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第三部 4

第三部 4


 教室に戻り、まだ残っていた杉本の袖をひっぱりながら、

「な、今日も途中まで、一緒に帰ろう」

 何度もゆさぶってみた。しかし杉本の答えはつれなかった。いつもどおりと言えばいいのだろうか。露骨にいやな顔をされ、

「立村先輩、いいかげん甘ったれるのはおやめくださいませ」

 きっぱりつっぱねられてしまった。目の前には駒方先生が他の生徒と話をしているのが見えた。たぶん下級生とだろう。どうやってご機嫌を取るか案を練っているうちに、杉本はさっさと立ち上がり、

「そちらに、お待ちです」

 相変わらずの棒読み口調で戸口を指した。思わず眼をそらせた隙に杉本は消え去ってしまい、あとはむさい頭の天羽が残されているだけだった。にやにやしながら上総を上から下まで眺めると、

「じゃあ、立村、さっさといこか」

 いきなり両肩捕まれて、ぎゅうっと抱きしめようとする。悪いが身体を触られるのは嫌いだ。手を払いのけると同時に片腕をしっかり押さえられた。やぶへびである。

「善はいそげってことでなあ。さ、今日はデートデート!」

 つい二十分くらい前まで涙ぐみながら、評議委員事情の修羅場を語っていた天羽と、楽しげに鼻歌歌いながら廊下を歩いていく奴とは別人としか言いようがない。天羽にはもともとめいっぱいの光と同時にどことなく重たい闇が同居しているイメージを感じていたような気がした。いつだったろうか。思い出せずまずは切り返す言葉を。

「切り替え早いな」

「それが俺の人生って奴よ」

 ──切り替えか。まあいいか。

 自分で口にしてみて、少しすっきりした。杉本に逃げられたと気付いた時の苛立ちがすうっと雪のように解けていく。そうさ、どうせ杉本は明日もE組で勉強しているにきまっている。上総だって三年D組の教室へ平気な顔して戻っていく気はさらさらない。それに今朝の話もあって、なんとなく暗黙の了解で、しばらくはE組でのおこもりを許されそうな気がする。上総もしばらくはE組の住民としてひっそり息を潜めていられそうだ。

 ならば、しっかり利用させていただく心積もりだった。


 だいぶ時間を食ったせいか、すれ違う同学年の連中はほとんどいなかった。天羽の腕を振り払い、だまって上総はついていくことにした。空の雪はすでにやみ、雪の半分は踏み固められていた。天羽の歩く方向はすべて、きれいに車のわだちが残り歩きやすかった。

 交わす言葉も、今はない。あとで、出てくるに違いない。

 さっき聞きそびれたことも、きっとあるのだろう。

 天羽は口を結んだまま、学校近くの住宅街に向かっていった。こいつの住んでいる地区は青潟の高級住宅街だと聞いたことがある。歩いていける距離ではあるらしい。「らしい」としか言いようがないのは、上総が今まで一度も天羽の家へ遊びに行ったことがなかったからだ。こぼれる話の端々から、更科、難波、轟さんの三人が作戦会議かなんかでたむろうことはあるらしいが、その中に上総は含まれていなかったらしい。少しひっかかるがどうでもいいことだ。

 ──天羽の家、だろうな。

 なんとなく見当をつけた。やがて、刑務所レベルの高い塀に囲まれた、少し暗めの道へと出た。それまでは雪かきもちゃんとなされていて、歩きやすい雪道だったのに。一気に足首までうもり、靴下に雪がどっさりまきついた。空もいつのまにか黒ずんで来ている。

「今夜も降るかな」

「かもな」

 天羽はにやりと笑い、親指で塀の向こうに見える二階建ての家を指差した。

 高級住宅地、よりは下町風の、古びた倉庫のような家だった。

「あすこだとあまり、邪魔されねえですむかなってとこで」

「どこだよどこ」

「あ、そっか。立村、俺のうち来たことねえもんな。そっかそっか。あのな、あそこはな、俺のうちっていうよりも、じいちゃん所有の合宿所。あ、合宿所ってのも変だよな。現在は倉庫。ダンボールまみれだけど、石油ストーブもあるし、ちょっとたむろうにはちょうどいいということでな。けど夏はあっちいぞ。とにかく蒸すの。死ぬぞありゃあ」

