第二十一章
帰還した夜は、重く、しかも途切れ途切れに長かった。
誰もまったく眠れなかった、という意味ではない。人間は結局、あるところまで行けば、恐怖の上からでも身体のほうが眠りを奪っていく。だが、この家には、朝まで一度も“ほんとうに静かな時間”がなかった。誰かが水を取りに起きる。サレットが、火床の火が急に落ちないよう、静かに薪を組み直す。リラが、熱もないアヤノの額の布を替える。ただ、そうしていたほうがまだ“何かしている”感じが保てたからだ。カイラは何度か台所へ消え、暗がりの中でしばらく立って戻ってきた。その顔は、壁と喧嘩して少し負けた人間みたいだった。
彼自身も、眠ったのは断片でだけだった。
それを眠りと呼んでいいなら、だが。
意識が深く落ちるたび、納屋が戻ってきた。全体ではない。断片だけ。臭い。女の手首に食い込んだ縄。泥の中の、小さすぎる子どもの足。そしてアヤノの顔。最初の一撃を放ったあの瞬間の。戦う者の顔ではなく、もっと深いところで何かが裂けた人間の顔。
夜明け前、彼は隣の部屋から聞こえた、ごく小さな音で完全に目を覚ました。
叫びではない。
むしろ、その反対だった。
押し殺した、切れ切れの呼吸。人を起こしたくなくて、それでももう起こしてしまっている人間の呼吸。
彼はすぐ起きた。
通り部屋はまだ暗い。台所から、熾火の弱い熱だけが流れてくる。リラもすでに出てきていた。裸足で、肩に温かな布を掛け、最近よく見せるようになった、あの“誰かのためにすぐ支えになる”時の顔をしている。カイラもすぐ後ろから現れた。朝であること自体に腹を立てているみたいな顔だ。サレットは、たぶん本当に横になってはいなかったのだろう。椅子から頭を上げ、そのまますぐ立ち上がった。
アヤノは寝台の縁に座っていた。
前屈みで。
肘は膝に、手は顔へ。
泣いてはいない。
だが、背の張りだけで分かった。彼女の内側ではまだ、あの“見たこと”と“したこと”のあいだで何かが続いている。
彼が最初に近づいた。
リラはすぐ後ろまで来たが、わずかに距離を取って止まった。それは正しかった。どんな亀裂にも、善意の手を一斉に差し込めばいいわけではない。
「アヤノ」
彼が呼ぶと、彼女は手を顔から外した。
目は赤い。だが乾いていた。怒っているみたいでもあった。
「今は、優しい言い方しないで」
彼女は言った。
「それ、たぶん無理」
そこまで正直なのは、むしろよかった。
彼は向かいに座った。
近すぎない位置で。
そして分かった。ここで慰めから入れば、かえって悪くなる。
慰めがいらないわけではない。
ただ、彼女はもう、“大丈夫だ”とか“終わった”とか“あなたは悪くない”とか、そういう言葉が全部きれいすぎて聞こえる場所の外にいる。
「分かった」
彼は言った。
後ろで、カイラが小さく息を吐いた。彼女もたぶん分かっている。ここから先は、全員にとってかなり嫌な話になる。
アヤノは彼を見ていた。
ほとんど挑むみたいに。
まるで、少しでも嘘を聞いたら、先にそちらを殴るつもりでいるみたいに。
「私は、あいつらに苦しんでほしかった」
彼女は言った。
「後悔してるのは、殺したことじゃない。そう思ったこと。それが自分の中にあって、それをそのまま外に出したこと」
「そうだな」
彼は言った。
アヤノが、そこで少しだけ揺れた。
同意されると思っていなかったのだろう。
「それで?」
彼女は訊いた。
「今から、“それも戦争の一部だ”とか、“そういうこともある”とか言うの?」
「違う」
彼は答えた。
そこで一度、ほんの少し間を取った。
見栄ではなく、言葉を間違えないために。
「世の中には、力でしか分からない人間がいる」
