トゥー・ビー・オア
啖呵タンカーを担架で運んでから、一週間が経過した。
あれから特に襲撃もなく、
俺たちは穏やかな時間を過ごしている。
ツカサはうちに泊まり続けるのを申し訳ないと思ったのか、
近くの図書カフェで住み込みのアルバイトを始めた。
俺が子どもの頃から店主とは馴染みが深いお陰で、
経歴不問で働かせて貰えて一安心である。
だがしかし。
この世界で日常生活を始めたツカサには、
経歴よりも深刻な問題が待ち構えていた……
「……日本語、難しすぎねぇか?」
俺は放課後になると図書カフェに立ち寄り、
ツカサの向かい側へと座った。
唸っているツカサの手元には、
小学生用の漢字ドリルが開かれている。
「漢字か平仮名かカタカナか、
どれか一つにしろってんだ……
それならまだ理解出来るのによ」
ツカサは日本語を読む事が出来ない。
言葉だけは通じているのが奇跡だ……
さすがは異世界転移だと、感動を覚える。
まぁ日本語が読めないだけならば、
いずれ母国に帰れさえすれば問題もないだろう。
しかしツカサの場合、更に事態は深刻だった……
「母国語すら読めなくなってる癖に、何言ってんだよ」
クラムちゃんは異世界に戻った時、
ツカサの国のみんとすを買って来てくれた。
これでツカサにハテシナの物語を読んで貰えるぞ!
と思い、俺は意気揚々とツカサにお願いしたのだが……
ツカサの記憶喪失は、
なんと母国の文字にまで及んでいたのである。
言葉はしっかりと理解出来ているというのに……
まるで文字という力そのものが、
ツカサから奪われてしまったかの様だ。
「そもそもよ、文字っていうのが難し過ぎんだよな」
「お前、一応司書なんだろ? 頑張れよ……」
流石の脳筋もこれには相当ショックだったようで、
せめて日本語を教えてくれと、俺に泣きついてきたのである。
そんな訳で俺はこの一週間、
図書カフェに通ってツカサに日本語を教えていた。
みんとすに関してはハテシナレイが興味津々だったので、
あいつに預けてある。
ツカサがこの調子では、
下手したらハテシナレイの方が読解する望みがあるかもしれない……
「ツカサちゃん、
ちょっと本の整理を手伝ってくれないかい……?」
「あ、悪りぃばーちゃん!
今すぐ行くわ!!」
空き時間の勉強を許されているとはいえ、今は仕事中である。
ツカサは呼ばれると、すぐにそちらへと向かった。
おばさんは優しい笑顔でツカサを迎えている。
この図書カフェを営んでいる老夫婦は、
とても仲睦まじくて素敵な人たちだ。
2人とも生粋の本好きで、
常連客とフレンドリーに会話している。
この店にはハテシナも良く来ていて、
俺はここでだけ人と笑顔で会話するハテシナを見る事が出来た。
「タクオくん、良い子を紹介してくれて助かったよ。
私たちも歳だからね、本の移動は骨が折れていたんだ」
おじさんは、朗らかな笑顔でコーヒーを運んでくれた。
ほっとする香りが辺りに漂う。
この店の看板は本だけではない。
おじさんの淹れるブレンドコーヒーと、
おばさんの作るフレンチトーストも名物なのだ。
「こちらこそ、ツカサを雇ってくれてありがとうございます。
でもコーヒーなんて、俺は頼んでないですよ?」
「このコーヒーね、あちらのお客さんからだよ。
タクオくんも隅に置けないねぇ」
そう言っておじさんは、俺の事を肘で小突く。
視線の先には、黒髪を綺麗に纏めた和装の女性が座っていた。
紅い色をした切れ長の流し目が、とても官能的だ……
どことなく影を感じて、
小説に出てくる未亡人の様な雰囲気がある。
こちらの視線に気付いたのか、
黒子のある口元が俺に向かって妖艶に微笑んだ。
「……っ!!!」
その唇は、まるで誘惑しているかの様にも思える。
俺は気持ちを沈めようとして、
一気にコーヒーを飲み干してしまった。
「あちらの方、リアさんっていう名前らしいよ。
じゃあ、ごゆっくりね」
ニヤニヤした顔でおじさんが去っていくと、
俺はどうすれば良いのか分からなくなってしまった。
今までの人生で、
女性から好意を向けられた事は当然ながら皆無である……
俺は動悸が止まらなかった。
「ねぇ、あなた……」
鼓動を落ち着ける為に目を閉じて精神統一していたら、
いつの間にかリアさんが目の前に座っていた。
戸惑っている俺の手に、ひんやりとした指先が触れる。
思わずビクリと跳ねた俺の手を、
リアさんは優しく握ってくれた……
こんなフラグは始めてだ……!!!
「あなたは私の道化に、なってくれるかしら?」
意味が分からなくて、俺はリアさんに尋ねようとした。
しかし俺の口からは、何故か声が出て来ない……
手を添えたままだったコーヒーカップが、
揺れているのが見えた。
けれどそれは、
カップがひとりでに揺れている訳ではない。
俺の手が、震えているのだ……!!!
それに気付いてしまった瞬間。
俺の頭はガクンと鉛の様に重くなり、為す術もなく机に突っ伏した。
身体を動かす事さえ出来ず、目線だけをリアさんに向ける。
リアさんは、
この世のものとは思えない、おぞましい笑みを浮かべていた……
「人間が生まれた時に泣くのはね、
この愚かしい舞台に引きずり出されたからなんですって。
それなら、死ぬ時はどうなのかしらね?」
俺は、先程の言葉を訂正したい……
こんな死亡フラグは、初めてだ……!!!
俺の背後から、スーツを着た1人の男が近付いて来る。
その男はこちらを見下ろすと、小さな声で呟いた。
「埋めるべきか沈めるべきか、それが問題だ……」
そんなにシェイクスピアを不穏にしないでくれ!!!
命を振り絞ったツッコミを最後に、
俺の体は一切動かなくなってしまった。




