第24話:そして彼は「美食帝国」の王となる
スタンピードは、三日間続いた。
三日間。七十二時間。魔物の波は途切れることなく押し寄せ、砦の防衛線は休むことなく戦い続けた。
だが、結果は圧倒的な勝利だった。
レンのバフ飯を定期的に補給しながら戦った王国軍は、交代制で休息を取りつつ、五万を超える魔物を完全に鎮圧した。
砦は無傷。ミスリルの壁に傷一つなかった。
王国軍の死者はゼロ。負傷者は軽傷のみ。
鎮圧した魔物は推定五万三千体以上。
過去最大級のスタンピードが、過去最小の被害で鎮圧されたのだ。
その中心にいたのは、Eランクの料理人だった。
◇ ◇ ◇
三日目の夕暮れ。
最後の魔物の群れがフェンリスの吹雪で凍結され、荒野に静寂が戻った。
夕日が荒野を赤く染めている。戦いの痕跡——凍った魔物の残骸、砕けた氷の壁、ミスリル弾の着弾痕——が荒野のあちこちに残っているが、砦だけは変わらずそこに在った。銀色の壁が夕日を反射し、パン窯からは白い煙が上がっている。
将軍ガルドゥスは、血と泥にまみれた鎧のまま、砦の門前でレンに向かって敬礼した。
一人の老将が、一人の料理人に。
「レン殿。我が軍の勝利は、すべてあなたの力によるものだ」
「大袈裟だな。兵士たちが命がけで戦ったんだ。俺は飯を作っただけだ」
「いいえ」
ガルドゥスの声は静かだったが、揺るぎがなかった。
「兵士たちが命がけで戦えたのは、あなたの料理があったからだ。空腹で絶望していた兵に力を与え、満身創痍の戦線に希望を運んだ。三日間、一度も補給が途切れなかった。休憩のたびに温かいスープとパンが届いた。兵士たちはあなたの料理を食べるたびに、もう一度立ち上がる力を得た」
「……それが料理人の仕事だ」
「ああ。そうだな。だからこそ——」
ガルドゥスは姿勢を正した。
「レン殿。私から一つ提案がある」
「なんだ?」
「この地を——あなたが治めるべきだ」
「……は?」
「嘆きの荒野は、王国の辺境であり、名目上は国王の直轄地だが、実質的には誰も管理していない。しかし今回のスタンピードで、この地の戦略的重要性が証明された。ここに信頼できる領主が必要だ。砦を築き、菜園を作り、フェンリルを従え、千人の兵士を養った人物——あなた以外にいない」
「領主って……俺は料理人だぞ」
「だからこそだ。この不毛の荒野を緑に変え、堅牢な砦を建て、神獣すら慕う場所を作り上げた。戦士にも魔法使いにもできないことを、あなたは料理人としてやり遂げた」
ガルドゥスの灰色の瞳は真剣だった。
「国王には私から進言する。あなたが受けてくれるなら」
レンは困惑した。視線が泳いだ。セレナを見た。フィオナを見た。ルナを見た。
セレナが微笑んだ。穏やかで、確信に満ちた微笑みだった。
「レン様こそ、この荒野の——いいえ、新たな国の王にふさわしいと、私は思います。元宮廷味覚鑑定士として。そして……エルフ王国第三王女として」
ガルドゥスの目が見開かれたが、今は詮索しなかった。
「あなたは料理で人を救い、料理で人を集め、料理で世界を守った。それは、王の資質です」
フィオナが腕を組んだ。
「悪くない主君だ。少なくとも、飯が美味い国の領主なら、仕えて損はない」
「お前、今まで誰にも仕えたことないだろ」
「だから比較対象がいない。つまりお前が最高だ」
「それは論理として破綻してるぞ」
「知ってる」
ルナが人化形態でレンに飛びついた。両腕をレンの腰に回し、ぎゅっと抱きつく。
「おうさま! レン、おうさまになるの!?」
「なるとは言ってない——」
「おうさま! おうさまのごはん! まいにちごはん!」
「ルナ、お前の判断基準はいつもそれだな……」
夕日に照らされた荒野。砦の外から、ロランドの荷車がやってくるのが見えた。
「レン殿ーーーっ! 無事ですか! 生きてますか!」
砂埃を巻き上げて荷車が到着した。ロランドが飛び降りて走ってくる。
「ロランドさん」
「レン殿! ご無事で何よりです! 王都ではスタンピード鎮圧の報がすでに届いており、大騒ぎですぞ! 『荒野の料理人が千人の兵を養い、五万の魔物を鎮圧した』と!」
「……もう広まってるのか」
「広まってます! そして、さらなる大ニュースが!」
ロランドが巻物を取り出した。
「国王陛下の勅令を預かっております!」
巻物を開いた。金箔で縁取られた公式文書。国王の印璽が押されている。
『嘆きの荒野の統治権を、料理人レンに下賜する。以後、当地は独立領として認め、レンをその領主とする。領地の名称はレンの任意とする。建国を祝し、金貨三百枚と王国軍の正式な同盟権を下賜する』
