第2章 個人ランクAの指南【3】
湯浴みを済ませたあと、リビングのソファにもたれて本を読む時間がリーフェットの癒しのひと時だった。この二日間、ディランのパーティの訓練で砂埃を浴びた。せめてこの時間だけでも大事にしたかった。
ホットミルクをマグカップに注ぎ、膝掛けを用意する。勇者パーティに所属していた頃も、子爵家にいた頃も、こうしてのんびりできる時間は滅多になかった。だからこそ、この時間がリーフェットを癒してくれるのだ。
さて、と本を手に取ったとき、ドアノッカーが遠慮がちになった。ノックしたということはディランではない。リーフェットは時計に目を遣った。現在、夜八時。女性の家を訪ねるには少々遅い時間だ。
警戒しつつ、玄関ドア前に移動する。
「どなた?」
「あ、あの……ライカです」
ドアの向こうから弱々しい声が聞こえる。ディランのパーティの魔法使いライカだ。そっとドアを開けると、普段着らしい格好のライカが遠慮がちにはにかんだ。
「遅くにごめんなさい……」
「どうしたの?」
「あの、少しお話ができたらなって……」
リーフェットは首を傾げつつドアを開ける。ライカはどこか申し訳なさそうにしながら家に入って来ると、手にしていた籠をずいとリーフェットに差し出した。
「お、お土産です。私が焼いたクッキーなんですけど……」
「まあ、ありがとう。せっかくだわ。一緒に食べましょう」
「は、はい!」
ライカはまだリーフェットに対して緊張している。もともと緊張しやすい少女なのかもしれない。もしくは、強者であるリーフェットに怯えている可能性もある。どちらにせよ、リーフェットは悪戯に怖がらせるつもりはなかった。
「どうぞ、お掛けになって。いまホットミルクをお持ちするわ」
「あっ、ありがとうございます……!」
ライカは遠慮がちにしつつソファに腰を下ろす。リーフェットが座っていた位置の正面に。テーブルに置かれた本とマグカップ、ソファの背もたれにかかった膝掛けで、リーフェットがどのソファに着いていたか考えたのだろう。
「こんな遅い時間にごめんなさい……。クッキーを焼くのに時間がかかってしまって……」
「お気遣いありがとう。けれど、手ぶらでも構わないのよ」
「い、いえ……師匠のおうちにお邪魔するのに、手ぶらでは来られませんよ!」
「ふふ……師匠、ね。あなたは素直で羨ましいわ」
ホットミルクのマグカップをテーブルに置くと、ライカは少しだけ緊張が解けたようだった。リーフェットに対して必要以上の緊張は要らないと悟ったのだろう。
「この二日、あなたたちはよく頑張っているわ」
「えへ……ありがとうございます。リーフェットさんのおかげです」
「この八ヶ月、適当にやっていたことがよくわかるわね」
あえて冷たく言ったリーフェットに、ライカはしょんぼりと肩を落とした。
「ディランの方針に従ったのが失敗だったのでしょうか……」
「概ねその通りね。ディランはパーティリーダーという性質じゃないのよ」
ゆっくりとホットミルクをすすったライカは、上目遣いにリーフェットを見遣る。
「リーフェットさんとディランは、いつからの知り合いなんですか?」
「五歳くらいだったかしらね」
「どうして貴族のリーフェットさんと平民のディランが……?」
「そうね……」
リーフェットはソファにもたれかかり、のん気な笑みをこちらに向けるディランを思い浮かべる。物事を深く考えないのは昔からのことで、いまでも子どもの頃と変わらない笑顔をしている。
「私の母が、孤児院を経営していたの。ディランのお母様がそこで職員として働いていて、母親同士、妙に意気投合してしまってね。その流れで、ディランと会うことも多くなったわ」
「へえ……。貴族の奥様と平民のお母さんって、なんだかちぐはぐなお友達ですね」
「私のお母様があまり貴族らしくないからでしょうね。私が冒険者をやっていたのは、お母様の影響もあるのよ」
「えっ……じゃあ、リーフェットさんのお母様も……?」
「ええ。輿入れの直前まで冒険者をやっていたらしいわ。子どもの頃、本物の冒険譚をよく聞かされたものよ。だから私は、子どもの頃から冒険者に憧れていたかもしれないわね」
半年後に魔王が復活すると予告した王宮が勇者パーティを募る前、リーフェットは普通の貴族の令嬢だった。報酬が目当てではあったが、リーフェットにとって好機であった。冒険者になることは父から反対されていた。借金を清算するため、と言えば父は頷くしかなかったのだ。リーフェットもいつか冒険に出るのだと、家の騎士団とともに鍛錬はしていた。それでも、勇者パーティの半年間は壮絶なものであった。