彼は言った。
「迷ってるわけじゃない。言葉を届かせれば戻れるわけでもない。もう、人の言葉が“守るべきもの”としては内側に入らなくなってる。分かるのは、痛みと、恐怖と、圧と、限界だけだ。あいつらは一回の行いで線を越えたんじゃない。その線の向こうに家を作って住みついてる」
アヤノは黙って聞いていた。
「だから?」
と彼女は言う。
「だから、あいつらが苦しんで死んだことは、あいつらを何も教えない」
彼は続けた。
「そこはお前が半分正しくて、半分違う。痛みは償いにならない。苦しい死に方は世界を自動的によくしない。教訓にもならない。奪われたものを戻しもしない」
リラがそこで、ごく静かに脇の腰掛けへ座った。
サレットは扉のところに立ったまま、腕を組んでいる。入ってきはしない。だが聞いている。カイラは、まだ立ったままだ。狭い部屋の中を、短い、腹立ちまぎれみたいな歩幅で少しだけ動いている。
「じゃあ何のために?」
アヤノが問う。
そこで彼は、少しだけ、意図的に硬くなった。
「そういう人間に対して、世界にできる一番まともなことは」
彼は言った。
「そいつらを世界から取り除くことだ」
沈黙が、その場へ落ちた。
カイラまで動きを止めた。
アヤノは、まるで一瞬、彼が本当にそう言ったのか理解が追いついていないみたいな顔をした。
「更生させることじゃない」
彼は続けた。
「説得でもない。どこかに“まだ人間としての場所が残っている”ことを期待することでもない。ない。そういう連中に対しては、消す。速く消せるなら速く。必要なら残酷に。だが、“痛みを与えれば学ぶ”なんて綺麗な嘘は要らない。学ばない。ただ、いなくなるだけだ。それが唯一残っている正義のことだってある」
リラは一瞬、目を閉じた。
反対ではない。
あまりに汚れた正しさだったからだ。
アヤノは、そこで急に立ち上がった。
あまりにも急で、椅子が床を引きずって鳴った。
「じゃあ結局、あなたはそれを肯定してる」
彼女は言った。
「私を。私が聞きたかったものを。全部」
彼も立った。
「違う」
「じゃあ何をしてるの?」
声が上がる。
嫌な速さで。
「俺が言ってるのは、あいつらは殺すしかなかったってことだ」
彼は答えた。
「それと、苦しませたことを“意味のある教育”みたいに考えるなってことだ。あいつらにそんな容量はなかった。お前はあいつらの死を道徳的な出来事にはしなかった。ただ、自分がその時できるやり方で、屑をこの世界から消した。それだけだ」
「“それだけ”じゃない!」
アヤノが叫び返した。
「私には、それじゃ足りなかった! 分かる? 止めるだけじゃ足りなかった! 苦しんでほしかった。死ぬ前に、もっと、もっとひどくなればいいと思った。何をするつもり、それを? 私、どうすればいいの?」
カイラが最初に動いた。
彼のほうではなく、アヤノへ。
「おい」
彼女はきつく言った。
「一人でそこへ落ちるな」
「触らないで!」
「今だから触るのよ」
カイラは切り返した。
「いま、あんた、また始めてる。中の一番黒いやつを“これが私の全部です”って顔で抱えようとしてる」
アヤノは、ほとんど噛みつくように言った。
「あなたには分からない!」
「もういい加減それやめなさいよ!」
カイラが怒鳴った。
「まるで自分だけが、憎しみがどうやって手に出るか知ってるみたいに!」
部屋が、一気に狭くなった。
彼には分かった。このままだと、もう少しでこれは会話ではなくなる。ただ言葉の破片を投げ合う、もっと悪いものになる。
そこで、リラが立った。
ゆっくりと。
だが、迷わず。
「アヤノ」
彼女は言った。
声は大きくない。
力も込めていない。