「……本当になったぞ」
レンは巻物を眺め、しばし呆然としていた。
「美食領か……。名前は変えないでおこう。『美食の砦』のままでいい」
「国名はいかがしますか?」
「国名って必要か?」
「領主なんですから。何か必要でしょう」
レンは窓の外を見た。
ミスリルの壁が夕日を反射して輝いている。精霊の菜園が夕暮れの風に揺れ、トマトが赤く熟している。パン窯からは最後のパンの甘い香りが漂っている。フェンリスが砦の外で寝そべり、ルナが人化形態でその背中にもたれている。
「美食帝国でいいか。……帝国と言っても、キッチンが大きくなっただけだが」
「『美食帝国』……」
セレナが目を細めた。
「いい響きです」
ロランドが歓声を上げた。
「うおおお! 美食帝国! ロランド商会は御用商人ですぞ! 公式パートナーですぞ! 商機! 商機の帝国ですぞ!」
「まるいの、うるさい」
「ルナちゃん!?」
◇ ◇ ◇
その夜。美食帝国の建国記念宴会。
砦の大食堂に、全員が集まっていた。
レン、セレナ、ルナ、フィオナ、ロランド。将軍ガルドゥスと、戦いを共にした兵士たちの代表十名。
テーブルには、レンのフルコースが並んでいた。
黄金のパン。焼きたて。割ると白い湯気がふわっと立ち上り、小麦の甘い香りが広がる。
精霊トマトのカプレーゼ。深紅のトマトと白いチーズ、緑のバジルが皿の上で三色の旗を描いている。オリーブオイルの優しい光沢。
深淵キノコとチーズのリゾット。匙を入れると、チーズがとろーんと糸を引く。キノコの旨味が米の一粒一粒に染みた贅沢な一品。
コカトリスのモモ肉ステーキ、赤ワインソース。表面は飴色に焼き上がり、断面はピンク色。赤ワインソースの濃厚な深みが肉の旨味と絡み合う。
精霊トマトの冷製パスタ。手打ちの生麺にトマトの甘みとバジルの清涼感。夏の宝石箱のような一皿。
洞窟クリスタルフィッシュのムニエル。透明な白身がバターで黄金色に焼き上がり、レモンの酸味がさわやかに香る。
デザートに魔力メロンのタルト。サクサクのタルト生地の上に、花びらのように並べたメロンとカスタードクリーム。
「頂きましょう」
セレナが【味覚鑑定】を発動。矢継ぎ早に採点が始まった。
「パン88点! カプレーゼ95点! リゾット103点! ステーキ111点! パスタ97点! ムニエル92点! タルト119点!」
「セレナ、食え」
「癖なんですっ!」
フィオナが黙々とステーキを食べていた。四枚目に手を伸ばしかけて、レンと目が合った。
「……五枚目を頼む」
「もう五枚目なのか」
「美味い飯は、騎士の活力だ」
ルナは数えるのをやめた。パスタ六皿、ステーキ三枚、パン十一個、タルト五切れ。底なしだった。
「おかわりー!」
「ルナ、もうパンが——」
「じゅうにこめ!」
「増やすな!」
兵士たちの代表も目を丸くしていた。
「こ、こんな飯は王宮でも食えないぞ……」
「涙が出る……美味すぎて涙が出る……」
「うちの嫁より美味い……いや、これは嫁には言えない……」
将軍ガルドゥスはグラスを掲げた。灰色の瞳に、温かな光が灯っている。
「美食帝国の建国と、レン殿の領主就任を祝して。そして、一人の料理人が千人の命を救ってくれたことに——乾杯」
「乾杯!」
食堂が歓声に包まれた。グラスが鳴り、笑い声が響き、料理の香りが天井まで立ち上った。
◇ ◇ ◇
宴が終わり、客が帰り、ルナが満腹で暖炉の前で眠りについた深夜。
レンは一人、キッチンに立っていた。
使い込んだ包丁を手に取り、布で丁寧に拭く。
銀色の刃に、自分の顔が映っている。
追放された飯炊き係。
Eランクの料理人。
「お前なんかいなくても何も困らない」と言われた男。
あの日から、ここまで来た。
窓の外を見る。
ミスリルの城壁が月光を受けて静かに輝いている。精霊の菜園に夜風が吹き、トマトの葉がさらさらと音を立てている。パン窯に残った余熱が、キッチンの空気を暖かくしている。
二階からは、セレナの穏やかな寝息。ルナの小さな寝言——「おかわり……むにゃ……」。フィオナの寝返りの音。
砦の外では、フェンリスが月を見上げて静かに寝そべっている。
誰もいない夜のキッチンで、レンは明日の朝食の仕込みを始めた。
パンの生地をこねる。小麦粉に水と塩と酵母を加え、手のひらで押し、折り畳み、また押す。単純で、地道で、終わりのない作業。
でも、これが好きだ。
自分の手で生地をこね、火を起こし、焼き上げ、皿に盛る。
