第66話 走り手ネットワーク小暴走
朝市は、匂いが先に来る。
声はその後。小銭は最後。
その順番が崩れると、だいたい“混ざる”が来る。
今日は、混ざりが「足」から始まった。
こん。
一発だけ。
効きすぎないはずの音。
でも、音は音だ。音は“早い顔”を呼ぶ。
「今の、合図?」
「合図なら朝市?」
「じゃあ急ぐ?」
急ぐって言うな。胸の中で急ぐ。
急ぐ胸が増えると、足が増える。足が増えると、走り手が増える。
結び家の戸口で、レンカが息を吸って口を押さえた。えらい。
「……匂い、まだ」
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で、まだ」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルは真顔で通りの先を見た。
人の流れが、朝市へ寄っている。
寄り方が、買う前の寄り方だ。買う前の寄り方は危ない。
買う前の寄り方は、情報に飢えている顔だからだ。
情報に飢えるって言うな。胸の中で飢える。
飢えた顔は、すぐ“走り手”を見る。
朝市へ向かう角で、走り手の子が立っていた。
足が早いのに、止まれる子。
止まれる子なのに、今日は止まれない空気を吸っている。
「ねえ、どこ開いてる!?」
「粉のとこ、もう出てるって!」
「豆が早いって聞いた!」
聞いた、が増える。
聞いたが増えると、確定っぽいが増える。
確定っぽいが増えると、走り手は善意で走る。善意は危ない。走る善意は、伝言を太らせるからだ。
タケルが一歩だけ前へ出た。
一歩だけ。
一歩だけなら、場が詰まらない。詰まらないけど、目は集まる。
「見る」
タケルが短く言った。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で見る」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルは走り手の子へ、三言を渡そうとして、止めた。
三言は三回だ。三回は増える。
増えると、また昨日と同じになる。
タケルは一言にした。
「板」
走り手の子が目を丸くする。丸い目は危ない。丸い目は“分かったつもり”を呼ぶ。
でも子は止まれる子だ。頷く。
「板!」
復唱して、走る。
走るな。胸の中で走る。
走るのに、声が先に走ってしまう日がある。今日はその日だ。
「板見ろー!」
走り手の子が通りの真ん中で一回叫んだ。
一回。
一回なのに、耳は勝手に続きを足す。
板見ろー!
=開いてるぞー!
=急げー!
=今のうちー!
今のうちは言ってない。
言ってないのに、今のうちが生まれる。
生まれると、足が増える。
足が増えると、朝市の入口が入口じゃなくなる。
朝市の入口は、すでに背中が斜めだった。
線が無い列。
列が無いのに列っぽい。
列っぽいのがいちばん厄介だ。列っぽいと、譲り合い無限も割り込みも両方起きる。
「開いてるって!」
「まだ準備中って!」
「板ってどこの板!?」
「板が増えてるってこと!?」
板が増えてるって言うな。胸の中で増えてる。
増えてるのは板じゃない。口だ。
露店の端で、売り子が袋の口を結んでいる。
汗がない。まだ戦ってない顔。
その前に、木札が一枚。
準備中
短い。
短いのに、見えない。
見えないから、近づく。
近づくから、見えない。
最悪の循環だ。
「近い」
誰かが言った。
「近いって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で近い」
「胸の中なら勝手にしろ」
コトが入口の端でしゃがんで、地面にさらさら、と一本線を引いた。
説明はしない。線だけ。
線は人を静かにする。
「線より前に行くな」
ユリネが短く言った。
短いから刺さらない。刺さらないのに、足が半歩引く。
半歩引くと、準備中が見える。見えると口が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
……減りかけたところへ、走り手ネットワークが二本目を投げ込む。
別の走り手の子が、別の方向から来た。
息が切れてない。切れてないのが怖い。息が切れてない走りは、まだ走れる走りだ。増える。
「粉、出てる!」
「出てるって言うな」
ユリネが反射で刺す。
「……胸の中で出てる」
「胸の中でも言うな」
粉屋は、確かに袋を出していた。
でも袋を出す=開店じゃない。
準備の袋だ。
準備の袋を“出てる”と呼ぶと、朝市が前倒しになる。
前倒しになると、洗い籠の人が混ざる。
混ざると、また道が死ぬ。
死ぬって言うな。止まる。
案の定、通りの角で洗い籠がぶつかった。
朝市の籠と洗い籠が肩で挨拶する。
挨拶が強いと、袋が揺れる。
揺れると、豆が転がる。
ころん。
「拾う!」
ミナギが言いかけて、
「拾うな」
ユリネが刺す。
「えっ、でも豆!」
「本人が拾え。周りは動くな」
タケルが真顔で、豆の逃げ道だけ足で止めた。
手を出さない。足だけ。足は偉い。
落とした人がしゃがんで拾う。
拾ったら終わり。終わると増えない。
終わる前に、もう一つ落ちる。
