第38話「久我真尋」
広大な旧イベント会場跡地に、タイマーの乾いた電子音だけが冷徹に時を刻んでいる。
天井を支える太い主柱に巻き付けられたプラスチック爆薬。そして、その周囲で赤いランプを明滅させる配信装置。かつて数万人の参加者が熱狂の渦の中で歓喜の声を上げるはずだった空間は、今や分厚いコンクリートに囲まれた、逃げ場のない採点の場へと変貌していた。
黒瀬透の冷徹な視線は、恐怖に歪む荒巻誠一や鷹城梓から外れ、少し離れた壁際の暗がりに立つ久我真尋の吊られた左腕に固定されていた。
「……そうか。君は最初から、逃げるつもりなどなかったのだな」
黒瀬のひどく掠れた声が、スピーカーのノイズに掻き消されることなく、冷えた空間に響いた。
その言葉の意味を理解した瞬間、相馬環の背筋を強烈な悪寒が駆け上がった。
相馬の構えていた銃口が、無意識のうちに荒巻たちから真尋の方向へとかすかにずれる。
真尋は、熱を失った静かな瞳で黒瀬を見つめ返した。
彼は三角巾で吊っていた左腕をゆっくりと下ろした。
痛めたはずの腕は、不自然なほど滑らかに動いた。
黒瀬の視線が、包帯の膨らみで止まる。
あれは添え木ではない。
真尋は包帯の内側へ指を差し入れた。
白い布の奥から、小さな黒い端末が静かに滑り出す。
それを見た瞬間、相馬の表情が硬く引き締まる。
「……怪我も、誘導だったのか」
真尋は端末を掌に収めたまま、静かに答えた。
「標的に見える者ほど、盤面の中心に立てるんです」
「ポケットなら、ここに入る前に確認される。鞄なら預けさせられる。端末なら、金属探知にも引っかかる」
黒瀬の視線は、真尋の左腕から動かなかった。
「だが、怪我人の添え木と包帯なら違う。遺族として招かれた人間の傷を、現場で無理に解かせる者はいない」
真尋は、何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
それは配信装置のカメラとタイマーを連動させ、音声合成ソフトを遠隔操作するためのマスターコントローラーだった。
「彼が、出題者だ」
黒瀬は宣告した。
「遠隔でモニターを見ながらタイマーを操作しているのではない。彼自身がこの盤面に立ち、解答者たちの反応を直接見ながら、最後の採点を行っていたのだ」
「久我真尋。君は自分が何をしているのか分かっているのか。これは個人の訴えではない。社会秩序への破壊行為だ」
荒巻が激しい動揺を威圧的な言葉で覆い隠そうとして叫んだ。
彼にとっては、目の前の男が遺族であろうとなかろうと、自らが守ってきた秩序を、暴力で乱そうとする存在としてしか見えていなかった。
鷹城もまた、恐怖で震え上がりそうになるのを必死に抑え込み、プロフェッショナルとしての滑らかな声色を取り繕って言った。
「あなたがこれらの一連の事件を……? 待って。こんなことをしても、何も戻らないわ。あなたの妹さんのことは、本当に痛ましい事故だった。でも、だからといって今ここで私たちを巻き込む理由にはならないでしょう」
その言葉は、あくまで事態を収めるための綺麗な言い回しに聞こえた。
遺族の痛みに触れるより先に、場を処理しようとする声だった。
だが、真尋の表情の筋肉は一つも動かなかった。
怒りで声を荒らげることも、激昂して彼らに掴みかかることも、涙を流すこともない。
荒巻と鷹城の声を、ただ背景音のように聞き流していた。
彼の眼差しは、ただ目の前に立つ黒瀬透だけに向けられていた。
「復讐のためではないのだな」
黒瀬は真尋の手にある端末を見据えたまま言った。
「もし君が彼らを憎み、ただ殺したいだけなら、この会場に集めた時点で即座に起爆すればよかった。だが君はそうしなかった。君の目的は彼らの命を奪うことではなく、この『採点』という形式を成立させることにある」
真尋は感情の表面が凍りついたような声で、静かに答えた。
「ここで彼らの命を奪っても、澪がなぜあの日、あの暗い場所へ向かったのかという『答え』は出ません。……僕が欲しかったのは、隠された事実の断片ではありません。彼女があの道へ向かわされた理由を、この世界に認めさせるための形式でした」
真尋の口から五年間積み重なってきたものが、静かに零れ始めた。
真尋は最初から爆弾を作ろうとしたわけではなかった。
最初に集めたのは、関係者の証言だった。
次に古い図面だった。
次に消された記録だった。
だがそのすべては「証拠として不十分」として退けられた。
彼が最も長く読み続けた資料は警察の報告書ではない。
妹のノートだった。
そこには、黒瀬透の問題が、ただの感想ではなく構造として解体されていた。
人はどの言葉に引っかかるのか。
どの順番で視線を誘導すれば間違った方向へ進むのか。
最後にどの情報を置けば解答者は自分の誤りに気づくのか。
真尋は五年間そのノートを読み続けた。
