07
エントランスポーチを抜け、艶やかな黒檀の重厚な扉を開いた瞬間、私はなんともいえない感覚に囚われた。玄関を抜けてホールに足を踏み入れると、それは一層濃く、深くなり、どろどろとした黒い何かとなって、胸のあちこちを蝕んでゆく。
たった半日前まで過ごしていたはずの場所なのに、どうしてだろう。他人の邸というより、そもそも"建物"という概念から抜け落ちた"得体の知れない何か"のような場所に思える。
私は兎も角、オルフェイン卿が訪れているというのに、エントランスには誰の姿もなかった。父や継母、義妹だけでなく、大勢いるはずの使用人たちの姿さえ、ひとつも。
“大魔術師”の称号を持つオルフェイン卿は、公爵と同等の地位にある。故に本来であれば、こんな出迎えの仕方は失礼極まりないはずだ。けれども、あんなに規律に厳しいアルベールは、何の反応も示さなかった。使用人たちを呼び寄せるどころか、叱責することさえ、何も。
「お前は先に部屋へ行ってろ。俺はクソ野郎に会ってから行く」
“クソ野郎”という言葉に、アルベールの片眉が僅かに上がる。敬意を持って父に仕える彼にとって、主をそんなふうに貶されるのは、腹立たしいことこの上ないだろう。それはオルフェイン卿も分かっているはずだ。
けれども、彼の形の良い唇がにやりと上がるのを見て、敢えての言葉選びだったのだろう、と察する。彼が何に対して機嫌を損ねたのかは、分からない。曲がりなりにも"大魔術師"である自身を軽んじる行為をとったラヴァンド家に対してか、それとも、私に対しての――。
まさかそんなはずはないだろう、と、すぐに頭の中から追い払い、私は彼の指示に“言葉”で返す代わりにひとつ頷いた。
アルベールのあとについて応接間の方へと向かってゆくオルフェイン卿の後ろ姿が完全に見えなくなるまで待ってから、私はエントランスから左に真っ直ぐ伸びる廊下へ足を踏み出した。
大理石の床に敷かれた、深いワイン色の絨毯。その上を、足早に進む。本当は駆け出してしまいたいけれど、万が一にもそれを誰かに――継母や義妹に――見られでもされたら、嗤いの種にされてしまうのは明白だった。だからこそ、そんな失態を今はひとつでも避けたい。
廊下を進んでいると、所々から視線が飛んでくるのを感じた。決して穏やかではない、冷たく鋭利な、まるで刃物や針のような刺々しい視線が、四方八方から肌に突き刺さる。
さり気なく周囲を見回しても、誰の姿もない。皆、何処かの部屋か物陰に身を潜め、細い隙間からこっそり覗き見ているのだろう。“化け物”が帰ってきた、と。“罪人”が戻ってきた、と。嘲笑や侮蔑や恐怖を、各々抱きながら。
それらに一々反応していても仕方がない。そんなこと、この邸で過ごしてきた十数年で、嫌というほど思い知らされた。“諦念”というのは、心身を守る為の術でもある、ということも。
視線には気付いていないふりをしたまま、廊下の途中に姿を現した階段を登る。白一色で揃えられた壁には、継母の好みである刺繍絵画が一定間隔で飾られ、小さな踊り場に設けられた窓の前には、大きな花瓶に活けられた赤い薔薇の花。
それらを横目に、どんどんと階段を上がってゆく。
三階の廊下に出たところで、眼の前に伸びる階段の幅が急に狭く、そして質素な造りに変わった。壁に窓はなく、蝋も灯されていないので、真昼だというのに薄暗い。見上げた先は、更に真っ暗な闇だ。
それでも、三階の廊下から漏れる仄かな明かりだけを頼りに、階段に足をかける。進めば進むほど、乾いた埃の臭いが鼻につく。どんなに丁寧に掃除をしても、壁や柱や天井に沁みついた臭いは、その年月が長ければ長いほど薄れづらいものだ。それも私が、この邸での生活で学んだことのひとつだった。
途中からは明かりが途切れ、あとは慣れと感覚だけを頼りに階段を登り詰める。最後の一段に足をかけると、少しだけ、ほっと肩の力が抜けるのを感じた。