「それだけは大丈夫そうだよな」

 そのまま塀の途切れたところまで歩き、天羽の誘うまま「倉庫」もとい「合宿所」に向かった。学校の中庭程度の敷地に、小さく倉庫と物置らしきものが立ち並んでいる。確か天羽の祖父にあたる人は、著名な書道家だと聞いたことがある。たぶん書道関連の合宿所か塾かなにかだったのだろう。そう見当をつけ、上総は鉄の階段をゆっくり昇っていった。凍っているせいか滑って落ちそうになり、手すりにしがみつくこと二回。

「おーい、大丈夫かーい」

「大丈夫」

 慣れた風にさっさと昇ると、天羽はポケットから鍵を取り出した。一緒にマッチ箱も。ライターより目だたないにしても、見つかったら校則違反になりそうな代物だった。

「じゃあ、入れよ」

「おじゃまします」

 戸を開け、冷たく埃臭い部屋に足を踏み入れた。天羽が先にスニーカーを脱ぎ捨てた。だいたい二十畳くらいはありそうなだだっぴろい部屋で右手奥に布のカーテンらしきものがぶら下がっている。眼を凝らしてみるとそれは舞台用の幕ではないだろうか。ただ、そうじゃないかと思うだけで、あとは大量のダンボールの山がうずたかく積まれている。その隙間には一束二十冊以上の分厚い本が納められている。黒地に金文字で、漢字だらけの表題が綴られている。中にはやたらとカラフルな色使いの絵画も適当にひっくるめられている。そして金の仏像らしきものが二十体以上、これも全く心遣いないまま床に転がっている。

 ──もしかして、天羽の言ってたのって、あれか。

 上総が思いをめぐらせている間にも、天羽はてきぱきと石油ストーブを引っ張り出し、一発で火を点していた。ストーブの小窓をにらみつけて、

「しけってねえなあ、よかったよかった」

 小さく拍手なんぞしている。わざとはしゃいでいる風に見えた。ようやく上総の不信そうな目に気が付いたのだろう。言い訳し始めた。

「びびったろ。ここな、例の教団がらみのガラクタ。家の中にあるのはたまったもんじゃねえってことで、さっさと処分したってわけよ。けど、粗大ゴミ、燃えるごみ、燃えないごみ、わけるのもしんどいしさ。俺んちで出したらまたお前んとこの父さん雑誌に突っ込まれるのが目に見えてるし、とりあえずここに隠してるってわけなんだ。あ、そいでな、一階も部屋があって、そっちも使えるけど、どうする」

「いいよここで」

 せっかく脱いだ靴を履き直すのは面倒だった。上総はストーブの前にかがみ込み、手袋をはめたまま手をあぶった。「その辺に座れや」と天羽も畳を叩いた。

「ありがとう」

「本当ならなあ、体育器具室あたりでこっそりってのがベストだったんだけどな。あすこ、二年の連中が使ってるらしいんだな。ほら、新井林あたりが、二年連中集めて秘密会議なんぞやらかしているらしいんだ」

「秘密会議?」

 初耳だった。天羽は頷いた。手袋をはずし、小窓にあぶった。

「生徒会長やってる彼女がやたらとそこらへんうろうろしてるからな、一度新井林をとっ捕まえて聞き出したわけ。どうも、あすこ、戸の向こう側に防空壕の跡みたいなかんじの部屋があるらしいんだな。けど、まあそれは第一発見者の新井林に敬意を払って、俺なりに内緒にしてやると決めたってわけ。わりいな、立村。そこんところ、内緒でたのむ」

