第1話 異世界転移
その日は、本当にいつも通りの日だった。
仕事を終えて会社を出ると、外は雨だった。
「うわ……降ってる」
鞄から折り畳み傘を取り出して広げる。
朝の天気予報では、夜から雨だった気がする。
ちゃんと傘を入れてきた昨日の自分を褒めたい。
駅へ向かって歩きながら、夕飯のことを考える。
「今日は……もう作りたくないな」
帰りに何か買おう。
お弁当でもいい。
いや、温かいものが食べたい。
コンビニに寄って、おでんでも――。
そんなことを考えていた。
本当に。それだけだった。
明日の仕事。
帰ってから見る動画。
冷蔵庫に残っていた飲み物。
どれも、明日になれば普通に続いていくものだと思っていた。
交差点へ差しかかる。
雨粒が傘を叩く音。
濡れた道路。
信号の光が水たまりに映っている。
そして。
突然。
大きな音がした。
「え?」
振り向く。
眩しい光。
誰かの声。
次の瞬間には、何も分からなくなった。
◇
目を開ける。
「……あれ?」
雨の音がしない。
身体も濡れていない。
というより。
「ここ……どこ?」
白かった。
右も。
左も。
前も。
後ろも。
どこまで見ても真っ白。
床があるのかすらよく分からない。
なのに私は、確かにそこへ立っていた。
「駅は?」
返事はない。
「道路は?」
ない。
「……会社は?」
もちろんない。
そして。
少しずつ。
最後に見た光景を思い出す。
「もしかして……」
嫌な予感がした。
その時。
「ようやく目を覚ましましたね」
「!」
突然、声が聞こえ振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
さっきまで誰もいなかったはずなのに。
白い空間の中。その人だけが、最初からそこにいたみたいに私を見ている。
「初めまして」
女性はそう言って。
少しだけ微笑んだ。
「あなたには、これから別の世界へ行ってもらいます」
「………はい?」
「あ、その前にまずお伝えしなければならないことがあります」
女性が言った。
「あなたは、元いた世界へ戻ることができません」
「…………………………はい?」
「正確には、あなたの身体はすでに失われています」
しばらく意味が分からなかった。
けれど最後の記憶を思い出して、少しずつ理解する。
「私、死んだんですか」
「はい」
あっさりした返事だった。
「そうですか……」
自分でも驚くほど、それ以上の言葉が出なかった。
現実味がない。
悲しいとか、怖いとか。
そういう気持ちよりも先に、
――これからどうなるんだろう。
そんなことを考えていた。
「通常であれば、ここで魂は新たな生へ向かいます」
「通常であれば?」
「今回は少々事情がありまして」
嫌な言い方だ。
女性が右手を上げる。
すると空中に、何枚もの光る板が現れた。
《剣術》
《槍術》
《火魔法》
《水魔法》
《治癒》
《身体強化》
《収納》
《鑑定》
見たこともない文字なのに、不思議と読める。
「あなたには別世界へ移っていただきます」
「別世界」
「あなたのいた世界より文明は遅れています。魔法が存在し、人以外の危険な生物も多く生息しています」
「……異世界ってことですか?」
「その認識で構いません」
すごい話のはずなのに、頭が追いつかない。
女性は気にする様子もなく続けた。
「その代わり、一つだけ能力を差し上げます」
「一つだけ?」
「一つだけです」
光る板を見る。
だったら、どれを選ぶべきだろう。
危険な世界。
まず思いつくのは《剣術》か《身体強化》。
魔法が本当にあるなら《火魔法》だっていい。
怪我を考えるなら《治癒》。
「おすすめはありますか?」
「ありません」
「ないんですか」
「どのように生きたいかによって変わりますから」
困った。
どう生きたいか。
そんなこと、死んだ直後に聞かれても分からない。
何となく光の板を眺めていく。
そして。
「……これ、何ですか?」
一番端。
他のものより少し離れた場所に、一枚だけ光る板があった。
《土地鑑定》
「土地鑑定です」
「それは見れば分かります」
「土地の状態を調べる能力です」
「土地の状態?」
「土の性質、水分、地盤、地下の状態。使用者の熟練度によって取得できる情報は増えていきます」
「……地味ですね」
「ええ」
否定しなかった。
「剣とか魔法がある世界なんですよね?」
「あります」
「だったら、これを選ぶ人いるんですか?」
「ほとんどいません」
だろうなと思った。
私は《土地鑑定》から目を離した。