それでも、アヤノは振り向いた。
「だめ」
リラは言った。
「今、それを自分の唯一の真実にしちゃ」
「でも本当じゃない!」
アヤノが返す。
「私はあいつらを見て、守るとか終わらせるとかじゃなくて、苦しませたかった! 比喩じゃなく。綺麗な言い換えじゃなく。ほんとに。もっとできるなら、もっとしてた!」
リラは引かなかった。
もう一歩だけ近づいた。
慎重に。
だが、ためらわずに。
「うん」
彼女は言った。
「それも本当」
アヤノは、その一言でかえって止まった。
打たれたみたいに。
リラは続ける。
「でも、それが全部じゃない。私たちは、今それを“全部”にさせない」
アヤノの顔に、ひどく苦しいものが走った。ほとんど子どもみたいな、道に迷った表情だった。
「じゃあ他に何があるの?」
彼女は言った。
「何があるの、リラ? 私が何か守ってたとか? 私がまだ“いい人”だったとか? そんなの言わないで。絶対に」
リラは首を振った。
「そういう意味じゃない。別の真実。あなたは、あれを見て、背けなかった。あの人たちをそこで止めた。これ以上誰にも触れさせなかった。そこには嫌悪も、憎しみも、守りたい気持ちも、全部あった。全部一緒に。今のあなたは、その中からいちばん汚いところだけを切り出して、それを“自分のすべて”にしようとしてる。だってそのほうが傷つきやすいから。でも、そうじゃない」
そこで、サレットが初めて割って入った。
大きな声ではなく。
だが、正確に。
「若い女」
彼女は言った。
「こういう後で、自分の中に泥しか見なくなるのは、良心だけじゃないわ。疲れきった頭が、単純な形を欲しがってるだけの時もある。今回はたぶん、そっち」
アヤノが、勢いよくそちらを向いた。
「もちろん。年を取って、賢くて、ひどいこと全部に意味のある言葉をつけられる人はそう言う」
サレットは眉一つ動かさなかった。
「違うわ」
彼女は言った。
「私は、男の暴力のあとで、生き延びた女が“自分の中に起きた怒り”までまとめて嫌悪し始めるのを、何度も見てきたの。怒りがなければ、生き残れなかったくせに」
その言葉は、今度こそ深く入った。
彼には見えた。
アヤノの顔に、本当に痛いものが走ったのが。
彼女は両手で卓の端を掴んだ。部屋が揺れたみたいに。
カイラが、今度はもう怒鳴らずに、すぐ横で肘を支えた。
「座りなさい」
「やだ」
「訊いてない」
彼には、その時はっきり分かった。今やっているのは“話し合い”ではない。四人がかりで、アヤノをどうにか意識の中に留めているのだ。彼女自身が、“私はもう全部ただの汚れです”という黒い穴へ落ちていかないように。
彼は反対側へ回った。
「こっち見ろ」
彼は言った。
アヤノはすぐには無理だった。
だが、ようやく目を上げた。
「お前が欲しがってるのは、簡単な判決だ」
彼は言った。
「自分が正しいか、怪物か。守ったのか、同じ泥になったのか。どっちか一つで、全部片づく形だ。でも、そうはならない」
「じゃあ私は何?」
彼女の声は、もう細くなっていた。
「人間だ」
彼は答えた。
「見過ぎて、やり過ぎて、正しさだけじゃなく憎しみでも動いた人間。そうだ。だから、これからはその両方を持ったまま生きるしかない」
彼女は頭を振った。
「そんなの無理」
「無理じゃない」
カイラが、驚くほど静かな声で言った。
「ただ、長くて最悪なだけ」
それが、やっと本当に届いた。
慰めでもない。
道徳でもない。
こういう時にだけ、人間へ入っていく種類の現実だった。
アヤノは、そこで座った。
というより、ほとんど落ちるみたいに、また寝台の縁へ戻った。