「わかった」

 やはり天羽は新井林をうまく使い、押さえ込んでいるというわけなのだろう。

 なんだかまた、気が重たくなってきた。


 たぶん、中庭での話第二弾をやりたいのだろうと心積もりはしていた。

 天羽に水を向けようとしたところ、すぐに手で「ちがうちがう」のまねをされた。

「お前、さっき、トドさんとしゃべりたいって言っただろ」

「言ったけどさ」

「だからお前がE組で杉本とじゃれてる間に、電話一本入れといた」

 さらっと答える。そんなに時間なかったように思うのだが。

「けどそれって、いきなりで」

「大丈夫ってことよ。トドさん今ごろ青潟の海を泳ぎながら、さっそく海面に顔を出そうとしているころと見た。あの人のうちもな、うちからすぐそばだしなあ。あ、小学校は学区が違ったから顔を合わせてねえけどな」

 説明しなくてもいいのに、どうでもいいことを天羽は言ってごまかそうとしている。でも何を? 何を言い訳しているんだろう。

「俺もできれば早いほうが助かるけど、でもそんな急がなくたって」

「いいじゃねえの、善は急げって言っただろ」

 同じ言葉を繰り返し、天羽は大きなあくびをした。


 ──天羽って、本当はどういう奴なんだろう。

 ふたりでしばらく手をあぶりながら、上総は隣の天羽を横目で見た。

 修学旅行の時に、早朝の廊下で「チェリーボーイ脱出発言」を耳にして仰天したのもかなり昔のことに思える。評議委員長選挙の壮絶な結末の時、最後まで上総を気遣ってくれたことも、また一、二年の頃からお笑い担当として物まねやうけないギャグの連発をして盛り上げてくれたこと、さまざまな思い出が蘇る。

 でも、本当の意味で、天羽と語り合ったことというのは、殆どなかったような気がする。

 難波も、更科も、轟さんも、それなりに語る機会もあったに違いない。でも、上総はそれ以上の繋がりを天羽と持ちたいと思ったことがなかったんじゃないだろうか。現在は前期・後期のそれぞれ評議委員長としてそれなりの話はする。もちろん女子ネタとかもする時はする。でも、本当のところ、天羽という男がどういうことを考え、どういう生き方をしたがっているのか、正直つかめぬまま卒業を迎えそうだと思っていた。

 ──宗教がどうのこうの、って言ってたよな。

 震度五以上の地震がきたら一発でお陀仏じゃなかろうかというダンボールの中に、天羽は何を詰め込んでいるのだろう。おちゃらけて「あーら、立村くーん、なーにやってんの」と声をかけ、受けを狙おうとする天羽の裏には、きっと想像もつかない重たい荷物が積まれているに違いない。もちろんそれを知ろうとする気持ちはなく、言わないならば言わないまま、そっとみまもるだけでいいとは思う。ただ、どこかで、何かが壊れかけている、そんな気はしていた。

 たとえば上総のように、どうしようもなくなって、杉本の手を握り締めて学校を飛び出した時のように。

 今の天羽は、何か飛び出したくてならないのだろうか。

 それが「何」なのかわからない。

「あーれ、なに見つめてるの、立村くーん」

 いきなり天羽が美里の口癖を真似した。笑うのが礼儀と思って、唇をゆるめておいた。


 指先と顔だけが熱くなってきた頃、鉄階段独特のがしがしした足音が外から響いてきた。

「おっ、トドさん無事、水面から顔を出しおったな、まてまてただいま」

 腰軽く浮かすと、天羽はでかい声で、

「よっしゃ、入ってこいーな」

 よくわからないアクセントで呼びかけた。

「どうも、おじゃましまーす」

 戸口で白い息を吐きながら現れたのは、全身頭から足まで真っ黒な、謎の人物だった。いや、轟さんだということはもちろん承知しているのだが、足元の黒い長靴と、黒いズボン、そして黒いアノラック、さいごは毛糸の黒い帽子。ここまでなぜ、黒尽くめにしてくる必要があるのだろう。

