第23話:開戦——美食の力で世界を守る
朝日が昇る前に、大地が鳴った。
鳴ったという表現では足りない。吼えた、と言うべきだった。地面そのものが苦悶するように震え、見張り塔のミスリルの壁が低い共鳴音を発し、砦全体がびりびりと振動した。
地平線の向こうから、黒い波が押し寄せてくる。
オーク。リザードマン。オーガ。ワイバーン。キメラ。トロール。グリフォン。
あらゆる種類の魔物が、正気を失った濁流のように荒野を埋め尽くしていた。
その数は万を超えていた。大地を覆い尽くす黒い絨毯。地平線の端から端まで、隙間なく。空もまた、ワイバーンとグリフォンの群れが太陽を遮り、薄暗い影を落としている。
「来たか」
レンは砦の見張り塔の上に立ち、地平線を見つめた。エプロンの上から腕を組んでいる。風が髪と前掛けの紐を揺らした。
砦の前方百メートルに、バフ飯を食べた千人の王国軍が布陣している。
その先頭に、将軍ガルドゥスが馬上で剣を掲げていた。白髪が風に流れ、灰色の瞳が魔物の大群を見据えている。
「全軍! 構え!」
千人の兵士が、一斉に武器を構えた。
昨夜のバフはまだ有効だ。攻撃力+40%、防御力+35%、俊敏性+30%。
干し肉と泥水しか食べていなかった兵士たちが、たった一食の飯で精鋭の軍団に生まれ変わっていた。目の色が違う。立ち姿が違う。構え方が違う。腹が満たされた兵士は、強い。
「レン。始めるぞ」
フィオナが砦の門前に立ち、大剣の柄を握った。竜帝のオムレツの恒久バフに加え、出撃前に食べた『韋駄天のサンドイッチ』のバフが上乗せされている。
「第一防衛ライン——フェンリス、ルナ!」
砦の背後から、白銀の巨体が飛翔した。
冬嵐の主フェンリスが、空を覆うように翼を広げた。その横に、ルナが獣形態で並ぶ。親子の白銀のフェンリルが、荒野の空を支配した。
「ガウウウウウウウウウゥゥゥゥ!!!」
「ワオオオォォォォン!!」
親子の咆哮が荒野を震わせた。
二体のフェンリルの口から放たれた極大の氷のブレスが、交差して魔物の先頭集団に叩きつけられた。
白い光の柱が荒野を貫いた。
先頭の数百体が一瞬で凍結した。オークもオーガもトロールも区別なく、動いている姿のまま氷像に変わった。氷の壁が大地の上に屹立し、高さ十メートルの氷の城壁が出現する。
後続の魔物が氷の壁にぶつかり、停滞する。だが、数の暴力。氷の壁を乗り越え、砕き、押し潰しながら、第二波が押し寄せてくる。
「第二防衛ライン——防衛タワー!」
「了解!」
砦の中で、セレナが魔法陣を展開した。精霊魔法の風が防衛タワーのミスリル弾を包み込み、弾速と威力を強化する。
「|風の精霊よ、銀の弾に翼を与えよ《ウィンド・ブースト》!」
ガィンガィンガィンガィンガィン!
