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第1話『引退剣士の――引き際の美学』

あの日、世界に穴が開いた。


人々はそれを「ダンジョン」と呼び、


異形と戦うことを覚えた。




この俺も――――その一人だった。




手に伝わる剣の軋《きし》み。

咽《む》せるほどの血の匂い。

死線の先にある、かろうじて明日へと続く道。



気がつけば、それが人生になっていた。


誰よりも深く潜り、数多《あまた》の強敵を屠《ほふ》り、

いつからか「最強」なんて呼ばれるようになった。



――――ああ、くだらない。



そんなものは、

人より少し長く地獄に立っていただけの証でしかない。



成すべき事は成した。

抱えた傷も、置いてきたものも、全部ひっくるめて



――――もういい。



悔いなどない。


戦う理由は、もはやどこにも見当たらない。



だから、ここで降りる。



明日からは、

柔らかいベッドで起きて、ゆっくりと飯を食って、犬と散歩でもしよう。

誰にも命を狙われない、そんな当たり前を生きよう。





――――クロウ・クロスボーンの伝説は、ここで終わりだ。


2026年9月1日。



#引退

#静かな余生





(ポチッ)





俺は人差し指でタップし、「引退宣言」をSNSに投稿した。


うん。我ながら惚れ惚れするくらいに素晴らしい文章だ。

なにしろ三日三晩悩んで作ったのだからな。


もうこんな時間か。

さてと、バイトに行くとするか。




アパートを出て中野ブロードウェイ4階にある中古ダンジョン用品店『れあだらけ』へと向かった。


開店準備を終えて店番をしていると、

子供の頃からの知り合いで、この店のオーナーの娘――古都《こと》みもりが格子柄のキャミソールワンピースを上下に揺らせて店内に駆け込んできた。


みもりは小柄でショートカット、丸顔に黒目がちな瞳がついている愛嬌たっぷりの女の子だ。

イタチ科の小動物みたいな雰囲気とは不釣り合いなくらいに胸だけ主張が激しい。



「くぅたん、大ニュース! クロウが引退するんだって!!」


「クロウ? ええと、誰だっけ、それって……」


「謎の最強剣士のクロウ・クロスボーンだよ! すっごく強いボスの討伐記録をダンジョンログに残しまくったレベル999の人!」



古都みもりは肩下げバッグからスマホを取り出して、俺が今朝投稿した「引退宣言」の文章を見せてきた。



「それまでの世界最高がレベル257だったのに、999ってもう意味わかんないよねっ! 年齢も性別も不明って都市伝説すぎるよねっ!」



ふふふ。


その伝説のクロウ・クロスボーンの正体が俺だと知ったら、この幼馴染はどんな反応をするんだろうか。


普段は若干ダメ人間扱いされている気もするが、知れば目をキラキラと輝かせて尊敬の眼差しを向けてくるかもしれない。


けれど自分から正体をバラすのは俺の“美学”に反するからしない。

引退後に過去の実績をひけらかすほどダサいものはないからな。



「でも引退宣言の投稿、なんだかポエミーで自分に酔ってる感じだよねっ。そもそもクロウ・クロスボーンって名前もちょっと厨二っぽくてイタいし」


「そ、そんな事ないだろォ!!」


「んん? くぅたん、どしたの?」


「いや……その……なんでもないです」



ポエミー? あの文章ってナルシストっぽかったのか?

厨二? あの剣士名は思春期まっさかりなのか?


いやいやいや……そんなバカな。


そんなはずはない。この女子大生がちょっと世間からズレているだけなのだろう。

そうに違いない! 俺と違ってこいつは昔っから変な子だったからな!