 上総は軽く頷いて、歓迎の意を表した。たぶん美里にそうはできないだろうと思いつつ。

 替わりに天羽は立ったまま、さっきまで自分の座っていたストーブ前を指差した。

「ここ座れや」

「どうもありがと」

 帽子を脱ぎ、アノラックはそのまま、雪だけ払い、轟さんはいつものように前歯をちらつかせつつ軽い挨拶を交わした。天羽もにんまり笑いを浮かべつつ、

「ま、あれだ。今日はトドさんのだーいぶ遅れたお誕生プレゼントっつうことで、受け取ってくれやな」

 轟さんはいぶかしそうに首を傾げた。

「私の誕生日、知ってるよねえ、半年近く前だって」

「だから、なんもやれなかったから、今日は特別なのだわな」

「よっくわからないけど、サンキュ、ありがたく」

 何か渡したのだろうか。上総はふたりの手元をそっと覗き見た。特段プレゼントらしきものをやり取りした形跡はない。天羽も轟さんも、座り込んだままの上総を見下ろし、また納得した風にこくこくした。

「じゃあな、電話で言った通り、俺は一階でテレビ観ながら寝てる。気の赴くまま、語るがよい」

「ほんとに、いいのかな」

 念を押すような口ぶりで、轟さんはここだけ真面目に問い返した。

「俺が下手に説明するよか、お前の方がいいという、評議委員長の判断ってことよ、あとは頼んだ、旦那!」

 ──女子にいくらなんでも旦那ってのは、どういうもんだろうな。

 ふたりのやりとりが終り、天羽はダンボールの裏へとするする入り込み、見えない階段を派手な音をさせつつ降りていった。あまりの軋み具合に、この家の古さを強く感じてしまった。

「まじであれ、鶯鳴りよね。階段、響いてる」

 轟さんは女子らしく膝をかかえ、ストーブの小窓まん前に座り込んだ。アノラックは脱がなかった。

「まああれよ、天羽くんのお許しも出たし、私もきっちりと話す必要感じてたし。立村くんのご指名は嬉しかったよ。ありがとう」

「別にそんな、指名ってわけじゃあ」

「そういうことにしといてよ。どうせ、あと一ヶ月で高校なんだから」

 言葉の終りに、かすかな寂しさをよぎらせ、轟さんはいつもの飛び出た眼を軽くこすり呟いた。

「天羽くんのプレゼント、私が一番ほしいものだったんだ。嬉しいよね」

 上総をちらっと見やると、轟さんはポケットから缶コーヒーを二本、そっと取り出し畳の上に置いた。

「寒いから、あったかいもの飲もう」

 手袋を脱ぎ、指先で缶に触れた。焼けるように熱い。

「ありがとう」

 上総も膝をかかえ、轟さんと同じように座りなおした。

「轟さんの誕生日っていつだったっけ」

「立村くんと同じくらいよ。九月二十日」

「一週間しか違わないのか」

「そういうことよ」

 轟さんはプルトップをはずすと、口をしめらせながら大きく息を吐いた。

「卒業間際まで、知らないままだったんだよね。今日会わなければね」


 轟さんと話をしておく必要は、実をいうと去年の終りくらいから感じていた。

 すでに美里との間がぎくしゃくしていたというだけではなく、女子同士のいざこざやこれから先、英語科に進むに当たってどういう人たちが多いのかをチェックしておきたいと思っていたからだった。特に轟さんはB組。成績優秀者が暗黙の了解で集められたクラスの住人だ。豊富な情報量と共に、これから先上総がどれだけうまく、クラスですり抜けていくかの作戦として、得ておきたかった。

 もっともそんな姑息な真似をする気は、すでに失せていた。何をしたってもう無駄ならば、開き直るしかない。むしろそれよりも、天羽が抱え込み、三年評議委員たちがしでかした大事件の顛末を、女子の立場から聞かせてほしかった。それも、美里の立場ではなく、轟さんの視線からどう映っていたのかを教えてほしかった。どうしてなのかはわからないが。