「兄だけはディランとつるむことをよく思っていなかったけれどね」
「お母様同士が仲良しだったのに、ですか……?」
「兄は貴族意識の高い人だから。まあ、爵位のある家の嫡男としては当然ね」
「でも、いまは爵位を失くしてしまったんですよね……」
「兄は伯爵家に婿入りして、次期伯爵の座にいるわ。特に問題ないわね」
リーフェットは侯爵家への嫁入りが決まっていたが、没落とともに婚約は破棄された。没落した家に価値はない。侯爵家にとって、リーフェットは価値を失ったのだ。だが、この話はライカに聞かせる必要はないだろう。
「ディランは子どもの頃からあんな感じなんですか?」
「ええ。何も変わっていないわ。馬鹿なところも、実直なところも、人情に厚いところもね」
溜め息交じりに言ったリーフェットに、くすり、とライカが小さく笑う。
「ディランのこと、よく理解しているんですね」
「女性の家にノックなしに入り込んで来るところは理解できないけれどね」
「ええ……それはちょっと、最低かも……」
ライカの中でディランの株が下がったようだが、リーフェットに気に掛ける理由はない。ディランの行いは言い訳できないのだ。
「でも……ディランのそういうところに、私は救われたんです」
ライカが目を伏せる。リーフェットはマグカップを手に取りつつ、首を傾げて先を促した。
「私……前に居たパーティがろくでもないパーティだったんです。依頼を完了させても、依頼料の七割をリーダーが持って行って……私は他のふたりと一割ずつ分けていたんです」
「よくある話ね。それでも、ランクの高い依頼をこなしていたのでしょう」
「はい……。パーティランク自体はAでしたから……」
パーティランクの高いパーティにまともなパーティはいない。リーフェットはそう思っている。パーティランクが高ければ、ランクの高い依頼を受けられる。そのため、パーティリーダーはランクの高い冒険者を集めたがる。そうすれば儲かるからだ。パーティリーダーはパーティの中で強い権力を持つ。報酬の分配を決めるのがパーティリーダーだ。ライカが巻き込まれた事例のようなパーティは、この世界には山ほどあることだろう。
「けれど、あなたは個人ランクDよね。Aランクパーティに所属できたの?」
「人数合わせ、ですね……。ほら、パーティって四人以上が条件じゃないですか」
「なるほどね」
「その実績で、当時はランクCまで上がれたんですけど……」
「そのパーティが規約違反をして解散、ってところかしら」
「はい……」
リーフェットも勇者パーティに所属していた頃、様々なパーティを見て来た。冒険者の世界は、決して綺麗な世界ではない。汚い連中はどこにでもいるものだ。社交界と似たようなものだとリーフェットは思っている。
「だからディランに出会ったとき、すごく安心したんです。もうあんな目に遭わなくて済むんだ、って……」
「汚いことを何も知らない男だもの。真っ当に生きること以外の生き方を知らないでしょうね」
「そうですね……。ディランがこんなすごい人と繋がりがあるなんて、思ってもみなかったですけど……」
ライカが熱い視線を向けるので、リーフェットは軽く肩をすくめた。
「私がすごいんじゃないわ。先代勇者パーティが偉大なだけ」
「へへ……当人じゃないと言えないことですね……」
街に出れば、リーフェットを知らない冒険者はいない。先代勇者パーティはそれだけのことを成し遂げた。だが、この町では、ただのリーフェット・エレスティン。冒険者のリーフェットのことは、誰も知らないのだ。
「あっ、もういい時間ですね……。遅くにすみませんでした」
「いいのよ。私も楽しかったわ」
「そうですか……よかったで――」
「明日はまた楽しくないでしょうけれど」
「すぅ……はい……」
ライカは肩を落としつつも、リーフェットの目を真っ直ぐに見据える。
「明日もよろしくお願いします。私、頑張ります」
「ええ。ここが頑張りどころよ」
「はい!」
笑顔で辞儀をするライカを見送り、リーフェットはドアの鍵を閉める。もう今夜、訪ねて来る客はいない。あとはのんびり本を読んで、寝るまでのあいだのゆったりした時間を過ごすだけだ。
「……綺麗なだけのパーティなんて、存在しないわ」
誰にでもなく呟く。
「綺麗なだけで、パーティ運営はできないのよ」
カーテンの隙間を覗くと、少し欠けた月が美しく輝いている。明日になれば太陽が地を照らす。そうして、彼らを正しく導くことだろう。