7.巫女
「ファラーシャ!」
振り返ったエグナルが見たのは粉々になった数珠具と黒焦げになった僧服、そして馬上から弾き飛ばされ、荒れ土に叩きつけられたファラーシャの姿だった。
「おのれーッ!」
エグナルと、かれを仕留めそこなった黒魔術士が怒声をほとばしらせた。黒魔術士の姿はいまだに霧に包まれていたが、そのシルエットからは左腕が失われている。
“とどめを刺してやる──”
エグナルが突貫しようとしたそのとき、消えかけの〈貪る霧〉が渦を巻いた。再びかれと竜馬の方向感覚が狂わされ、まっすぐに進むことが困難になる。
『よくも私に──必ず──がいい──』
こもった恨み言が遠ざかり、魔力の霧が薄れて消えた。黒魔術士は影も形もなく、ただ油めいた赤黒い血の跡だけが荒れた地面に残されている。
“くそっ!”エグナルは悪態をついた。あのレベルの悪魔──知性ある魔族に復讐の機会を与えたのは絶対にまずい。強引にでも追うべきかとも思ったが、かれは愛馬から飛び降り僧侶の娘に駆け寄った。
「ファラーシャ!」
「はい」
むくりと起き上がったファラーシャが何事もなかったかのように返事をし、エグナルはあっけにとられた。黒魔術士の〈稲妻の矢〉──エグナルのものより強力だった──は当たっていなかったのか?
いや、確かに数珠具は粉々になり、黒焦げの僧服は原型をとどめていない。しかし、彼女が僧服の下に着込んでいたものにはかすり傷ひとつついていなかった。
露わになったその装束をなんと呼ぶべきか、エグナルにはわからなかった。白い軟質の素材と、薄絹のように透けた布でできたそれは彼女の体にぴったりとフィットし、ちりばめられた七色の宝石と黄金が、黄昏の薄明かりで神秘そのものの光を放っている。
首飾りから下履きまで一体の様式を含め、明らかに現代の技術によるものではない。エグナルもはじめて見るが、これは伝説に聞く〈最初の子ら〉──その巫女の装束ではなかろうか?
「あの、敵は?」
「取り逃がした。──安心しろ、そのうち復讐に来てくれるだろうよ。追う手間がはぶける……おい、もう動けるのか?」
「ええ、はい、全然」ファラーシャは立ち上がり、半ば茫然と自身の白い装束を見下ろした。「えっと……当たりましたよね、ファラーシャに」
「ああ、人間を木っ端微塵にできる威力の〈稲妻の矢〉だった。その服は一体何だ?」
「〈白き太陽〉──そういう名前です。母方の家に伝わっていた遺物で……詳しいことはわたくしにもわかりません。“守護”の力があるのは知っていましたが……」
エグナルは燃える目をすがめた。これほど強力な遺物は滅多にお目にかかれるものではない。このレベルだと、なりふり構わず遺物回収に勤しむ帝国にもそう数はないはずだ。“これもセットか?”サイレンが欲しがるわけだ。
「まあ……無事ならいい」エグナルは彼女に馬に戻るように促した。「お前の残骸を持っていったところで、お前の父親は報酬を払ったりしないだろうからな」
❖
エグナルは銀色の月が高く昇り、晴れた夜空を煌々と照らすまで愛馬を走らせた。魔人たるかれと竜馬は充分に夜目がきいたし、体力的にも夜通し走っても問題はなかったが、僧侶の娘はそんな強行軍には耐えられまい。
かれは人里離れた森の中で野営をすることに決めた。ファラーシャは鬱蒼とした樹木の陰──いかにも何かが潜んでいそうな暗がりに目をやって、
「この森には、いくらか邪悪な被造物がいるそうですが……」
「ちゃちな怪物はおれに近づかない。悪魔の血の数少ない利点だ」
かれは木々のまばらな、ちょっとした広場のような場所で火を熾した。もし黒魔術士が復讐に戻っても、この森の中では大型の魔物はすばやく動けないだろう。〈貪る霧〉の特性はおおよそ掴んだし──かれはちらりと樫の木の枝にとまったふくろうを見た──あの間抜け面の〈守護霊〉の援護もある。
「悪魔が実際にいてよかったな」雑嚢から夕食──ファラーシャが叔父の馬車から持ち出した食料──を出しながらエグナルが言うと、僧侶の娘は目を点にした。
「えっ?」
「お前の覚悟が無駄にならずにすむ。前払いの報酬もな」
彼女はごくりとつばを飲み込んだが、それは伝統的なブレク(玉ねぎとひき肉のパイ)を見たためではないだろう。機械的に口を動かす娘の顔を肴に、エグナルは夕食を楽しんだ(ちなみに竜馬はパイクホラーの血と肉で腹を満たした)。
もちろん、本当のお楽しみはこの後だが。
「立て、ファラーシャ」
夕食を終えてしばし──エグナルがついに言うと、火のそばでかちこちになっていたファラーシャがゆっくりと立ち上がった。火光が霊力を秘めた装束を照らし出し、あしらわれた黄金に刻まれた、古代の秘文字がぼんやりと浮かんで見えた。
「脱がすのが惜しい服だ」
エグナルが笑った。娘はどうやら着やせするたちらしい、ぴったりとした装束は健康的な体のラインを露わにする一方で、犯しがたい品位を具えている。たっぷり視線で嬲られたファラーシャは顔をさっと朱色に染めたが、それでも決然として言った。
「サー・エグナル、ひとつお願いがあります」
「なんだ。ようやく怖気づいたか?」
「いいえ。──兜を脱いで、お顔を見せて下さいませんか。てっきりお食事のときに拝見できると思ったのですが」
言われて、エグナルは目の前の娘にまだ一度も素顔を見せていないことに気がついた。魔力を宿した〈蒼ざめた死者〉の悪魔面は着用者の顔に合わせて柔軟に動き、ものは食べられるし鼻もかめる。つけている感覚すらほとんどない。
「そんなに悪夢を──」
エグナルはお決まりの脅し文句を言いかけ、看破者にはなんの意味もないことを思い出した。かれは少し考えて、
「いいだろう。そのかわり、お前はその取り繕ったようなお硬すぎるしゃべりをなんとかしろ。興ざめだからな」
「神殿で矯正されたんですよ」ファラーシャは苦笑を浮かべて、「昔は男の子の真似をしていたので。でも、はい、わかりっ……た、よ──うん、がんばります」
「…………」
なんだか余計にあやしい口調になりそうだったが、エグナルは無言で兜に手を触れた。着用者の意思を受けて角つきの兜がガチャガチャと背中側に折り畳まれ、〈悪魔の子〉の素顔が露わになった。