今度は言葉だ。
「走り手が言ってた! 今日は早いって!」
今日は早い。
今日は早いは、便利な断定に見える。
断定に見えると、反発も生まれる。反発が生まれると声が増える。
「早いって何が早いの!」
「全部!」
「全部って言うな!」
誰かが叫んで、誰かが笑いそうになって飲み込んだ。飲み込めるなら勝ち。
タケルの真顔が、ひとつだけ曇った。
曇るのは反省だ。反省は暗くしない。
暗くしない反省は、一回で終わるのがいい。
「俺が、雑に投げた」
タケルが言いかけて、
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、雑」
「胸の中なら勝手にしろ」
今は謝罪で止める場面じゃない。
止めるのは手順だ。
手順は短く置く。
コトが、走り手の子へ目線だけで合図した。
声じゃない合図。増えない。
走り手の子が寄ってくる。寄り方が止まれる寄り方。えらい。
「伝えるのは一言だけにしよう」
コトが言う。
「一言」
走り手の子が復唱する。復唱は作法になる。
「一言はこれ」
コトが指で、露店前の札を示す。
準備中。
「これを見せる。言うのは“見る”だけ」
見るだけ。
それなら増えない。
増えないから、走り手が走っても太らない。
タケルが真顔で重ねる。
「叫ぶな。指で示せ」
「指」
走り手の子が復唱して、口を押さえた。止まれるなら勝ち。
走り手の子は、通りの中央へ行かない。
通りの端へ行く。
端で、指だけで鐘楼の根元を示す。
声を出さずに、板を見る動きをする。
手で目の前を指して、最後に口を押さえる。
動きだけ。動きは増えない。
その動きが、意外と効いた。
見る人が増えた。
見る人が増えると、叫ぶ人が減る。
相乗は結果一行でいい。今日はそれだ。
露店の売り子が、準備中の札をくるりと裏返した。
開けます。
一語。
一語で足りる。足りるって言うな。胸の中で足りる。
開けますが見えた瞬間、背中が動きかける。
動きかけた背中に、線が効く。
線より前へ出ない。
出ないと、背中が一本になる。
一本になると、売り子が息を吐ける。
息を吐けると、匂いが立つ。
匂いが立つと、朝市が朝市に戻る。
粉屋の方でも、袋の口が結ばれて、最初の一杯が升へ落ちた。
さら。
匂いが立つ。
匂いは増えていい。増える匂いは生活の匂いだ。
「開いてるって言わなくても、分かるね」
誰かが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で分かる」
「胸の中なら勝手にしろ」
小銭が鳴る。
ちゃり。
一定の音が戻ると、人は勝手に呼吸する。
呼吸すると、走り手ネットワークの熱が少し冷める。冷めたって言うな。胸の中で冷める。
走り手の子がタケルのところへ戻ってきた。
「言えた」
短い報告。短い報告は増えない。
「何を」
タケルが真顔で聞く。
「“見る”」
走り手の子が言って、口を押さえた。止まれるのが偉い。
ミナギが感動した顔で言いかけた。
「かっこいい!」
「かっこよくするな」
ユリネが刺す。
「……助かる」
ミナギが言い直して、なぜか自分で頷いた。言い直せるなら勝ち。
朝市は、そのまま普通の朝市になった。
匂いが先。声が後。小銭が最後。
走り手が走っても、太らない。
太らないのは、言葉を一語にしたからだ。
結び家は買い物を終えて帰る。
粉。豆。葉物。
袋の口は二回結ぶ。増やすんじゃない。転がさないため。
帰り道、レンカが小さく言いかけて、止めた。
止めて、言い直す。
「……走るのは、最後」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で最後」
「胸の中なら勝手にしろ」
家に戻ると、鍋が鳴っていた。
ごっちゃ煮スープの湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日、走り手網が太りかけた」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で太る」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷く。
「……一語だと、太らない」
シノがぼそり。
「……指だと、増えない」
コトが笑う。
「走るのをやめるんじゃなくて、太らせないんだね」
「言うな」
「……胸の中で、太らせない」
「胸の中なら勝手にしろ」
レンカが小さく宣言して、すぐ自分で口を押さえた。
「今日、叫ばなかった!」
「叫びかけた」
ミナギが真顔で言いかけて、
「未遂って言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で未遂」
「胸の中でも言うな」
刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。
小暴走はあった。
でも生活で戻した。
戻したなら、明日も回る。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




