第24話「抜かれた記録」
旧館地下の旧スタジオ保管フロアから押収されたものは、完全な記録資料ではなかった。
破れた仮設案内板、端の欠けた現場用コピー、搬入ラベルの貼られた設営箱、文字の一部が読めないスタッフ向けメモ。
それらはどれも正式な証拠として扱うには半端な残骸だった。
だが篠宮蒼司はその半端さにこそ違和感を覚えていた。
警察署の捜査本部の片隅で、篠宮はデスクに広げた大量の紙片やコピーの束と格闘していた。
深夜の疲労が色濃く漂う室内で、彼のタイピング音だけが規則的に響いている。
相馬と黒瀬が現場から持ち帰った「古い現場資料の箱」の中身をデータ化し、過去の断片情報と一枚ずつ照合していく地道な作業だ。
黒瀬は部屋の壁際に寄りかかり、腕を組んだまま無言で虚空を見つめている。相馬もまた、パイプ椅子に深く腰掛け、鋭い視線を篠宮のモニターへ向けていた。
「……相馬さん、黒瀬さん」
やがて、篠宮がモニターから顔を上げ、静かな、しかし確信に満ちた声を放った。
「この削られ方、不自然です」
相馬が立ち上がり、篠宮の背後へ近づく。黒瀬もゆっくりと視線を動かした。
「どういうことだ」
「押収された断片を、当時の公式なスケジュール表やフロア図と照らし合わせてみたんです」
篠宮はモニターに複数の画像を並べて表示させた。
「確かに、現場に残されたテープ跡やメモの断片から、あの地下が裏方用の導線として使われていたことは証明できます。搬入のタイミングやスタッフの配置時間なども、おおよそ復元できました。でも――」
篠宮の指先が、画面の中の空白を指し示す。
「肝心な部分だけが、ぽっかりと抜け落ちているんです。現場の安全確認のチェック項目、そして、イベント終盤に突発的に行われたはずの『導線変更の指示』に関する記述。そこだけが、綺麗に存在しない」
相馬の表情が険しくなる。
「ただの紛失じゃないのか。五年も放置された廃区画だ。紙の束が散逸してもおかしくはない」
「いいえ」
篠宮は首を横に振った。
「慌てて隠したとか、風化して消えたというレベルじゃありません。意図的に抜き取られた形跡です。破れ方が違います。散逸した紙ではなく、綴じられていた束から、該当部分だけが抜かれています。他の不要なマニュアルや設営メモは残っているのに、事故の直接的な原因に繋がりかねない部分だけが、まるで最初からなかったかのように処理されている」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が一段と冷え込んだ。
抜かれていたのは、黒瀬の問題案ではなかった。
ルート変更の指示書、安全確認のチェック表、そして危険区域の使用可否に関する承認記録だった。
事故を起こしたのは、問題そのものではない。
問題の外側で、現実の導線だけが書き換えられていた。
「遺族に渡された資料にも、同じ空白がありました」
追加資料を求められて署に呼ばれていた久我真尋が、捜査本部の入り口から静かに告げた。
相馬と黒瀬が彼を振り返る。
真尋はゆっくりと歩み寄り、自身のスマートフォンから転送した数枚の画像を篠宮のモニターに並べた。
「事故直後、私が警察や行政、制作側から受け取った説明資料のコピーです。どれも黒塗りにされているか、該当ページが最初から省かれていました」
篠宮は真尋の提示した資料と、自分が今復元したばかりの残骸のデータを照らし合わせる。
公式資料の空白、遺族への説明資料の空白、そして、廃区画に残された現場残骸の空白。
それらは、寸分違わず完全に一致していた。
篠宮の息を呑む音が聞こえた。
彼がスクロールした真尋の資料の末尾には、真尋自身が過去に何度も再調査を求めた書類の控えが残っていた。警察への再捜査依頼、行政への情報開示請求、番組制作側への質問状。
だがそこに押されているのはすべて「該当事実なし」「処理済み」「不受理」という、冷酷な事務処理の印だけだった。
どの組織も最初から同じ空白を共有し、事実上門前払いをしていたのだ。
「……五年だ」
相馬の口から低く絞り出すような声が漏れた。
「五年間、あなたはこの壁を一人で叩き続けていたのか」
真尋は無表情のまま、スマートフォンを静かに取り戻した。
「妹がなぜ死んだのか。私が知りたかったのは、ただそれだけです。ですが、どこへ向かっても、同じ壁が立ちはだかっていました。彼らにとって、澪の死はすでに『適切に処理された過去』でした。記録がない以上、検証のしようがないと」
真尋の声には、怒りも悲しみも滲んでいない。
ただ長すぎる時間の果てに感情を削り落とされた人間の、ひどく乾いた響きだけがあった。
篠宮は画面から目を離せなかった。
情報解析班として、彼はこれまで多くの隠蔽や改竄の痕跡を見てきた。
だがこれほど見事に、かつ複数の組織を跨いで同一の「空白」が共有されている事態は異常だ。
番組制作側だけでなく、行政、そして警察内部の記録さえもが、事故直後から綺麗に整えられていた。
そんなことが可能な人間は、限られている。
現場の捜査員ではない。
もっと上層部、情報を握り潰し、事件を「処理」する権限を持つ者。
相馬の拳が、無意識のうちに強く握りしめられていた。
「……警察も、隠蔽のシステムに組み込まれていたということか」
部屋の隅で黒瀬はただ一人、重い沈黙を守り続けていた。
彼の瞳はモニターの光が届かない暗がりに沈んでいる。
組織が事実を隠蔽し、遺族を門前払いしてきた五年間。
その間、自分は鷹城梓が用意した「処理」に乗り、その死の真相を知ろうとする遺族の存在から目を背け続けてきたのだ。
黒瀬の胸の奥底で、かつてないほどの苦い悔恨が渦を巻く。
事故を起こしたのは自分ではない。
だがこの巨大な隠蔽の壁を構成する一つのレンガとして、自らの不作為が確かに組み込まれている。
「真尋さん」
相馬が、鋭く真っ直ぐな視線を真尋へ向けた。
「この空白の向こう側に、誰がいるのか。警察が何を隠したのか、私が必ず突き止める」
それは刑事としての誓いであり、身内である警察組織の腐敗に対する宣戦布告でもあった。
だが真尋は小さく会釈をしただけで何も答えなかった。
彼の瞳の奥底には、相馬の決意さえもすでに手遅れだと言わんばかりの、静かで冷ややかな絶望が横たわっていた。
篠宮は再びキーボードに向かい、残された断片からさらなる情報を引きずり出そうと画面を睨みつける。
深夜の捜査本部には、不気味なまでの静寂が降り積もっていた。
事故の真実を覆い隠す巨大なシステム。それに立ち向かう者たちの足元で、見えない出題者の引いた導線が、彼らをさらに深く暗い場所へと誘い込もうとしていた。