「天羽からある程度は聞いたんだけどさ、俺がいない間に起こったことについてなんだけど」

 そこまで話すと、轟さんはすぐにこくりと頷き、缶を膝の上に載せた。

「美里からは聞いてない?」

「今日は殆どしゃべってないし、しばらく顔を合わせる気もないんだ」

 轟さんはまじまじと上総の顔を眺め、次に、

「じゃあ、杉本さんとは?」

 問い掛けた。

「E組で今日は一日中顔合わせた」

「そうなんだ、立村くん、自分の本能に素直だね」

「なんだかそれ、誤解を招く表現だと思うよ」

「ごめんごめん。でもいいや。じゃあ、天羽くんサイドの情報しか得てないってことになるよね。近江さん命の天羽くんだから、きっと小春ちゃんが悪者になってるだろうね」

「なんとも言えないけどさ」

 驚いた。轟さんはすでに、天羽の心理をかなり深く読み取っている。上総が三年かかって得たものを、あっさりと理解している。

「私はやっぱりこの不細工な顔してても、女子だからね。女子側の情報がどうしても多いのよ。天羽くんにも言われたのよ。女子側の立場から観てどうなのかを立村くんに説明してやってほしいってのと、あとはね」

 言葉をとぎらせ、轟さんは首を振った。

「とにかく、一気に話すから、聞いててよね。ちょっと脱線するかもしれないけどね」

 上総は轟さんの、ちょっとでっぱった目元と、喋るたびにすうすう言う口元のほころびをじっと見つめた。指先の缶コーヒーが少しずつぬるまっていくのが感じられた。


「ゆいちゃんのことは難波くんがはっちゃきになって守っているから心配してないんだ。だからその件については一切触れないほうがいいと思う。それよりも問題は小春ちゃんと杉本さんのことなのよ」

「杉本が?」

 思わず尋ねてしまった。轟さんは「なんだか立村くんらしいね」と再び微笑んだ。

「少し話を整理するけど、小春ちゃんがなぜ、近江さんを追い掛け回したかってことについて説明するね。小春ちゃんはゆいちゃんと駅で待ち合わせして、スーパーの屋上から飛び降りる約束をしていたらしいんだけど、行かなかったのよ」

「いかなかったって、つまり、誰かに霧島さんの情報を伝えに行ったとか?」

「そのあたりはわからないな。小春ちゃんしかそれはわからない」

 もっともだ。てっきり担任に告げ口しに行ったとか、そういうところを想像していたのだが。

「その時にね、小春ちゃんは杉本さんに会うためE組に行ったらしいの。杉本さんが元気なかったらしくて、しばらく一緒にいたらしいという話は、他の子から聞いてる」

「誰から?」

 情報源はあいまいであってはならない。すぐに答えが返ってきた。早い。

「片岡くんよ。片岡くんも別の意味で小春ちゃんから目を離していないから」

「英語二番の、あいつか」

「やっぱり立村くん、覚えているとこが違うよね」

 ふたたび轟さんは声を立てて笑い、すぐに押さえた。

「杉本さんにしばらくべったりくっついていた後、その足ですぐ生徒会室に向かったらしいというとこまでは聞いてるのよ。もちろんそれも片岡くんがついていったから。でもその後、なぜか小春ちゃんは近江さんと一緒に出てきて、女子同士さっさとどこかに行っちゃったらしいんだけどね。その後で喜劇か悲劇かわからないけど、ああいうことになっちゃったらしい、今のところわかっているのはその辺よ」

「全く見当つかないな」

 もちろん西月さんの行動範疇については全く理解できない。ただ、なぜ轟さんは杉本梨南の存在をいきなりクローズアップしようとしたのだろう。上総は素早く、脱走直前の杉本の様子を思い返した。そういえばここ数日、杉本の壮絶な罵倒を上総は受けていないような気がする。それどころか素直にくっついてきてくれたりもしている。今日なんてしっかりふたり向かい合って勉強したりもしていたじゃないか。

