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第71話 箱の前で“今じゃない”

 朝の角は、昨日より少しだけ柔らかかった。

 湯屋でほどけた肩が、そのまま道に落ちているみたいに。


 板は板。釘は少し。木片は一枚。箱は閉じてる。欠けの石は欠けたまま。

 静かだ。静かって言うな。胸の中で静か。


 静かなのに、箱の前だけは、まだ“やる気”が残っていた。

 箱が働くほど人は寄る。寄るほど箱が詰まる。詰まるほど、みんなの胸が「今ここで終わらせたい」になる。

 今ここで、が増えると、口が太る。太らせるな。


「……箱、また寄ってる」

 ハルが小さく言った。

「言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「……胸の中で寄る」

「胸の中なら勝手にしろ」


 落とし物箱の前には、三人。

 昨日みたいな渋滞じゃない。

 でも三人は、ちょうど“混ざりやすい三人”だった。


 拾った手。

 探したい手。

 返したい手。


 その三つが、同じ場所に寄っているのに、誰も悪い顔をしていない。

 悪くない顔の混線は、ほどくのが難しい。叱れないからだ。叱ると暗くなる。暗くしない。


 板番のおばさんが、箱の横で腕を組んでいた。顔が「分かってる」。

 その横に、昨日の名残りが“落ちて”いる。


 地面に、木片が三枚。

 入

 探

 返


「……残ってる」

 レンカが言いかけて、口を押さえ直した。えらい。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で残ってる」