四基の防衛タワーから、強化ミスリル弾が連射された。風の精霊の加護を受けたミスリル弾は通常の三倍の速度で飛翔し、氷の壁を乗り越えてきたオーガの群れを次々と吹き飛ばす。
一発で一体。一体ごとに着弾音が荒野に響く。
だが、魔物の数が多すぎる。タワーの弾幕を突破した群れが、王国軍の防衛線に到達し始めた。
「来るぞ! 全軍、迎撃!」
ガルドゥスの号令。
千人の兵士が、魔物の群れに突撃した。
バフ飯の効果は圧倒的だった。
「おおおおっ!」
一般兵の剣が、Bランクの魔物の装甲を一撃で叩き割った。通常ならC〜Dランクが限界の兵士が、Bランクの魔物を一対一で圧倒している。
「すげえ! 力が湧いてくる! 剣が軽い!」
「盾で受けても押し負けない! この防御力、なんだよこれ!」
「足が速い! 魔物の攻撃が見える! 避けられる!」
攻撃力+40%は伊達ではなかった。兵士たちの一撃は以前の比ではない破壊力を持ち、防御力+35%の恩恵で魔物の反撃を受けても鎧が砕けない。俊敏性+30%で魔物の動きが鈍く見える。
千の兵が、三千の精鋭に匹敵する力を発揮していた。
「第三防衛ライン——フィオナ、出撃!」
「行くぞ」
フィオナが門から飛び出した。
竜帝のオムレツの恒久バフ(全ステータス+30%)に韋駄天のサンドイッチ(俊敏性+60%、反射速度+40%)が重なった女騎士の戦闘力は、もはや人間の範疇を超えていた。
大剣が閃光のように振るわれた。
一振りで、Aランクのオーガの胴が真っ二つに切り裂かれた。返す刀でリザードマンの群れを薙ぎ払う。三体、五体、八体。一つの動作で八体が地に伏した。
「はあああぁぁっ!」
残像が五つ、六つ、七つ。もはや肉眼では追えない速度だ。
Sランクの魔物ですら一合も持たない。フィオナの大剣が通った後には、魔物の残骸だけが残った。
空ではルナとフェンリスが、ワイバーンの群れを殲滅していた。
「ワオオオォォォン!!」
ルナの氷のブレスが空を白く染めた。竜帝のオムレツの恒久バフ+力の猛牛ステーキの一時バフ。二重のバフがかかったルナのブレスは、ワイバーンの群れを一息で凍結させ、氷の彫像として荒野に降り注がせた。
フェンリスは別格だった。口を開くだけで、前方数百メートルの全てが凍りついた。ブレスというより、天変地異だった。
◇ ◇ ◇
一方。戦場の端。
勇者パーティは、Cランクの魔物の群れを相手に必死に戦っていた。
「く、くそっ! なんで倒せない!」
アレクの聖剣が魔物を叩くが、浅い傷しかつかない。本来ならSランクの魔物を一撃で倒せるはずの聖剣が、Cランクの魔物すら仕留められない。
なぜなら、聖剣の威力は使い手のステータスに依存する。バフなしのアレクのステータスは——Bランク相当。聖剣の真の力を引き出せていない。
「アレク、後ろ!」
メルヴィンの魔法がオークを吹き飛ばす。だがかつてのような大火力はなく、一体ずつしか倒せない。
「リーゼ、回復を……リーゼ!?」
振り返ると、リーゼは座り込んでいた。杖を放り出し、膝を抱えている。
「……もう無理。もう嫌。こんな泥まみれの戦場で死にたくない」
「立て! 戦え! 俺たちはSランクの——」
「Sランクなんてとっくに終わったのよ!」
リーゼが叫んだ。泣いていた。
「全部あんたのせいでしょ!? レンを追い出したのは、あんたじゃない! あの飯がなくなってから全部おかしくなったのよ!」
「俺のせいじゃ——」
「あんたのせいよ! レンがいた頃を思い出してみなさい! 朝は焼きたてのパンで目が覚めて、夜はシチューで体が温まって、戦闘の前にはバフ付きのサンドイッチを食べて——全部、レンがやってくれてたのよ! それを『いらない』って言ったのは誰!?」
「…………」
「私、もうあんたについていかない。パーティは解散よ!」
メルヴィンも静かに剣を鞘に収めた。
「……俺も、同意見だ」
「メルヴィン……お前まで……」
「認めるしかない。我々は、レンの料理なしでは勇者ですらなかった。本来のBランクの実力を、レンの料理がSランクに底上げしていた。そしてそのことに気づきもしなかった。感謝もしなかった。……恥ずべき話だ」
アレクは膝をついた。
戦場の向こうで、レンの砦が光を放っている。ミスリルの壁がバフ飯を食べた兵士たちの歓声を反響させ、親子フェンリルの吹雪が魔物の大群を凍結させ、フィオナの大剣が閃光のように暴れている。
かつて自分が追放した「飯炊き係」が、世界を守っている。
「…………俺は、なんてことをしたんだ……」
アレクの聖剣が、地面に突き刺さった。握る力が、もう残っていなかった。




