悲しいよ
嫌な予感というものは、総じて的中するものである。
校舎の奥、特別教室以外では使われない、人のほとんど訪れないような廊下の隅。
頬を強かに打つ衝撃にギーアは後ろに倒れた。それに追撃する足が腹を踏み付ける。ぐり、と踵で柔い所を踏まれれば、いくら強化魔術で防御力が強化されていても痛みは感じる。
鈍く唸ったギーアに男はせせら笑った。
「どうした、劣等種が! 前みたいに反抗してみろよ!」
反抗なんてできるわけが無い。前みたいな苛立ちから手を伸ばしただけの時とはいざ知らず、こいつらは明確に、ギーアを傷つける意図を持って難癖を付けに来たのだから。
そんな奴らを返り討ちにすれば、ギーアが百鬼だとバレるかもしれない。そうなれば、もしこの学院を出たとしても一生卑赤の肩書きが付き纏う。
せっかく脱した立場を、揺らがすわけにはいない。
だから己の内で怒りに震える刀を抑え込むために、ギーアは蹲っていた。そうしなければ自身の中にある亜空間への入り口が勝手に開いて、あの黒塗りの好戦的な刀が目の前の生徒に襲いかからないという保証はない。
それを痛みや恐怖からだと勘違いしたのか、ギーアを踏みつける男子生徒は露悪的な笑みを浮かべて何度も足を踏み下ろした。
暴力の甘味に酔いしれた、おもちゃで遊ぶ子供のような無邪気な悪意。
「卑赤のくせに生意気だから、こんな目に遭うんだ。全部お前のせいだ。お前が弱いから悪いんだ!」
めちゃくちゃな論理も、この世界では正される。魔物の脅威とはそれだけ人々の生活に密接していて、強くなければ生きていけないのだから、弱いものは生きる価値がない。
誰もが知っている、当たり前の事。
弱者とはそれだけで罪。
だからこそギーアは、“弱者”から脱するために強くなって、冒険者になって、それで。
叫び散らして満足した生徒は転がるギーアを残してその場を去っていった。その背中が見えなくなってすぐに、授業開始のチャイムが鳴る。
しかしギーアは寝転がったまま動くこともなかった。一人きりの廊下で乱れた制服を正すこともせず、ただじっと。
「……強化解除」
唱えた途端、全身を巡っていた魔力の流れが霧散していくのを感じた。くたりと全身の力が抜けて、後に残るのは急所を踏ませないように配慮した腹の痛みのみ。
ふぅ、と息を吐くギーアは、段々とこちらに近付く足音に気が付いて顔を上げた。
静かな赤い目が、批難するように見下ろしている。
「お前、授業はどうした」
気がついてないフリをして問いかけたギーアに、赤目がほんの僅かに顰められた。
出会った頃と比べて傷の減った顔は小綺麗になったが、やはり表情の乏しさは変わらない。
「それは、こっちの台詞」
「今から行ったって間に合わないだろ。途中から教室に入って吊るし上げられるのなんてごめんだ」
「でも授業に出てれば、人の目があるから」
「別にいい。あんな奴らが何しようがどうでもいいし、俺は気にしてない」
「……だったら、保健室いこ」
「はあ? 冗談だろ?」
この学院の施設が「人間」相手にしかまともに機能していない事は誰もが知っている。まさか目の前の少女がそれを知らないわけがない。
さすがに笑えないと反論したギーアだったがしかし、ミリナの顔を見て閉口した。
常に無表情で無感動だった顔が、泣きそうに歪んでいた。
思いがけない表情に口を閉じたギーアに向けて、ミリナはだって、と声を震わせる。
感情に揺れる声は平素と違っていて、結構声高いんだなとギーアは場違いなことを考えていた。
「だって、友達が傷付いてるのに、私はなにもできない……!」
あまりに予想外で、想像だにしていなかった言葉。
呆けてぽかりと口を開いたままのギーアは、二つの赤色から零れ落ちる涙を他人事のように眺めるだけで、彼女のくしゃりと歪んだ顔を目を見開いてただ見ていた。
「ギーアは私の、たった一人の友達なんだよ。ギーアがいないと、私、また一人ぼっちだよ」
苦しそうに唇を震わせて、滲んだ血色が溢れ出す。
真っ赤な瞳から落ちる透明な雫が、ぽたりぽたりと廊下に落ちて、ギーアは固まったまま動けなかった。
息が止まるような、そんな気持ちだった。
最近は意外に感情豊かなのだと分かってきたと言っておいて、この無表情な少女は例え何を言ったって、本当のところでは何も感じていないのかと思っていた。
友達なんて言ったって、どうせただの虫除けで、本当は一緒にいてくれるなら誰でもいいのだと。
そう思っていた。
壁にもたれて転がったままのギーアの傍に膝をついたミリナは、制服に顔を埋めるようにして抱きついた。
震える肩と温かい体温が伝わってくる。
「……傷ついてるのに、平気なんて言わないでよ。私が、悲しいよ」
じんわりとシャツが濡れていくのを感じながら、ギーアはどうすればいいのかと困惑していた。
