閉ざされた世界
女子大学の話と後半は闘病史です。苦手な方は読まないで下さい。
私はどろどろしたものが心に溜まると、決まったパターンの行動に出る。
昔はよくリストカットをしたが、あんまりザックリ切りすぎて、今ではカッター恐怖症だ。
で、そうなった今の場合手っ取り早いのが、音の海に溺れる・・・ようはコンポでCDを大量にかけまくって聞きまくるという行動。それを昨日の午後約4時間ほどやりました。
それでも落ち着かない、またどろどろ感が残ってる場合がこれ・・・文章にするという行動。作った文章は主治医に渡す場合もあるが、大概は闇に葬ってきた。
が、何度も書いて捨ての繰り返しも面倒なので、しっかり書いて載せようと言う動機で始まったのがこのまだ暗い道の途中である。
今回吐き出そうと思ったのは、高校卒業後に行った女子大学の体験だ。
高校卒業と同時にA先生の塾も辞めた。本当は辞めたくなかったが、先生が私を最後に塾生をとるのをやめてしまったのだ。
元々塾の先生が本職の人ではなく、多忙な人だった。私は先生の最後の教え子として塾を去った。
そんな心の支えの欠けた状況で、初めてのバスや電車での通学や女子しかいない大学という空間は今思い返しても恐怖しか残っていない。
バスや電車内でのトラブルは当事者になったことはないにしても、見るだけで私には怖かった。
幼少期に父によく怒鳴り叱られていた経験から、成人男性の怒鳴り声には無条件で身体が怯えを感じて震えてしまうのだ。
だから、女子大を選んだのだが甘かった。
小中高と男子にイジメられた経験のほうが出来事としては派手だが、女子特有の陰湿な嫌がらせも実は結構引きずっていたことを自覚していなかった。
また、私はおしゃれというものに興味関心のない年頃の娘としては、そういう感性が明らかに劣っている。よって、そういうおしゃれな女の子の多い女子大学では、私の存在は入学当初から浮いた。
会話もまったく噛みあわないというか、共通の話題が欠如していた。次第に私に声をかえるのは必要最低限になり、ついには大学に居る間一度も会話しないなんて当たり前な感じになっていた。
いかに本が好きでも、これだけ人が居て言葉を発しない異常な状況に、私は大学へ行く意欲を失くしていた。
高校三年の時に夢を叶える為にとその大学のその学部を選んだというのに、孤立した孤独感に耐え切れなくなってしまった。
そうは言っても、退学なんてできなかった。
自費ではなく両親が通わせてくれていると思うと、行かなければという気持ちと行ってもただ一人という孤独感に、裂かれるような心境だった。
結局、大学の門まで来ても中へ入れないという状況になって近くのカフェや古本屋で時間を潰して帰ってきたが、当然欠席が続いて留年。
留年の通知は両親宛に来て、私は散々叱られ今度こそはしっかり通うと誓い、アルバイトも始めることになった。
アルバイトはもし大学が続かなくても、先の費用の為にと始めたのだが、ただ大学へ行くだけでも辛い中でもバイトの両立はすぐに破綻し、疲労で遅刻がかさみ二度目の留年が決まりそうになった時。
私はマンションの四階から飛び降りた。そのマンションはバス停までの道のりにあり、踊り場の壁も体力のない私が乗り越えられそうな高さだった。
壁を乗り越えて、手が離れた瞬間---------私の意識はぶっつりと切れた。
次に目を開けたら、もうICU・・・集中治療の広大な病室の一角にいた。右肩が外れて、骨盤を複雑骨折して金属のそうがい固定で、なんと腹部から金属の柱が組まれていた。右足も骨折してギブスで固定されていた。
重度の骨折の為に高熱にうなされ、その中で夜勤の医師に「お腹から生えてるのとって」と泣いた。すぐには骨盤を支える為の金属だと分からなくて、泣いてとってくれとわめき、結局睡眠薬を点滴で流されて寝かされた。
しばらくしてから、やっと自分がどういう状況にあるか分かったが、いっそ死んでいれば良かったくらいの苦痛に幻覚を見たくらいだ。
右肩はすぐにはめ戻されたので、両手は動かせるが寝たきりだった。寝返りもうてない。奇跡的に頭部にはかすり傷ひとつなかった。コンクリートに四階の高さから打ち付けられたというのに。
事態が飲み込めてきた頃には、はっきり自分が下手したら車椅子生活になるという話を聞いた。
両親が・・・と言っても母が泣くので、私は母が帰った後暗くなった病室で泣いた。泣いたってよくなるわけがないのは知っていたが、涙が止まらなかった。
ICUの大きな部屋には動けない患者さんが、いっぱいベットの上にいることを知ったのはどのくらいたった頃だろうか。
いろいろな人が運ばれきたのを見ていた。
足の骨折に金属固定が必要で、運ばれた時の緊急手術から一ケ月後に足の手術をした。その手術がすむと一般病棟の移ったが、そこからが長い入院の始まりだった。
吐き出してますねぇ・・・しばしお付き合い下さい。




