08
私は、スカートのポケットから手帳と万年筆を取り出し、さっとペンを走らせた。
リゼットを庇うつもりでは、決してない。ただ、諦めただけだ。父や継母が駆けつければ、否が応でも騒ぎになるだろう。そして、どんな結末になるのかも、目に見えている。彼等はリゼットを責めるのではなく、高価な服を汚してしまった私に、ありったけの罵声を浴びせるだけだ。
『急いで片付けようとしていたら、手が滑ってしまいました。申し訳ございません』
そう書き綴った頁を、オルフェイン卿へと見せる。しかし、その言葉で彼が納得してくれるとは、少しも思ってはいなかった。何せ未だにインクの瓶を持っているのは、リゼットなのだから。どちらが嘘を吐いているのかくらい、考えるまでもないだろう。
頁に視線を滑らせるや否や、彼は眉間に皺を寄せ、ひどく顔を顰めた。
アルベールたちの無礼には、そんな表情など見せず、飄々と言葉遊びで返していたというのに。私が嘘を吐くのは、彼等以上に腹立たしいことなのだろうか。所詮伯爵家の娘如きが、と。それどころか、今や"危険人物"として囚われた身のくせに、と。そんな奴が、公爵家に並び立つ"大魔術師"相手に嘘を吐くのは許しがたい、と。
「誰が嘘を言えと言った?」
先程よりもさらに低められた声に、思わず手先が震えそうになる。彼に叱られることが怖いわけではない。では何故、こんなにも胸が苦しいのだろう。
大広間から連行された時も、彼は私に冷たい目を向けた。感情のうかがえない淡々とした喋り方をされることも、まるで無視でもされているみたいに長く黙り込まれることも、あったというのに。
それなのに、どうして今、私はこんなにも怖いのだろう。怖くて怖くて仕方がないのだろう。どうして――何かを失ってしまうような、そんな気がしてしまうのだろう。
微かに震える手を必死に堪えながら、それでも私は、頁の下部に言葉を綴る。少しでも文字が乱れてしまわないように、ひとつひとつの線に意識を集中させながら。
『嘘ではございません』
リゼット越しにオルフェイン卿の瞳を真っ直ぐに見つめながら、私はそっと、静かに笑う。どんな言葉を並べ立てたところで、私が嘘を吐いていることは、誤魔化しようがない。彼は疾うに“真実”に気付いているのだし、もうこれ以上繕う必要はないはずだ。
暫くの間、オルフェイン卿はかたく唇を引き結んだまま、険しい顔で私を見ていた。沈黙に耐えきれず、リゼットが声をかけようが近寄ろうが、そんなものまるでお構いなしに。ただ私だけを、その赤い瞳に映し続けていた。
やがて彼は、鉛でも詰めたような重々しい溜息を吐き出し、乱雑な手つきで頭を掻いた。どうやら折れてくれたらしい。感謝の言葉を告げる代わりに、リゼットには見えないよう気を付けながら、軽く頭を下げた。
「んで? 持ってく荷物はどれだ?」
右肩に垂れていた三つ編みを背中へ払い除けながら、オルフェイン卿はくるりと室内を見回す。
元々は物置として利用されていた屋根裏部屋はとても狭く、三人も入ればそれだけで手一杯になるような広さしかない。
だから、彼が部屋全体を把握するのに、ほんの数秒もかからなかったようだ。彼は仄かに黄ばんだ漆喰の壁に寄りかかると、大仰に肩を竦めてみせた。
「伯爵家の娘の部屋にしちゃあ、随分と薄汚えな」
これでも昨日の昼間に掃除をしたばかりなのだけれど、と心の裡でこぼしながら、私は苦笑する。事実、この部屋は薄汚い。屋根や壁の小さな隙間から土埃や木屑が落ちてくるせいで、毎日欠かさず掃除をしても、翌日には部屋のどこかに必ず汚れが積もっている。
その上、部屋に置かれている家具も、どれもぼろぼろになるまで使い古されたものばかりだ。鍵が壊れていたり、扉に傷が入っていたり、或いは、微妙に左右の高さが違うせいでがたついていたり。
それらも相俟って、この屋根裏部屋はいつも汚く見えてしまう。
それでも――。デスクの上に並べていた文具類をまとめて両腕に抱え、床に広げたトランクに歩み寄りながら思う。それでもこの部屋は、私にとって唯一安らげる場所だった、と。
運んだそれらをトランクに詰め終えても尚、中にはまだ幾分スペースが残っている。服も入るだろうし、本も幾冊か挟めるだろう。
それでも、これ以上この部屋から持ち出すつもりのものはないので、私はトランクの蓋をぱたんと閉じた。まるでこの部屋への、最後の挨拶のように。
左右についた金具を閉め、持ち手を握って立ち上がる。そんな私を見て、オルフェイン卿はぎょっとしたように目を見開いた。
「は? そんだけ?」
もちろんです、という意を込めて、笑みと共にひとつ頷く。すると彼は、何か言いかけたものの、ふいと室内を一瞥し、それから心底呆れたとばかりに息を吐き出した。
曲がりなりにも、伯爵家の娘。そうであるというのに、与えられた部屋の薄汚さや、傷んだ家具類や、クローゼットに吊るされた安物の衣服を見て、果たして彼はどう思っただろう。哀れな奴、と同情を抱いただろうか。それとも、あまりの体たらくを嗤っただろうか。――どちらにせよ、あまり考えたくはなかった。
「まあいい。……戻るぞ」
そう言って、オルフェイン卿は出入り口へと足を向ける。彼自身、あまり此処に長居をしたくないのだろう。不機嫌な横顔が、それを如実に物語っていた。
けれど、いざ歩み出そうとしたところで、それまで黙っていたリゼットが唐突に、彼の腕にそっと手を添えた。
