2.
「記憶喪失~!? ロッツが? ホントに?」
「本当だ。すべて忘れている」
仰天するキートに、エセルはため息まじりに言った。
「治療中に、余計なところまでいじったらしい。
自分が誰かも、私が誰かも、ここがどこかも分からない状態だ」
「ひえー……マジかよ」
キートは背後の、エセルの部屋の扉を振り返る。
ドアノブに手をかけたのを、エセルが押さえた。
「やめておけ」
「なんで? 知らないやつ見たら暴れるとか?」
「逆だ。怯える」
キートは目を点にした。
「嘘だろ? あのロッツが?」
「話しかけても、ろくに返事もできないくらいだ」
そのせいで、記憶喪失と断定することも時間がかかった。
「とりあえず『私はここの領主のマスカード伯で、おまえは私の客だ』と説明したが、ピンと来ていない様子だった」
「ひょっとして、言葉まで忘れてるんじゃねえの?」
「そこまで言うなら、見てみろ」
エセルはそっと扉を押した。
ロゼットは寝台脇の洗面器をのぞきこんでいた。
水面に映る自分の顔をまじまじ見つめている。
「ロッツー?」
キートが呼んだ瞬間、ロゼットはさっと身をかがめた。
寝台の影からこちらをうかがってくる。
巣穴から外の様子を探る小動物そのものだ。
「おーい、俺だよ。キートだって。何にもしねえって」
「やめろ。逆効果だ」
言葉を重ねるほど、相手は奥へ奥へと退いていく。
エセルはキートを廊下へ引き戻した。
「……というわけだ」
「……うん。姿はロッツだったけど、行動は別人だな」
キートはオレンジ髪の頭をがしがし掻いた。
「でも、記憶がないだけなら、俺らに怯えることないだろ?
嫌な思い出もないはずじゃん」
「そのはずだが……記憶が消えても、体に染みついたものは残ったんだろう」
「あー、習性ってことか。
あいつの性格が攻撃的なのって、元はといえば警戒心の裏返しだもんな」
キートは腕組みをして、うんうんとうなずいた。
「――で。治るんだよな?」
「治る。ただその前に、私が食事と睡眠を取ってからだ」
エセルはクマのできた目元を押さえた。
気力も魔力もカラだ。半日は休まないと動けない。
「ひとまず朝食を取ってくる。
ロゼットが部屋から出ないよう、見張っていてくれ」
「へーい。エドが来たら、事情話していい?」
「ああ。ヤナルにも話していいが、他の使用人には話すなよ」
三歩歩いて、エセルは振り返った。
扉の前でそわそわしているキートに釘を刺す。
「あまり構うなよ」
「分かってる分かってる」
返事が軽い。
イマイチ信頼しきれない見張りを残し、エセルは居間へ向かった。
執事が慌てて出迎えてくる。
「申し訳ございません。お目覚めに気づかず」
呼び鈴を聞き逃したかと、執事は焦っていた。
「すぐにご支度を」
「いや、いい。必要ないから、私が呼ばなかっただけだ」
エセルは軽く手を振って、椅子に腰を下ろした。
シャツの袖のしわが、目に入る。
執事も昨日と同じ服装を気にした。
「ひょっとして、夜通し起きておられたのですか?」
「ああ。今日の予定は?」
「ございません。ゆっくりお休みくださいませ」
エセルはゆったり椅子の背にもたれた。
予定を空けておいて正解だったと、皮肉交じりに思う。
「ロゼット様、まだ朝食にいらっしゃいませんね」
執事がエセルの向かいの空席を気にした。
早起きなロゼットは、エセルより早く居間にいるのが常だ。
「珍しい。様子を見に行かせましょうか?」
「いや、いい。アレは――」
記憶喪失、とは明かせなかった。騒ぎにしたくない。
エセルは適当に理由をでっちあげる。
「謹慎処分にしているから。気にしなくていい」
「……謹慎?」
執事が目を瞬かせる。思いもよらぬ言葉だったらしい。
「近頃は、お行儀よろしかったのでは?」
「日頃の破壊活動への罰だ」
「はて……何か壊しておられましたか?」
「常に私の予定を壊し、心身の健康を害しているだろう」
げほっと、咳払いが起きた。
笑いを噛み殺そうとして失敗した音だ。
エセルは不機嫌に眉を寄せる。
「それは……ええ、重罪でございますね」
「スープを」
朝食のワゴンを一瞥し、エセルはつっけんどんに命じた。
実際に謹慎してやりたいと思っているエセルにとって、執事の反応は心外だった。
「他は?」
「いらない」
「昨晩は何も召し上がっておられませんが……」
心配そうにされ、エセルは仕方なく果物を一切れ追加した。
少食なたちなのだ。昨夜は魔法の効果を上げるために酒食を断っていたが、それも苦にならないほどに。
「霞でも食べて生きてるの?」
いつだったか、ロゼットに言われたセリフを思い出す。
無意識に、向かいに目をやる。
当然、今朝はそこには誰もいない。
ぽっかり空いた席が朝日を浴びていた。
「……朝食を取り分けておいてくれ。全種類」
「そんなに召し上がって、大丈夫ですか?」
「私の分じゃない。重罪人用だ」
少ない朝食を終え、新聞を開く。
だが、読んでいても内容は頭に入ってこない。
今朝の失敗――ロゼットを記憶喪失にしたことが尾を引いている。
(……だから治癒魔法は嫌いなんだ)
苦手になったのは、子供の頃に失敗したせい。
踏み潰したヘビを治そうとして、やり過ぎた。ムカデのように脚を生やしてしまった。
グロテスクな姿にしてしまったことが、まずショックだった。
そして、それをどうにもできず、自分の手で処分しなければならなかったことも辛かった。
そんなつもりはなかったのに、命をもてあそんでしまった気持ちになった。
以来、治癒魔法のたびに、あの光景が脳裏をかすめる。
島の神が集中しろ、というのは、おそらくその不安を見抜いてのことだろう。
魔法において想像力は重要な要素。
失敗を恐れていると、本当に失敗してしまう。
(……キートのやつ。そろそろ部屋に入っていそうだな)
なんとなく、勘が働いた。
新聞を畳み、執事の用意したトレイを取る。
厚切りベーコンに炒り卵、焼きトマトに豆の煮込み、トーストとキノコスープ――料理がぎっしりと盛られている。
エセルとは対照的に、ロゼットの朝食はずしりと重い。
「よく食べるな。アレは」
「健康な証拠では?」
「……そうだな」
念のため、エセルは小さなリンゴを追加した。




