ゆらめく
夕日が屋敷の壁を赤く染める。空の端にはすでに一番星が遠くで瞬くころ。屋敷の中と外では使用人たちが慌ただしく今夜の準備に追われていた。
広い館内は夜風が吹きはじめた外とは違って十分に暖かい。壁に掲げられた絵画、廊下や広間の途中に置かれた装飾品の数々はどれも手入れが行き届いている。時間と共に薄暗くなりつつある室内を、使用人が魔石を使ってあかりを灯していた。それだけでよりいっそう夜が色濃さを増していくようだ。
階段をあがればそんな彼らの姿も少なくなっていく。主たちの空間だ。使用人たちの仕事場であり、常に人の気配を感じられる階下とは同じ屋敷内でもまるで異なった。静寂の廊下からそれぞれの部屋へと続く扉は豪華になり、灯りを入れるガラスは見栄えのする煌びやかなものに変わる。たどり着いた部屋の前、握りしめたドアノブは鳥の羽根を模したものだった。
「失礼いたします」
「あら、ミス・カーティス、丁度いいところに来たわね」
「丁度、でございますか。……あの、セシリア様、その前にこれは一体どういう……」
「髪飾りが決まらないのよ。赤か黄色か、どちらにしようかしら」
ハウスキーパーのミス・カーティスが部屋の中へ入ると、そこではテーブルの上に数多くの髪飾りが広げられていた。一瞬驚きで立ち止まってしまったが、気を取り直して部屋の奥へと足を進める。晩餐会や舞踏会などの前にはなじみの光景だった。
セシリアはレディースメイドから小ぶりの薄黄色をした髪飾りを受け取り、鏡の前で頭に当ててみながら悩んでいた。鏡越しにミス・カーティスは今夜の主の様子を伺う。
「気に入っているものなどはないんですか?」
「どれも気に入っているのよ。だから一層悩むのよね。ねぇ、ミス・カーティスはどれがいいと思う?」
「私ですか? そうですね……、この赤い飾りはいかがでしょう。前回旦那様が奥様へお贈りになった髪飾りです。今夜の淡紅色のドレスとも合うと思います」
「確かにいいわね。……ねえ、その赤いのをとってくれる」
セシリアはレディースメイドへ指示し、手にとった髪飾りで再び鏡を覗き込むと満足げに笑顔で頷いた。
「よくお似合いです」
「そう? それじゃあこれにするわ」
今夜、これからウィンコット家の屋敷では晩餐会が催される。大勢の客人を招く舞踏会ではなく、久しぶりに集まった家族うちでの食事である。しかしながらその食事といっても、この主人一家が揃うのはいつぶりだろうか。一年のほとんどは屋敷には女主人であるセシリア以外、王都などに暮らしの重きを置き、家族全員が集まるのは数えるくらいなのだ。
「今夜はなんだか賑やかね」
部屋を出て廊下を歩くセシリアが、窓から地上を見下ろしながら呟いた。
外はもう薄暗く、松明や魔法の灯りに使用人たちの動く影がゆらゆらと揺らめいている。
「……中にはどうやら、うかれている者もいるようですね」
「それだけみんなが私たち家族が集まるのを楽しみにしてくれているのよ」
「ええ、ですが改めてこの屋敷の使用人としての心構えを教え込まなければならないようです」
そう言って、セシリアより後方を歩いていたミス・カーティスは、地上のある一点を見つめていた。
頼りない松明の夜灯りの中、一人のメイドが騎士といる姿が見えたのだ。メイドはもちろんこの屋敷の使用人。騎士は主人たちの護衛で王都から来ている者だろう。護衛の騎士たちは主人たちがこの屋敷にいる短い間、同じくここへとどまる予定となっている。
「あらあら……若いっていいわねぇ」
「セシリア様」
逢瀬をする小さな影を微笑ましげに眺めるセシリアとは正反対に、ミス・カーティスの眉間の皺は深い。
「ふふ、でもミス・カーティスもほどほどにね」
ああそれから、とセシリアは歩きながら続けた。
「選別は進んでる?」
「はい、数人にはすでに声を掛けています。あとは直接皆から募ろうかと」
「それだったら、私から推薦したい子がいるのだけど」
廊下を曲がり、続く階段の手すりに手をかける。階段一段一段にも絨毯が敷かれ、それが歩く音を吸収する。
「推薦でございますか?」
「ええ」
先に下っていたセシリアは踊り場に着くと後ろを振り返り、にっこりとした笑顔を見せた。
「まさかセアラですか? 奥様の気に入りだとしてもあの子が王都に行くのは……」
「私ね、人を驚かせることってとっても好きなの。知ってるでしょ?」
「奥様……」
ミス・カーティスは諦めたようにため息をついた。この主は言いだしたら固い。そしてこれもミス・カーティスにとっては馴染のことだった。
王都へ行く使用人を決めるらしいと、名前も知らないメイドがわざわざナテアたちの部屋まで噂を届けてくれた。正確にはひと月後に王都へ上がる主人達へついていく使用人の選定だ。女性の使用人はハウスキーパーが、男性使用人はハウススチュワートがその選定を行う。
「まだ先の話なんだけど早くて今夜か、遅くても数日の間についてく人間が分かるって」
ドアノブを握った彼女は、上半身だけを部屋に突っ込むような姿でさらに続ける。
「奥様たち、しばらく王都に滞在して、その間にお城へも行くって噂!」
「ちょっ、ちょっと待って。どういうこと? 王都……お城?」
仕事着へ着替え途中だったナテアとセアラは、急な来訪と彼女の嬉々とした声口調になかなかついていけない。ようやく言葉を紡げたのはナテアだった。