《身体強化》。
これなら間違いはなさそうだ。
重い物も運べる。
逃げる時にも使える。
戦うことだってできるかもしれない。
これにしよう。
そう思ったところで、ふと気になった。
「向こうに行ったら、どこに住むんです?」
「それは転移先によります」
「家は用意されてない?」
「されません」
「お金は?」
「ありません」
「食べ物」
「ありません」
「道具」
「ありません」
私は女性を見る。
「何もないじゃないですか」
「ですから能力を一つ差し上げます」
「いや……」
剣が使えても、家は建たない。
火魔法が使えても、飲み水がなければ困る。
身体強化があっても、食べ物がどこにあるかは分からない。
もう一度、《土地鑑定》を見る。
土の性質。
水。
地盤。
地下。
「ちなみに」
「はい」
「これを使えば、水がある場所も分かるんですか?」
「条件次第では」
「畑に向いてる場所は?」
「分かるようになります」
「家を建てても大丈夫な場所とか」
「それも対象です」
私は少し考えた。
剣なんて握ったことがない。
魔法だってもちろん知らない。
だけど。
住む場所なら必要になる。
どんな世界だろうと、食べて、飲んで、眠らなければ生きていけない。
「決めました」
私は《土地鑑定》へ触れた。
「これにします」
女性が少しだけ目を見開いた。
「本当に?」
「さっき、どの能力でもいいって言ったじゃないですか」
「言いましたが……」
「人気ないんですよね?」
「ありません」
「ならちょうどいいです」
「何がちょうどいいのか分かりませんが」
女性が苦笑した。
次の瞬間。
触れていた光が指先から身体の中へ入り込んだ。
胸の奥が一度だけ熱くなる。
何かが変わった。
そう思った。
《技能――土地鑑定を取得しました》
頭の中に、知らない言葉が浮かぶ。
「これで終わりです」
女性の背後にある巨大な扉が開き始めた。
扉の向こうは、光で何も見えない。
「この先が新しい世界です」
「ちょっと待ってください」
「はい」
「せめて一つだけ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「転移する場所って、町ですよね?」
女性が黙った。
「……町ですよね?」
「転移場所はこちらでは指定できません」
「それ、先に言うべきじゃないですか?」
「良き第二の人生を」
「ちょっと!」
足元が消えた。
「待って、まだ聞きたいことが――!」
身体が光の中へ落ちていく。
上下も分からない。
声も聞こえない。
ただ真っ白な光だけが視界を埋め尽くして――。
◇
「――っ!」
身体が地面に落ちた。
「痛っ……」
肘をついたせいで、じんと痺れる。
けれどそんなことはすぐにどうでもよくなった。
暑い。
顔を上げる。
「……え?」
青空。
大きな太陽。
そして。
茶色。
右を見ても。
左を見ても。
茶色。
地面には乾いた土と石しかない。
草さえ、ほとんど生えていない。
遥か遠くまで続く荒野。
家はない。
道もない。
煙すら見えない。
「…………」
私はゆっくり立ち上がった。
一周する。
何もない。
「いやいやいや」
もう一周する。
やっぱり何もない。
「町は?」
返事はない。
「村でもいいんだけど」
風が砂を運んでいく。
「……人は?」
誰もいない。
そこでようやく気づいた。
私は本当に。
何もない場所へ送られたらしい。
「嘘でしょ……」
その場に座り込みたくなる。
でも。
手が地面に触れた瞬間だった。
頭の中に、不思議な感覚が広がった。
硬い。
乾いている。
表面にはほとんど水分がない。
けれど――。
「……え?」
もっと下。
ずっと下。
そこに何かがある。
無意識に言葉がこぼれた。
「《土地鑑定》」
感覚が、はっきりした情報へ変わる。
《乾燥地》
《表土水分:極少》
《植物生育適性:低》
《地盤:安定》
《地下水脈:あり》
私は最後の一文を見つめた。
「地下水……」
ある。
この何もない土地の下に。
水がある。
私はもう一度、荒野を見る。
さっきまで。
ここには何もないと思っていた。
けれど違う。
「……何もないわけじゃないんだ」
水はある。
土もある。
石もある。
だったら。
ここで生きる方法だって、きっとある。
もちろん今は、家もない。
食べ物もない。
道具もない。
誰かが助けに来る保証もない。
だけど私は地面から手を離し、立ち上がった。
「まずは――水」
何もない荒野で。
私の二度目の人生が始まった。