工藤空一郎《くどうくういちろう》――――21歳。 


俺は小学生くらいの時から漫画や映画の影響で、「現役最強」よりも「最強だけど引退している男」に憧れていた。


最強の元殺し屋、最強の元スナイパー、最強の元傭兵。

……戦いや殺しに疲れて静かな暮らしを選んだ、誰よりも強い無敵の者たち。


その力を借りたいと誰かが尋ねてきても、背中を向けたまま草むしりでもしながら「帰れ、俺はもう足を洗った」「面倒ごとは御免だ」なんてセリフをボソっと返す。



……ああ、なんて渋くてカッコイイんだ。男の浪漫が詰まってる。



10年前に世界中に現れたダンジョン。

大混乱の時期を経て、ダンジョン内でのみ身に付けられる不思議な力を使って「魔鉱石」という希少な石を求める職業が誕生した。


「最強だけど引退している男」を目指す為に、まずは「最強の男」にならないといけない俺にとっては、凶暴なモンスターがうごめく剣と魔法の世界――――ダンジョンはうってつけの場だった。



ダンジョンへは「ポータル」と呼ばれる空中に浮かんだドアサイズの楕円形の転移門から入る。

そのポータルがばあちゃんの家の倉庫裏に発生した。



3年前、俺はそのばあちゃんの家のダンジョンを夢を実現させる為のレベル上げ場所に選んだ。



そこは国洞7号や都洞16号のような巨大有名ダンジョンとは比べ物にならないほどの小規模な、ダンジョンマップにも載らない私洞だった。


出現するモンスターは小さなスライムのみという、おそらく世界で一番価値のないダンジョンだろう。


スライムは倒されると地面の穴から「わんこそば方式」ですぐに補充された。

パシュっと倒せば、ボヨ〜ンと新しいのが出てくる。



スライム1匹を倒して得られる経験値は10ptだ。

その数字は一般的な雑魚モンスターの半分以下というショボさだが、いきなり危険なダンジョンに潜る勇気はなかった。


だからまずは安全なスライムで最低限までレベルを上げることにしたのだ。



最初は追いかけ回したり剣に当たらなかったりと苦労したが、コツを掴んでからは穴からボヨヨンと飛び出してきた瞬間に倒せるようになっていった。



そして……1ヶ月でとりあえずの目標としていた「見習い冒険者」のスタートラインであるレベル10に達した。


討伐数は1万匹を超えていた。



正直、最強なんて夢のまた夢だよな……と思いながら、スマホ型ステータス管理ガジェットの「アイステータス(iStatus)」を俺はなんとなく眺めた。


すると、スライムを1匹倒した際に獲得している経験値が10ptから11ptに上がっているという事に気がついた。


どうやら同じモンスターを連続で倒すと「チェーンボーナス」が発生するらしい。

だけど、しょせん元の110%だ。ちょっと嬉しいくらいのボーナスでしかない。

なんだよ、ケチくさいなとその時は思った。



――――しかし何かが《《心にひっかかった》》俺は、そのままスライム叩きを続けた。



2万匹目以降は獲得経験値……12.1pt

3万匹目以降は獲得経験値……13.3pt


そこでようやく俺は気づいた。



――――まさかこれ、1万匹倒すごとに「現在値」の110%になってる? と。



昔見た漫画で、闇金に手を出したやつの借金が雪だるま式に増えていって破滅していたのを思い出した。

このチェーンボーナスの仕組みは、それと同じ「複利計算」ってやつだった。



このままスライム叩きを続けた場合、「複利計算」のチェーンボーナスによってスライム1匹あたりの獲得経験値がどうなっていくのかの計算をしてみた。



10万匹討伐以降……26pt



増えたがまだたいした事はない。普通の雑魚クラスの経験値だ。

だが50万匹を超えたあたりから世界が変わった。


「複利計算」の恐ろしさが牙を剥き出した。

闇金のトイチとかには手は出しちゃいけない意味が理解できた。



100万匹討伐以降……137800pt

スライム1匹で、深層級ヒュドラ討伐に匹敵する経験値が入る。



普通のダンジョンでは多種多様なモンスターが出現するから、同じモンスターを1万匹どころか1000匹連続で倒すのも不可能だ。

このぶっ壊れのチェーンボーナス獲得は、スライムしか出現しないばあちゃんちのダンジョンでのみ可能だった。



なれるぞ、最強の男に――――俺は震えた。

ばあちゃんちの近所を「うぉぉぉ!」と雄叫びをあげて走り回り、職質された。

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