 ──杉本は、確かに、何か変わってきた。

「杉本に何かがあったのか?」

「私もわからないんだ。こればかりは杉本さんに聞いてみないとなんとも言えないね。でも私は杉本さんに嫌われてるようだから近づけないしね」

 轟さんは首をひねりながらも話を先に進めた。

「天羽くんが話していたけど、小春ちゃんが傘を振り回して近江さんを刺そうとしていたのは本当らしいのよ。それで慌てて天羽くんが身体を張って、土下座して、近江さんを守ろうとしてなんとか収まったらしいの。もっともその場を見ているのは近江さんと天羽くん、それと小春ちゃんだけ。後から難波くんが駆け寄ってきたらしいけれどもその段階では小春ちゃん、近江さんから傘を取り上げられていたから」

「近江さんが傘を取り上げたって、やられそうになってた相手がか!」

 またもやびっくりだ。上総は缶を思わずつぶしそうになり、慌てて畳に置いた。

 轟さんもこのあたり、ゆっくりと二回、頷いた。

「そうなのよ。近江さんの態度はかなり落ち着いていたらしいのよね。天羽くんは近江さん命野郎だからそんなの目に入らなかったらしいけれど、私が観る限り、挑発したのは近江さんの方じゃないかなって気がするんだよね。それでかっとなった小春ちゃんが追いかけて、それで近江さんが確実に安全と思われる場所に飛び込んで、って感じみたい。天羽くんの『姫を守る騎士』みたいなヒロイックワールドを壊すのは悪いけど、小春ちゃん、近江さんの頭脳に負けただけだと思うのよね」

「でもそれで、退学なのか?」

 わけがわからない。こういう数字が並びそうな論理的展開が上総にはついていけない。

「そうね。まるで私、近江さんを敵にまわしていそうな話ぶりになっちゃうんだけどね。つまり、近江さんは小春ちゃんを怒らせてしまった後、慌てて逃げて天羽くんに盾となってもらい、さっさと落ち着かせようと思ったんじゃないの。言いたいことそれなりに近江さんもあっただろうし、小春ちゃんも口が利けないから行動で怒りをしめすしかないし。ただ、まさか傘を振り回すような行動を取るとはおもってなかっただろうな。そこらへんは近江さんの読み違いミス」

「読み違いミスですまないと思うよ。これってさ。だってその結果、西月さんは退学に」

「退学って決まってないよ。ただ、これから先それに近い形でおさまると思うけどね」

 轟さんの言葉は混沌ワールドをどんどん深彫りしていった。上総には全くついていけない。


「天羽くんから聞いたと思うけど、A組の片岡くん、彼のうちは『迷路道』という名前の有名な婦人服チェーンの会社なのよ。それがどうってわけではないけど、かなりのお金持ちであることは確かよね。それとこれは前から知ってたことだけど、小春ちゃんは今年の夏、友だち連れて片岡くんの実家に一ヶ月泊りがけで出かけたらしいのよ。せいぜい一週間じゃない? それが一ヶ月まるまるよ。夏休み中、それも、最初の二週間は友だちと一緒だけど、残りは片岡くんを含めて他の子たちが帰されて、あとずっと小春ちゃんと片岡くんのお母さんだけって環境のままだったの。これってすごいよね。つまり、小春ちゃんは片岡くんのお母さんに気に入られたかそれとも何か考えさせられることがあって、ってことかもしれないしね。今だに片岡くんと付き合いが続いているってことは、たぶん気に入られた可能性の方が高いと思うんだ」

 それは知らなかった。美里もそんなことをちっとも話してくれなかった。

「どういう事情かわからないけれど、事件が起こってからすぐ、片岡くんの家から申し出があって、小春ちゃんを一時的に隔離させようという話になったわけなの。あと一ヶ月ちょっとで卒業だし、もちろんE組で過ごさせるという方法もないわけじゃない。けど、天羽くんの言う通り小春ちゃんの行動には殺意が否定できないということもあって、大事にしないようにこっそりと、処理をしようってことでね」