妹の問いを誰にも無視できない形で返すために。
「だが、その先には壁があった」
黒瀬の言葉に真尋は乾いた響きで応じた。
「ええ。どれだけ資料を積み上げても、社会の秩序はそれを認めなかった」
封筒の角は擦り切れ何度も開かれた資料の折り目だけが、五年間の時間を静かに証明していた。
真尋は妹の死後、警察署に何度も足を運び、再調査を求めた。
行政に情報開示を請求し、当時の関係者へも執拗に聞き取りを試みた。
だが窓口の担当者たちは迷惑そうな顔で定型文を繰り返すばかり。
返ってくるのは常に肝心な部分が厚く黒塗りされた書類だけだった。
『もう終わったことだ』『該当事実なし』。
冷たい事務処理の連続。
荒巻たちが作り上げた「秩序を優先する処理」の壁は、一個人の痛切な問いを、何度も押し返した。
澪が最後に遺した『入ってはいけない場所に、人がいる』というノートの記述すら「ただの少女の思い込み」として取り合われなかったのだ。
「彼らは、事実がないから否定したのではない。自分たちの秩序を守るために、最初から答えを『ないもの』として処理していた。……それが、最後に押された不受理印でした」
真尋の声には激情すら滲んでいなかった。
怒りや憎しみといった熱のある感情はとうの昔に焼き尽くされ、残っているのは、数え切れないほどの絶望を通り抜けた者だけが持つ温度の抜け落ちた声だった。
静かで整った言葉の響きが、かえって彼が孕む闇の深さを際立たせていた。
「だから、僕は考えたんです。彼らが絶対に無視できない、答えを認めさせるための『形式』を作らなければならないと」
やがて彼の収集物は書類だけではなくなっていった。
古い通信機器、監視装置の部品、廃棄された設備図面。
やがてそれは正規の手続きでは扱えないものにまで及んでいった。
彼は誰にも聞かれなかった問いを、誰も無視できない場所へ置き直したのだ。
爆弾は殺意の表現ではない。
彼らを解答席に縛り付けるための、逃げ場のない時間制限装置だった。
配信装置はその答えを二度と隠せなくするための目だった。
真尋にとって、それは破壊ではなく、形式だった。
答えを認めない世界に、答えを認めさせるための形式だった。
相馬は銃を構えたまま、しかし引き金を引くこともできずに立ち尽くしていた。
銃口の先にいるのは、爆弾を仕掛けた容疑者であると同時に警察が何度も押し返してきた遺族でもあった。
五年前の霊安室で冷たくなった妹の前にただ立ち尽くすことしかできなかった青年の姿が、相馬の脳裏をよぎる。
目の前にいる男は、単なる狂人ではない。
社会の手続きに何度も問いを押し返され、それでも答えに辿り着くために自らを冷たい形式の一部へと作り変えてしまった一人の兄だった。
警察組織が積み上げてきた処理の冷たさを知っている以上、ただ正論だけを突きつけて彼を断罪することもできなかった。
それでも、爆弾を仕掛けたという事実だけは、決して消えない。
銃を握る相馬の手に冷たい汗が滲む。
黒瀬は深く息を吐き出した。
真尋の姿は、黒瀬にとって決して他人事ではなかった。
五年前、自分は手元にあった図面のズレと違和感に気づきながら問いを途中で閉じた。
その先を見ようとしなかった自分自身がいま真尋の前にいる。
もしあの時自分が違和感の先を見ていれば、真尋が五年間、ここまで冷たい形式を作り上げることはなかったのかもしれない。
自分が見ようとしなかったものの向こう側で、真尋は五年間、この暗闇の中を歩き続けていたのだ。
だが黒瀬は、その感情にまだ名前を与えなかった。
「あなたの言う通りです、黒瀬さん」
真尋は静かに言った。
そして、再び端末の画面へと視線を落とした。
「彼らは先ほど、自分たちが何を処理し、何を見なかったのかを、この場で認めた。少なくとも、彼らに答えさせるところまでは終わりました」
真尋が端末のボタンを操作すると、四隅のスピーカーから、再びあの無機質な合成音声が鳴り響いた。
『これより、最終設問に移行する』
ピィ、という乾いた電子音と共に、主柱のタイマーが再び規則的なカウントダウンを開始する。
赤い数字だけが、彼らの沈黙を均等に刻んでいた。
「最後に残されたのは、最も核心となる問いです」
真尋の平坦な視線が、黒瀬を真っ直ぐに射抜いた。
「僕は、答えを求めているだけです」
真尋の口調が、出題者としてのそれへと変わった。
「あの日、澪は旧施設裏の暗闇で、何を見たのか。何の都合によって、あの道へ向かわされたのか。……黒瀬さん、あなたなら、その答えを導き出せるはずです」
冷たい隙間風が吹き抜ける広大な廃墟の中で、タイマーの赤い光が彼らの顔を照らし出す。
五年前の夜、澪が最後に立っていた場所。
偽りの誘導によって導かれた暗闇の底で、彼女が最後に見たもの。
五年前の夜に残された最後の問いをめぐる対峙が、始まろうとしていた。