エントランスでは何も感じなかったけれど。突き当りにある扉のノブに手をかけながら、私はふっと微笑む。此処だけは、途端に懐かしさがこみ上げてくる。たった半日しか離れていなかったというのに。
ゆっくりと、出来るだけ音を立てないよう気を付けながら扉を開ける。次の瞬間、目に飛び込んできたのは眩い光だった。扉のちょうど向かい側の壁に設けられた窓から差し込む、真昼の清らかな陽光。
室内は、昨夜出た時となにひとつ変わらぬ状態のままだった。そのことに安堵しながら、小ぶりなクローゼットへと歩み寄る。中から古びたトランクを取り出し――そこではたと、私は動きをとめた。それからゆっくりと、クローゼットの中へと再び目を向ける。そこに並んだ、数少ない衣服たちに。
義妹のリゼットとは違い、前妻である母を深く恨んでいるらしい継母は、私に何かを買い与えることはほとんどなかった。それは父もまた同じで、誕生日でさえ、プレゼントを贈られたことは一度もない。
故に私の持ち得る全ては、継母の気紛れで買ってもらった服や、身分を誤魔化して市井で稼いだ賃金で買ったノートや書物くらいしかない。
伯爵家の体裁を保つ為にと、最後に服を買ってもらったのはいつだっただろう。その時でさえ、リゼットは山のように買い込んでいたけれど、私に与えられたのはたったの一着、しかもそのブティックで一番安い、型落ちのものだった。
そんな遠い昔のことを思い出しながら、狭いクローゼットの端から端まで、視線を何度も行き来させる。そもそも数が少ない上に、そのうちの半分は市場で安売りされていた麻製のものばかり。継母に買ってもらった質の良い服も、中にはほつれや破れを補修する為に継ぎ接ぎしたものもあり、数は更に限られる。
結局、"持っていけそうだ"と選ぶことが出来たのは、たったの三着だけだった。どれも流行りのスタイルではないけれど、魔塔の一室で暮らすのに着るだけならば問題はないはずだ。
選び抜いた三着を丁寧に畳んでトランクに詰め、今度は本棚から引き抜いた数冊の本を入れる。トランクは決して大きくはない――寧ろ小ぶりな――サイズだけれど、それでも内側にはまだ、かなりのスペースが余っていた。
それならば、と、屈めていた身体を起こし、窓辺に置かれたデスクへと歩み寄る。
魔塔の部屋にあったような艶やかなシリンダーデスクではなく、ただ平坦な四角形をしただけの、質素なデスク。その上には、愛用していたインクの瓶とペン、それからすみれ色のノートが置かれている。
今はオルフェイン卿の与えてくれた手帳と万年筆を使っているけれど、なくなる度にお願いするのは、さすがに申し訳ない。
だから出来るだけ、買いためていたインクとノートを持って行こう、と思う。それでもトランクには幾分隙間は残ってしまうだろうけれど。
古びた抽斗から、インク瓶の入った小箱とノートを幾つか取り出し、最後にデスクの上に置いていた愛用のインク瓶を専用の箱に詰める。念の為、ペンも数種類、紐で一括りにしてまとめた。――私が持ってゆけるものは、たったのそれだけしかない。
デスクの上に並べた文具類を見渡し、これだけあればひとまずは大丈夫だろう、と息を吐いたところで――不意に、背後から視線を感じた。振り返らずとも分かるほどの嘲笑を含んだ、纏わりつくような視線。
「――あら、お帰りになっていたのね、お義姉様」
鼓膜を突き破ってきたのは、最も聴きたくない声だった。思わず、背筋にぞくりと震えが走る。平静を保たなければ、と思うのに、身体も表情も、どんどんと強張ってゆく。
振り返りたくなんてない。顔を合わせたくもない。
けれども、そんな私の心情を疾うに見透かしているのか、身動きの取れない私をよそに、足音がゆっくりと近付いてくる。その度に、華やかで甘い、それでいて爽やかさも併せ持つ、ゼラニウムのやさしい薫りがふわりと鼻先を舞う。