「胸の中なら勝手にしろ」


 残ってると、人は拾って置きたくなる。

 置きたくなると、言葉が増える。

 言葉が増えると、箱が“掲示板”になる。

 やめろ。箱は箱だ。


 案の定、拾った手の人が木片を指さして言った。

「昨日のやつ、便利だったよね。これ、このまま置いといたら?」

「置くな」

 ユリネが短く切った。短いから刺さらない。刺さらないのに、指先が止まる。止まれるなら勝ち。


「えっ、でも分かりやすいし」

「分かりやすいって言うな」

「……助かる」

 その人が言い直して、口を引っ込めた。言い直せるなら勝ち。


 探したい手の人が、箱のふたを見て言った。

「じゃあ箱、今、開けられる?」

 今。

 今は危ない。

 今は“今じゃない”を呼ぶからだ。


「今じゃない」

 ユリネが短く言った。

「えっ」

「今じゃない日もある」

 続けて言って、増やさない。


 板番のおばさんが、そこで一回だけ頷いた。

「箱は、いつでも開けない」

 言い方が雑で、でも優しい。雑な優しさは生活に効く。


「え、でも落とした人困るじゃん」

 返したい手の人が言う。言い方が善意。善意は刺さる。

 刺さるとレンカが走りたくなる。走るな。


 レンカは息を吸って止めた。えらい。

 代わりに、コトが笑顔のまま、一歩だけ前に出た。

 一歩だけ。増やさない距離。


「困るのを減らす方法は、箱を開けることだけじゃないよ」

「じゃあどうするの」

「今じゃない、を作る」


 今じゃない。

 その言葉が出ると、空気が一拍だけ止まる。

 止まると、みんなの胸が“先に呼吸する”。


 タケルが真顔で、箱の横の掲示板を指先だけで示した。

 板の札はいつも通り一枚。


 見る


 それだけ。

 それだけが、箱の前にも効く。


「探したいなら、まず板」

 タケルが短く言った。

「板に書いてあるの?」

「書いてない時もある」

「じゃあ意味ないじゃん」

「意味ないって言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、意味ない?」

「胸の中なら勝手にしろ」


 板番のおばさんが、やっと口を開いた。

 声は大きくない。大きくない声が一番助かる。


「板は“ある/ない”を知らせるだけ」

 おばさんは板の端を指でとん、と叩いた。小さい音。呼び笛にならない。

「今日は“ある”」


 そう言って、板の下に小さな木片を一枚だけ引っかけた。

 字は短い。角ばって小さい。


 箱:小物あり


 昨日も使ったやつだ。

 でも“今日だけ”のやつだ。残すと増えるから。


「……あった」

 探したい手の人が言いかけて、口を押さえた。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、あった」

「胸の中なら勝手にしろ」


 拾った手の人が、留め具を箱へ入れようとして止まった。

「入れるなら今?」

「今じゃない」

 ユリネがまた短く言った。

 短いから、怒られてる感じが薄い。薄いと反発が増えない。助かる。


「じゃあ、いつ」

 探したい手が食い下がる。食い下がりは悪くない。困ってるだけだ。

 困ってるだけなら、生活で返す。


 板番のおばさんが、指を二本立てた。

「朝と夕方、一回ずつ」

「決まりにするな」

 ユリネが即座に刺す。

 おばさんは笑って言い直した。

「……胸の中で、一回ずつ」

「胸の中なら勝手にしろ」

 ユリネの返しに、周りが少し笑った。刺さらない笑いはほどける。


 タケルが真顔で補助する。

「箱を開けるのは板番が一回だけ。探す人は“見る”だけ」

「見るだけ」

 ハルが小さく復唱した。復唱は作法になる。

 作法になると、手が箱に寄らなくなる。


「でも今、探したい」

 探したい手の人が言う。

 今がまた出た。今は危ない。

 でも今を否定しすぎると、冷たい。冷たいと暗くなる。暗くしない。


 コトが柔らかく言い換えた。

「今、探したいの分かる。だから“待つ場所”を作る」

「待つ場所?」

「欠け」

 ハルが小さく言った。

 欠けは便利じゃない。便利じゃないから太らない。太らないのがいい。


 箱の横の欠け石。

 分からないものを置く場所。

 置きっぱなしにしないための場所。

 箱の前で揉めたくない時に、手を止める場所。


 板番のおばさんが頷いた。

「探したい人は、欠けに“探し物の形”だけ置く」

「形?」

「紙に書くな」

 ユリネが短く刺す。

「……じゃあどうするの」

「口で一回」

 ユリネが続ける。

「“小物”ってだけ。以上」


 探したい手の人が、息を吐いた。

「……小物」

 言い方が小さい。小さい声は増えない。

 その人は欠け石の上に、何も置かない。置かない。置かないのが一番いい。

 代わりに、指で自分の留め具の形を空中に小さく描いて、すぐ手を下ろした。

 指の形は増えない。口ほど太らない。


「……分かった」

 板番のおばさんが一回だけ頷いた。

 それで終わり。終わりがあると、次が増えない。


 拾った手の人は、留め具を箱へ入れたい顔をしている。

 でも入れると“今ここで返したい”が生える。生えると箱前がまた詰まる。


「入れるのは、夕方でいい?」

 拾った手の人が聞いた。確認。断定じゃない。助かる。

「言うな」

 ユリネが刺して、すぐ直す。

「……いい」

 短い許可は増えない。


 返したい手の人が、うずうずして言う。

「じゃあ、誰のか分かってる物は?」

 分かってるは危ない。分かってるは確定の匂い。

 確定の匂いは揉める。揉めないようにする。


「分かってるって言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で分かってる」

「胸の中でも太らせるな」


 タケルが真顔で言った。

「分かってても、箱を挟む」

「箱を挟む?」

「手渡しにしない。箱に入れて、箱から取る」


 箱を挟むと、責任が個人に生えにくい。

 生えにくいって言うな。胸の中で生えにくい。

 でも生えにくいのは、こういう時に効く。


 それでも、誰かが言い出す。

「じゃあ“箱、夕方開けます”って札、出しとけば」

 札。

 危ない。

 札は増える。札が増えると板が欄になる。やめろ。


「出すな」

 ユリネが短く言った。

「えっ、でも皆わかるじゃん」

「わかるって言うな」

「……助かる?」

「助かるのは、板が短いことだ」

 コトが笑って拾った。刺さらない笑いで、空気を柔らかくする。


 板番のおばさんが、代わりに“やり方”を一つだけ見せた。

 木片「箱:小物あり」を、指でとん、と叩く。

 それから、木片をくるりと裏返して、字のない面にした。

 字がない。

 字がないのに、意味は残る。


「これで十分」

 おばさんが言った。

「え、何が十分?」

「見た人だけが分かる」

「それ、不親切じゃ」

「不親切って言うな」

 ユリネが刺す。


 おばさんは笑った。

「親切にすると増えるからね」

 雑なのに正しい。雑な正しさは救命具だ。


 こうして箱の前は、一旦ほどけた。

 ほどけたって言うな。胸の中でほどけた。

 人が散る。散ると朝市の匂いが先に来る。匂いが先に来ると、朝は朝の順番に戻る。


 その日の夕方。

 板番のおばさんは、箱を一回だけ開けた。

 一回だけ。

 開けたら、木皿に小物を二つ置いた。

 留め具。

 小さな鍵。

 木皿は“ここ”だ。言葉じゃなく場所で示す。場所は太らない。


 探したい手の人が来て、空中の形をもう一度小さく描いて、木皿を見て、頷いた。

 声は出ない。

 手が上がるだけ。

 板番のおばさんが、木皿を指で示す。

 持ち主が取る。

 終わり。終わりがあると増えない。


 拾った手の人も来て、木皿に“入れる前の留め具”を置いた。

 置いた瞬間に、返したい手の人がうずうずする。

 でも手渡しにしない。箱を挟む。

 板番のおばさんはそれを箱へ戻し、また木皿へ戻す。

 回り道みたいで、でも事故が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。


 箱の前の背中が、軽くなった。

 軽い背中は、湯屋へ向かう足を軽くする。軽いって言うな。胸の中で軽い。


 夜。湯屋。

 湯気が、入口で待っている。

 札が揺れている。

 今日は呼ばれない。呼ばれないのが助かる日だ。


 ミナギが湯に沈みながら、ぽつり。

「今じゃない、って言われると腹立つかと思ったけど」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で腹立つ?」

「胸の中なら勝手にしろ」


 コトが笑って言った。

「今じゃない、は“あとである”だからね」

「あとである」

 レンカが小さく復唱して、口を押さえた。えらい。

 あとである、と言えると、今が焦らない。

 焦らないと、口が太らない。太らないって言うな。胸の中で太らない。


 タケルが真顔で湯に沈む。

「箱の前で、今を減らせた」

「減らすって言うな」

「……胸の中で減らす」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ハルが小さく頷いた。

「……板は短いまま」

 シノがぼそり。

「……紙、増えなかった」


 家に戻ると、鍋が鳴っていた。

 湯屋の湯気とは違う、飯の湯気が上がる。

 湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 レンカが小さく宣言して、すぐ口を押さえた。

「今日、箱の前で“今じゃない”が言えた!」

「言うな」

「……胸の中で言えた」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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