だとか、失敗するかもしれないだとか、そんな雑念は一切湧かなかった。
彼女の身が健やかであることを願い、未来が幸せに満ちたものであることを祈る気持ちがあった。
彼女のすべてを受け止めて、抱きしめてやりたいという思いに満ちた。
(ああ、そうか)
愛おしむ――とは、きっとこういうことなのだろう。
『そうそう、そういうことだよ、エセル。
一つ壁を乗り越えたみたいだね。おめでとう。
それが愛だよ、愛。わかった?』
集中しているエセルは、もちろん、神様のお声という雑音も排除した。
翌朝、意識を取り戻したロゼットは、開口一番に、お決まりのセリフを口にした。
「やあ伯爵、ご機嫌いかが? 悪くても気にしないけど。答えは聞いてないけど。良い以外の返事はいらないけど」
「いつも通りで何よりだ、ロゼット=ラヴァグルート」
成功が五秒で分かり、エセルは胸をなでおろした。
「なんか、やけに長く寝ていた気がするんだけど。気のせい?」
「色々話すことがあるんだが、その前に一つ聞かせてくれ」
疲労困憊で今すぐ休みたいが、どうしても尋ねたいことがあった。
「おまえ、私のことで印象に残っていることは何だ?」
「女顔。口の悪さ。陰険度合い」
「それ以外で」
ロゼットは悩み、寝台の真ん前の文机に目を留めた。
封筒が数通、机上にある。
「ああ――あとは、名前かな。
君、男なのに女名前だったから。
顔見る前から、名前はやけに覚えてた」
「……なるほど」
エセルはようやく、ロゼットはどんなきっかけで自分を思い出したか分かった。
記憶を失くして三日目の時、ロゼットが自分宛ての封書を目にしたからだ。
(そういえば、名前の方は名乗らなかったな)
記憶を失くしたロゼットに、エセルは姓しか名乗らなかった。
この女名前は、積極的に名乗りたいものではなかったので。
(まさか単純に、名前とは)
最初にフルネームを名乗っていれば、面倒はなかったのだ。
エセルはぐったりと、壁にもたれた。
―花守の手・終わり―