リラがすぐ隣に座ったが、今度は抱きしめない。首の後ろへ、そっと手を置くだけだった。脈のある場所。人がいちばん強く“他人の落ち着き”を感じる場所へ。
サレットが水を持ってきた。
彼でもリラでもなく、アヤノへ直接差し出す。
「飲みなさい」
彼女は言った。
アヤノは、それに従った。
それは小さいが、たしかな兆候だった。
しばらく、誰もほとんど喋らなかった。
部屋そのものが、重く息をしているみたいだった。
カイラは床へ座りこんで、アヤノの寝台へ肩を預けたまま、時々ものすごく小さな声で悪態をついていた。世界に向かってか、男どもに向かってか、あるいはその両方か分からない。リラは首筋を時々指で撫でて、アヤノを少しずつ身体へ戻していた。サレットは、ただ見ていた。アヤノがまだ“ここ”にいるか、また自分の内側へ落ちかけていないかを。
彼は向かいに座ったまま、自分の中にも、疲労と嫌悪と、ひどく乾いた明晰さみたいなものが沈んでいくのを感じていた。
そうだ。
力でしか分からない人間はいる。
そうだ。
そいつらが苦しんで死んでも、それは教訓にはならない。
そうだ。
それでも、世界から消すことだけが唯一のまともな対処である時もある。
だが、その三つの“そうだ”のあいだには、人を十分に汚すだけの泥がある。そこを通って、なお無傷でいられる人間はいない。
やがて、アヤノがまた口を開いた。
今度はもっと小さく。
掠れた声で。
「自分の中に、あれがあるのが嫌」
リラが先に答えた。
「うん」
カイラも続ける。
「私は、“世界がそこまでしてあんたからそれを引っぱり出せること”のほうが嫌。それ、別の嫌さだから。ごっちゃにしないで」
サレットは、アヤノを真っ直ぐ見た。
「怒りがあること自体は、恐れなくていい」
彼女は言った。
「恐れるべきなのは一つだけ。その怒りが、もし一度でも“居心地のいいもの”になった時」
アヤノが顔を上げた。
今度は、その言葉がちゃんと入ったのが分かった。
そこには、免罪も断罪もなかった。ただ、本当に危ない線だけが引かれていた。
「今、それは居心地がいい?」
サレットが訊く。
アヤノは鋭く息を吐いた。
嫌悪に近い息だった。
「違う」
「ならいい」
サレットは言った。
「まだ、こっち側にいる」
カイラがそこで鼻を鳴らす。
「そういう時だけ、あんた、ほんとに腹立たない言い方するのよね」
「時々で充分よ」
サレットは乾いた声で返した。
それから、リラはとうとうアヤノをきちんと抱いた。
弱い人間みたいにではなく。
自分の人として。
カイラも、ほとんど同時に反対側へ寄った。額をアヤノの肩へ押しつけるみたいにして。まるで、その動き自体が自分の大きな譲歩だとでも言いたげに、ひどく不機嫌な顔で。
彼はその三人を見ていた。
たぶん、こういうあとにできることは、それしかないのだろう。浄化でもない。免罪でもない。裁きでもない。人が自分で自分をもうよく分からなくなっている時、その人をどうにか“人間の側”へ留めておくことだけ。
外はもう完全に朝になっていた。
台所からは、あたたかいパンの匂いがしていた。サレットが、こうしているあいだにも何かを火にかけていたのだろう。別の時なら、少し可笑しかったかもしれない。人の中がまだ血と汚れた記憶でいっぱいなのに、世界のほうは、平気で“朝のパン”なんてものを続けている。だが、もしかすると、それが世界の唯一まともなところなのかもしれなかった。
しばらくして、アヤノは自分でまた水を飲んだ。
それから、ひどく静かな声で言った。
「今日、一人にしないで」
カイラが即答する。
「今さら、どうやって私たちを追い出す気?」
リラは、ただ頷いた。
彼は言った。
「しない」