「でももし殺意があったら、警察沙汰になってるよな」

「そこがコネA組の強みよ。幸いというかなんというか、その場にいたのは当事者プラス天羽くんだけ。奇跡的にも廊下には誰もいなかったの。そして呼び出された狩野先生はA組担任かつ、近江さんの義理のお兄さん。天羽くんから聞いたところによると、近江さんのことを『紡ちゃん』ってものすごく可愛がっているようなのよ。学校では苗字だけどね」

 これも知らなかった。でもそう考えていくと、昨日の出来事は自然と繋がっていく。それだけ可愛くてならない義理の妹が、クラスの女子に襲われてしまったとしたら。教師としてか、肉親としてか。どちらの立場を取るだろう。もちろん公平でなくてはならないのは、当然だけど。

「狩野先生もね、もともと小春ちゃんのことを重たく感じていたみたいでね。もちろん教師としてはえこひいきしてなかったと思う。でも、やっぱりね。いろいろあったみたい。今のところは熱出して入院中という対応をしているけど、たぶん、四月の段階で転校になると思うな」

 ──そんな、まさか、そんなことするわけないじゃないか。


 いつも公平な対応をするはずの狩野先生が、そんな身勝手な判断を下すわけがない。

 絶対に信じたくなかった。缶コーヒーの端を噛んだ。


「轟さん、ひとつ聞いていいか」

「なに」

「女子の間では西月さんの行動理由ってどういうことだと思われてるのかな」

 行動理由、なんて言葉は正しくないかもしれないけれども、続けた。そうだった、「動機」って言葉を使えばよかった。

「やはり、天羽の態度に対する恨み、ってことかな」

「そうだね、ただ本当のことは誰にも伝わってないはずよ。近江さんか天羽くんが口を割っていない限りね。今のところ噂としては、『小春ちゃんがとびかかって近江さんを殴りつけ、打ち所悪くて近江さんが倒れたままになってしまった』ってことになっているはず。天羽くんをめぐる三角関係のもつれなんて、なんかワイドショーみたいな展開だとみんな思っているわね。本当はたぶん、違うのに」

「違うって、どこがどうなわけ」

 肩をすくめて、轟さんは揺れる炎をじっと見つめたままつぶやいた。

「たぶん小春ちゃんは、今でも天羽くんのこと好きじゃないかな。でも、天羽くんに好かれるために一生懸命片岡くんと付き合ってるはずなんだよね。そんな小春ちゃんが、今更彼女の近江さんに恨みを晴らそうとするっていうのが、ちょっと理解できないんだ。小春ちゃんの性格だったら、最後の最後まであきらめないで、片岡くんを好きな振りをしつつ天羽くんを見つめようとするに違いないもんね」

「嘘だろ、それ」

「知らなかったの、立村くん。小春ちゃんって子はね、天羽くんに嫌われないようにするためならば、何でもするのよ。本当はそんなことすればするほど、天羽くんに嫌われてしまうってこと、最後まで気付かなかったけどね。天羽くんもきっと、そういうことしてた自分が許せないんだろうなあ。なんか、そんな気がするんだ」

「天羽が?」

 こっくり頷く轟さんは、炎から目をそらし、上総の真後ろに積み重なっている大量のダンボール箱を見上げた。軽く咳を二回して、

「私、天羽くんがまだばりばりの宗教活動家だった頃から知ってるんだけどね。小春ちゃんと同じ顔してたんだよね。あの頃の天羽くんってね」

「ばりばりの宗教活動家って何時ぐらいの時」

 聞いていいのだろうかわからないが、好奇心には勝てなかった。轟さんはあっさり答えた。

「小学校六年の頃かな。ここがまだ、現役の合宿所だった頃。直接しゃべったことはなかったけどね。青大附属に入学して、向こうから声かけられた時はそりゃあ、びっくりしたよ。よく覚えてたなあってね。私の方はもちろん覚えてたし、会った時にはきちんと話をつけようって決めてたからね。まさかこんな面白い付き合いになるとは思ってなかったけどね」

 くくっ、と轟さんは低く笑った。

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