驚いて彼女の顔を見遣れば、そこには、どこか恍惚とした表情がほんのりと浮かんでいる。頬に朱が差しているように見えるのは、陽光のせいによる見間違いだろうか。それとも――。
「まあ、大魔術師のルシアン・オルフェイン様ではありませんか。素晴らしいご高名は、かねてより方々でお聞きしておりましたわ」
蜜のような甘ったるい声で語りかけながら、リゼットはさり気なく、オルフェイン卿の腕へと身を寄せる。その様子を呆然と眺めながら、嗚呼、いつだったか同じような光景を目にしたことがある、と、頭の片隅でぼんやりと思う。
あれは確か、一年前。エドモンド様に逢いに、ベルクール家の邸へ足を運んだ時だった。夫人の趣味で美しく整えられた庭の片隅。ジャスミンホワイトプリンセスという麗しい名を冠した花の茂るガゼボの中で、今と同じように、彼女はエドモンド様にそっと身を添わせていた。互いの顔を間近で見つめ、仲睦まじく微笑み合いながら。
――君には、リゼットのような女性らしい甘美さがない。
エドモンド様にそう指摘されたのは、その数日後だったような気がする。はっきりとは憶えていないけれど。でも確かに彼は、その頃にはもう、リゼットの虜になっていた。
彼の言っていた通り、私にはリゼットのような、甘美な魅力はないのだろう。そんなものを持ち合わせているという自覚も、無論ない。容姿も、身だしなみも、彼女の方が上なのだ。天使のように愛らしくありながら、蠱惑さも兼ね備える彼女に勝るものなど、私にはなにひとつない。
だから、オルフェイン卿もまた、彼女の手中に落ちてしまうのだろう。そう思うと、何故だか胸の奥がちくりと痛んだ。
「折角いらして下さったのですから、お茶でもいかがでしょう? 東の国より取り寄せた、絶品の茶葉がございますの」
とめるべきだろうか、それとも、ひとりで先に馬車へ戻るべきだろうか。リゼットの、蕩けたような横顔を見るともなく見ながら考え倦ねていると、突然、オルフェイン卿が私へと目を向けた。
「いつまでそこに突っ立ってんだ。さっさと行くぞ」
引き止められていたのは貴方の方では、と思うけれど。しかし不思議と、そう言われたことに悪い気はしなくて、私は微笑みながら頷き、扉へ向かって足を踏み出す。
先に部屋を出た私の後に続いて、オルフェイン卿がひどく冷めた顔で踊り場へと出てくる。結局彼は、リゼットへ視線を向けることはついぞなかった。一瞥することさえ、一度も。
それがなんだか嬉しくて、階段を降りる足が心なしか軽く感じられる。
思わず踏み外してしまわないよう、一段、一段、注意しながら下っていると、半ばまで来たところで不意に、屋根裏部屋の方からリゼットの悲鳴が聞こえてきた。
驚いて、弾けたように振り返るけれど、オルフェイン卿の逞しい身体に視界が遮られ、どんなに見上げても、踊り場の様子さえ全く見えない。
何が起きたのか分からず狼狽えていると、そんな私の頭上で、オルフェイン卿がくつりと嗤った。心の底から愉しげに。或いは、満足げに。
「虫にでも襲われたんじゃねえの」
そう言って、再びくつくつと嗤う彼の声を聴きながら、詮索するのはやめよう、と思うことにした。あの部屋ならば、虫の一匹や二匹出たところで、不思議ではない。
全ての階段を降り終え、エントランスに辿り着いても、更には、中庭を抜け、門扉へと続く道へ出ても、案の定、見送りに来る人間は誰ひとりとしていなかった。
それはそれで良かったのかもしれない。父にも、継母にも、その他の使用人たちの誰にも、顔を合わせずに済んだのだから。彼等に会いたかったわけでは、決してない。
そう思いながら、開いた門扉の奥に待つ馬車へと歩み寄り、ステップへ足をかけようとしたところで、唐突に、背後から呼び止められた。
「――なあ」
振り返ると、いつになく真剣な顔をしたオルフェイン卿と、目が合った。陽光を浴びた真紅の瞳が、まるで彼の裡に秘めた何かを強く訴えるかのように、ひときわ輝いて見える。
何故呼び止められたのか分からず小首を傾げると、彼は逡巡するように一拍ほど間を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「焼き尽くしてやっても良いんだぜ。邸ごと全部。……何もかも」
一瞬、聞き間違いだろうか、と思った。そう疑いたくなるほどの物騒な言葉に、私は息を呑む。“邸”というのが、彼の背後に広がるラヴァンド邸のことを指しているのは、考えるまでもない。
それほど、アルベールの対応が気に喰わなかったのだろうか。それとも、父との会話で何かあったのだろうか。或いは、リゼットの擦り寄りに腹を立てたのだろうか。
色んな考えが次から次へと浮かんでくるけれど、しかし何故か、そのどれでもないような気がした。彼の声音が、真っ直ぐに向けられた眼差しが、彼自身のことではない、と伝えているように感じられて。根拠は、無論ないけれど。
だからだろうか。物騒な言葉だな、と驚きはしたけれど。それを恐ろしいとは、不思議と思わなかった。
私は、彼の赤い瞳を静かに見つめ返す。そうして出来るだけ穏やかに微笑みながら、首を左右に振った。大丈夫、と伝えるように。
数秒の間を置いて、私の耳に届いてきたのは、「馬鹿な奴」という、呆れをたっぷりと含んだ、それでいてどこか苦笑も滲んでいるような、彼の声だった。