異性に限らず、いつだって自分は慰められる側で、こうして誰かが泣いているのをどうにかしようなんて思うのは初めてのことだった。
「俺は、別に……そんなつもりじゃ」
「知ってる。ギーアはいつも、本当に気にしてないみたいに、なんでもないようにしてるから」
でも、とミリナは言う。
「私が、見たくない。友達が傷付いてるとこ、もう、見たくないよ……っ」
胸元に置かれた手がシャツを握りしめるのを、これは駄目だな、とギーアはどこか遠くを見ながら思った。
ここまで言われて、こんなに泣かせておいて、関係ないじゃすまないだろう。
そっと泣きじゃくる彼女の頭に手を乗せる。白い髪は思ったよりも柔らかくて、ギーアは顔を擽るその感触に目を伏せた。
「…………ごめん」
小さな、耳元で囁かれた謝罪にミリナはいっそう顔を胸に押し付けた。返ってきたのはしゃくり上げる声だけで、ギーアは髪を梳きながら空いた手で背中を優しくさすってやる。
昔、母親に捨てられる前に、そうやってあやしてくれた手を思い出しながら。
「ごめんな。俺が悪かった」
「……」
「次から気をつける」
言った瞬間、わりと強めに腹を殴られて一瞬息が詰まった。
ぐっ、と声を漏らしたギーアに鼻声の不機嫌そうな声が咎める。
「気をつけるじゃだめ」
「いや、でも」
「絶対に、もう二度と、こんな事にならないって。約束して」
そろりと上を向いた赤色がじとりと睨み付けてくる。だけど濡れて少し腫れた瞳では、迫力も半減だった。
ギーアは困ったように笑って、それが守れない約束だって分かっていながら、ああと頷いた。
「約束する」
「絶対、だからね」
「分かってるよ」
もう一度ごめんな、と謝るギーアを、ミリナは少し微笑んで受け止めた。
◇◇
その日は授業に行く気も失せたため、二人揃って下校することにした。
本来そんな事をしようものなら学院詰めの警備隊に力ずくで引き戻される所だが、ギーアの立場を知っている理事長の計らいで裏門から抜けられる通行許可証をギーアは受け取っていた。
裏門は職員用通路のため、さすがに警備隊もそこまでは張っていない。
それを提示された門番は胡散臭そうにしていたが。
「なんでそんなの、持ってるの?」
もう一人も疑問に思ったのか、ギーアを懐疑的な目で見ている。その目は盗みでもやったのかと疑う目だ。
ギーアはため息をついて、首を振った。
「盗んでない。俺は本職が冒険者だから、指名依頼が来た時に対応できるよう貰っておいたんだ」
「そんなの、初耳」
他の冒険者をやっている生徒はそんなの持っていないだろうからその意見は正しいが、今だけは騙されていてもらおう。
「お前が他と関わりないだけだろ。ある程度実績積んだ奴なら貰ってるはずだ」
「……そう?」
「そうだ」
嘘だ。しかしギーアの言った通り他の生徒と関わりの薄いミリナが確かめる術はない。
首をかしげていたミリナだったが、やがて納得したのか他の話題に移って行った。
もう大丈夫そうだな、とギーアが一人安堵している内に、第三区のミリナの家までやって来る。
二ヶ月近くも経てば心配した母親が家の前で立っているような事もなく、ミリナはそのまま手を振ってギーアと別れた。
「ギーアに泣かされたって、言っておくね」
「やめろ」
間違ってはいないのだが。明らかに泣いた後のその顔で言えば次会った時に母親から詰められるのは確実である。
嬉しそうに階段を上がっていく友人を見送って、ギーアはため息を零す。感情豊かになるのはいいが、少々冗談の質が悪いのがいただけない。
どうしたものか、と第二区へ戻るギーアの背に、どこかで聞いた事のある声がかかった。
「おい、そこの豚野郎」
その呼びかけに足を止めたギーアは、先の罵倒に眉をしかめていた。
(豚野郎、か)
ついには人間ですらなくなったか。
不快感を表に出さないように振り返ったギーアは、その下卑た笑みを浮かべる身なりのいい生徒達の姿にとある記憶がフラッシュバックした。
学院の廊下で、明らかにやりすぎていたリンチと興奮した罵り声。
(ラングロース家の……貴族か)
貴族、という言葉に目を細める。
あまりいい思い出はない。依頼で赴いた時も、生まれた家のことも。
そんなギーアの内心など知らぬ男は、ニヤついた笑みで憮然を隠しもせず、周りにいる取り巻きを見せつけるようにしてギーアを取り囲む。
「最近調子に乗ってるっていう豚はお前のことか?」
その問いかけに、早くも彼女との約束を守れなさそうだとギーアは目を閉じた。
本当はこの話と前話との間に一、二話ほど暴力描写が続いたり、心配するミリナにギーアが八つ当たりしたりする話を入れる予定だったのですが、筆が乗らなかったのと読んでて面白くなさそうだなと思ったので省きました。
時間が出来たら書こうと思います。