「ほら、知ってるでしょ、王子様が帰ってきたのよ。外国に行ってた三番目の王子様が。で、まぁよく分かんないけどそれで国中の貴族も集まるみたい」
へぇ、と反応の小さいナテアに彼女は声を高くする。
「もうっ! 王都に行けるのも珍しいのに! しかも今回は私たちからも希望だせるらしんだよ」
「珍しいの?」
問うナテアに、彼女は大きくうなずいた。
「そりゃあもう。だって普通は上が勝手に決めちゃうんだもん」
「じゃあもしかして希望するの?」
「まぁその予定。でも私だけじゃないと思うけどさ。あー仕事頑張ろう! いい所見せたらもしかしてってなるかもだし! じゃ、セアラ達、またあとでね!」
来た時と同じように勢いよく扉が閉まった。それからバタバタと廊下をかける音が聞こえる。そしてその後すぐに、近くで扉の開く音が聞こえた。
「……なんだか騒がしいと思ってたのってこれだったのね」
呟く声に、ナテアはくすくすと笑った。
「皆に言い回ってるんだね」
「本当にびっくりしたわ」
まだポカンとした表情のセアラは、半分まだ開いていたブラウスのボタンをゆっくりと留めていく。ナテアはすっかり準備を終えていた。
「――王都ねぇ」
「なあに? ナテアも行きたいの?」
「あぁ……うん、私は――」
ナテアは窓辺に立ち、飾っている水差しの花に触れながら言った。
「行ってみたいとは思う。一度くらいは」
何それ、と背後でセアラが笑った後ベッドの沈む音が鳴った。振り向くと着替え終わったセアラが髪を梳いてまとめるところだった。
「セアラはどうなのよ。王都行きの希望だすの?」
「それは……わからない」
セアラの答えにナテアは笑いかけて、止めた。
セアラは貴族の娘だということがナテアの頭をよぎった。突然口をつぐんだナテアにセアラが苦笑いする。
「別に私が貴族の出だからとかは気にしてないのよ。こうやってここで使用人してることも隠してるわけじゃないし」
「うん」
「ただここにいれば人の目を気にしなくてもいいもの」
「セアラ……」
微笑んだセアラはそのまま口を閉ざした。
この屋敷へと来てナテアの髪を結うのはもっぱらセアラだった。空気を含みふわりとしやすいナテアの髪を丹念に梳かす。それからほつれをなくし、編むようにまとめ上げる。ナテアはその間ベッドに腰掛けるセアラの前に椅子を用意して座り、じっと出来上がるのを待つ。二人が同室になり、自然とできあがった流れだった。
「本当、綺麗な髪よね」
「ありがとう。でもいいの? セアラにさせちゃって」
ナテアは先ほどセアラが口を閉ざしたその先は聞くことはなく、今まで通りの日常へと戻っていた。確かに少し気にはなるが。何か言えないことを胸に秘める様子がナテアとそっくりで、だからセアラ自らが話してくれる時がくるまで、ナテアは友人を待つことを決めていた。
「いいのよ。私が好きでしてるんだから。それにナテアがするとどこかいびつになるのよね」
「だって仕方ないじゃない……苦手なのよ。後ろ見えないし」
言い訳するナテアに、セアラは肩をすくめる。
「今朝も、私が髪をまとめててよかったわ。じゃなかったら変な髪型でクラウスに会う所だったしょ」
「別に変じゃないし……。てゆうかクラウスと会うのに髪型とか気にしないし……」
「へぇ~、ふ~ん」
「なあによ」
「べっつにー」
セアラはニヤニヤと、そしてそれ以上にしたたかに笑う。
「クラウスはただの幼馴染だし」
「ナテアがそう思ってても彼、若くて騎士で真面目そうだし、周りじゃ人気あるかもよ」
「えぇ?」
ナテアは思わずあんぐりした。だってあのクラウスが? 孤児院にいたころはいつも年下の子供たちにもみくちゃにされて、泥まみれになってたあのクラウスが?
小さなころからずっと一緒にいたせいか、どうも想像がつかない。
「ここのメイドたちからも声かけられてるかも」
「まさか!」
「そう? わからないわよ?」
「だって……クラウスが他の女の子と一緒にいるなんて想像できない。今までもそうだったし。ずっといたの私だったし」
そこまで言ってナテアは口をつぐむ。目の前でキラキラと目を輝かせるセアラについたじろいだ。
「いい!」
「言わないで!」
ナテアはセアラの口を慌てて塞ぐ。言って気づいた。とてつもなく顔が熱い。
「ぅもうっ……んんんっ」
特別意識しようと思ったわけではないのに。セアラもクラウスのことを知ってるからかもしれない。口にほんの少し出しただけでどうしてこんなに恥ずかしいのか。
もやもやとしている内に、セアラはなんとかナテアの手を引き離していた。
「ちょっと……ナテア強い……」
「あ、ごめん」
肩で息するセアラに、ナテアは忘れてたように苦笑いする。
「もー……。でも驚いたわよ。だってナテアってばそう言った話、全然だったから」
「いいじゃない。もう、恥ずかしいからやめてよね」
「あら、フットマン見習いに声、掛けられてたことしってるんだから。それも話してくれなかったでしょ」
ナテアは大きく目を開く。
「逆に何で知ってるのよ?」
「見てた人がいるみたい」
つい先日のことを思い出して、みるみる内にナテアの頬が赤くなる。そしてナテアは勢いよく立ち上がった。
「どこ行くの?」
「仕事っ」
そう言って、荒げて部屋を出ていくナテアをセアラは「あはは」と笑いながら見送った。