「私、心配していましたのよ。……エドモンド様は、穢らわしい、と仰っていましたけれど。私にとっては、たったひとりの、大事なお義姉様ですもの」
このまま放っておけば、彼女はすぐにでも身体を寄せてくるだろう。嘗てペンダントを奪い合った、あの時と同じ様に。それだけは嫌だ、と思い、私は意を決して振り向いた。
途端に、足音が止む。リゼットは、すぐ眼の前にまで迫っていた。片手を伸ばせば触れてしまいそうなほどの距離にまで。
「魔塔に連れてゆかれたと聴いていましたけど……」
戯けるように右手を頬に添えながら、リゼットは私の身体を――頭の先から足の先まで――ねっとりと舐め回すように見る。そうして彼女は、ふっくらとした愛らしい唇に、にやりと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「随分と上等な服を着ていらっしゃるのね。それに、右耳のピアスも、とっても高価なものでしょう? 宝石が美しくて見惚れてしまいましたわ」
鈴を転がすように笑って、彼女は傍に置かれていた戸棚から、もう随分と古くて使えないインクの瓶を手に取った。幾つも並んだものの中から、よりにもよって深い黒色のインク瓶を。
まさか、と思った瞬間には、彼女は既に瓶の蓋を開けていた。
「あら、ご覧になって、お義姉様。とても綺麗な模様が出来ましたわ」
ぽたり、と、手の甲をインクが滑り落ちるのを感じながら、私は息を呑む。
肌に張り付くシャツの感触からして、インクが沁みてしまっているのは明らかだ。折角誰かが用意してくれたものだというのに。私の懐では、絶対に弁償出来ないであろうほど質の良いものだったというのに。
そう思えば思うほど、悲しみと怒りが綯い交ぜになった熱が、じわじわとお腹の底から這い上がってくる。泣いては駄目だ。怒っても駄目だ。それはただリゼットを悦ばせるだけの"材料"にしかならないのだから。
それでも、胸の中で渦巻く感情は収まらない。まるであの時のようだ、と思う。母の形見であるペンダントを奪い合った、あの時のようだ、と。
何故だか急に、オルフェイン卿に会いたくなった。彼の顔が、ほんの一瞬、脳裏を過ったせいだろうか。この部屋を飛び出して、応接間にいるだろう彼の元へ駆けて――。
そこまで考え、私は胸の裡で深い溜息をつく。彼に頼るのは駄目だ。甘えてしまっては駄目だ。彼はただ私の“監視役”でしかないのだから。
そう思うと、何故だかすっと、諦念が湧き上がってきた。それは悲しみも怒りも呑み込み、その分だけ疲労感となって、どっと肩に圧しかかってくる。
相手にしなければ良い。ただそれだけだ。文具類をトランクに詰め込んで、早々にこの部屋を立ち去ろう。それが一番良い。
その諦めが微笑みとなって、不意にこぼれてしまった。その瞬間、それまでころころと嗤っていたリゼットの顔から、一瞬にして笑みが消える。どうやら私の反応が気に入らなかったらしい。
彼女はすかさず、戸棚へと手を伸ばした。古いインクが並ぶ戸棚の、その中で最も鮮やかな赤色をした瓶に。
嗚呼、またやられる。どこか他人事のようにぼんやりとそう思った――その時だった。
「――何だ、それ」
突然部屋に響き渡った、地を這うような低い声。リゼットがぴたりと手をとめ、ゆっくりと振り返る。そんな彼女越しに、私は扉の前に立つ人影へと眼を向けた。
丁寧に編み込まれた漆黒の髪、それによく映える白い肌、すっとした鼻梁、形の良い唇。そして――長く濃い睫毛に縁取られた、ガーネットを思わせる真紅の美しい瞳。
「お義姉様ったら、うっかりインクをこぼしてしまったみたいで」
「お前には訊いてねえよ」
リゼットの言葉を一蹴し、彼は――オルフェイン卿は真っ直ぐに私を見据える。間にいるリゼットの姿など、まるで見えていないかのように。