それを食べた人が「美味い」と言ってくれる。
それだけのことが、たまらなく好きだ。
「…………」
包丁を握り直す。
「さて……明日は何を作ろうか」
追放された料理人の物語は、ここから始まる。
◇
王都。宮廷裁判所。
白い壁と高い天井。硬い木の被告席に、アレクが座っていた。
「――勇者アレク」
裁判官の声が、法廷に響いた。
「スタンピード討伐任務における職務怠慢。パーティメンバーへの不当な指揮。ならびに、Sランク冒険者としての実績の虚偽申告」
「虚偽申告……!?」
「調査の結果、アレクの過去二年間のSランク相当の実績は、元パーティメンバーの料理人レンのバフ料理による一時的なステータス上昇に依存していたことが判明した。本来のステータスはBランク相当であり、Sランク認定の基準を満たしていない」
アレクの顔から血の気が引いた。
「よって、勇者の称号を剥奪する。Sランクの冒険者登録を取り消す。さらに、借金返済の代替措置として、辺境の村リトルベリーにて三年間の農作業に従事すること。——以上」
「ま、待ってくれ! 俺は勇者だ! 勇者を畑仕事に——」
「元勇者だ。もう貴殿にその資格はない。退廷を」
裁判は、十分で終わった。
メルヴィンとリーゼは、パーティ解散後、それぞれ別の道を歩んでいた。
メルヴィンは王都の図書館の司書として静かに暮らし始めた。膨大な蔵書の中で、料理に関する文献を読んでいることが多いという。
リーゼは田舎の小さな教会で僧侶として再出発した。自分の回復魔法の未熟さと向き合う日々を送っている。
アレクだけが、辺境の村に送られた。
リトルベリー村。二十戸ほどの小さな農村。
朝から晩まで畑を耕し、種を撒き、水を汲む。太陽に焼かれ、泥にまみれ、腰が痛くなるまで鍬を振る毎日。
配給された食事は、塩味の豆スープと、硬い黒パン。
ある夜。
粗末な小屋の、薄い藁のベッドの上で。
アレクは天井を見上げた。
土壁の天井に、月明かりが差し込んでいる。虫の声が聞こえる。隣の部屋では、先に寝た農夫のいびきが響いている。
「……レンの飯が、食いたい」
小さな声だった。
あの焼きたてのパン。
ふわふわで、甘い香りがして、割ると湯気が立ち上って、一口食べるだけで幸せになれたパン。
あの温かいシチュー。
疲れた体を芯から温めてくれた、あの琥珀色のスープ。
あの香草茶。
冷えた夜に、そっと差し出してくれた、あの温かいカップ。
二年間、毎日当たり前のように享受していた食卓。
「美味い」とも「ありがとう」とも言わなかった食卓。
自分の手で叩き壊した食卓。
「……もう一度だけ……食いたかったな……」
返事は、誰も返さなかった。
豆スープの冷めた匂いだけが、部屋に漂っていた。
◇
同じ夜。
美食帝国の砦では、明日の朝食の仕込みが続いていた。
パン生地がこね上がった。布をかけて一晩寝かせる。明日の朝には、ふっくらと膨らんでいるだろう。
スープの出汁も取り終えた。コカトリスの骨と香草でじっくり煮出した黄金色のブイヨン。朝にはこれに精霊トマトと根菜を加えて、温かいミネストローネにする。
レンはエプロンを外し、手を洗った。
キッチンの窓から、月が見えた。
追放された日のことを思い出す。
「お前はもういらない」。
「お前がいなくても何も困らない」。
「せいぜい野垂れ死にするんだな、飯炊き係」。
あの日、決めた。
もう誰かの「飯炊き係」にはならない。
だけど——
自分の食卓に座る人たちのためになら、何だって作る。
パンでも。シチューでも。フルコースでも。竜帝のオムレツでも。
それが、料理人の矜持だ。
エプロンを畳み、フックにかけた。
明日の朝。
ルナが「おなかすいた」と飛び起きてくる。
セレナが「おはようございます、レン様」と微笑む。
フィオナが無言で食卓に座り、パンに手を伸ばす。
フェンリスが窓から大きな鼻を突っ込んで、ステーキを催促する。
いつもの朝が来る。
レンはキッチンの灯りを消した。
「おやすみ」
誰にともなく呟いて、自室への階段を上がった。
美食の砦は今夜も静かだ。
パン窯の余熱と、スープの出汁の匂いだけが、夜のキッチンに残っている。
——明日も、美味い飯を作ろう。
―—完
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
この物語はここで一区切りとなります。
リアクション次第で続編執筆します。
他作品も投稿しているので、ご興味あれば是非に!




