第23話「舞台袖がいちばんよく燃える」
『第六問。観客席からは見えないが舞台袖がいちばんよく燃える』
無線機から響いた篠宮の震える声が、覆面パトカーの車内に重く冷たい沈黙を落とし込んだ。
黒瀬は窓ガラスからゆっくりと視線を外し、前方の夜の闇を真っ直ぐに見据えた。
「汐留のテレビ局に隣接する、旧館地下の旧スタジオ保管フロアだ」
即座に弾き出されたその明確な答えに、相馬はサイレンのスイッチを叩き、アクセルを強く踏み込みながら短く問い返す。
「根拠は」
「これは、私にゼロから推理させる問題じゃない。知っていたはずの運用を、答えとして口に出させる問題だ」
黒瀬の言葉は冷徹で、一切の感情を交えていない。
「五年前のイベントは、数万人を収容する異常な規模だった。表向きの華やかなルートを維持するために、運営側はどうしても大量の資材とスタッフを人知れず移動させるための『裏道』を必要としていた。公式のフロア図面には存在しないショートカット。老朽化し、安全基準を満たしていない旧区画の無許可使用だ。当時、私が知っていたのはそこまでだ」
相馬の脳裏に、数十分前に対峙した鷹城梓の顔がよぎる。
『必要な範囲で事態を整理した』と、綺麗な言葉で事実を処理し、事故の責任を切り離したあの女性の揺るぎない表情。
「それが、あの夜の『舞台袖』だ」
黒瀬のひどく掠れた声が、車内の張り詰めた空気を切り裂く。
出題者の狙いは、少しずつ形を取り始めていた。
「参加者向けの公式資料に載るはずがない場所だ。犯人は、何らかの形でこの裏方導線に辿り着いている」
黒瀬は窓の外を見たまま、低く続けた。
「当時ここを使っていた側か、あるいは、その痕跡を執拗に追った者か」
鷹城が言葉で処理したものが、今度は物理的な空間として目の前に現れようとしていた。
「あの夜、私はそこが搬入経路として使われていることを知っていた」
黒瀬はダッシュボードを見つめたまま、ただ一つの事実だけを口にした。
「だが、それが参加者側の導線にどう接続されていたのかまでは、確認しなかった。その先を見なかったんだ」
相馬は無言のまま、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。
それ以上、問いを重ねることはしない。
黒瀬が口にした事実だけが、車内の沈黙の底に沈んでいった。
覆面パトカーは深夜の空いた道路を疾走し、目的の場所へと急ぐ。
流れる街灯の光が車内を等間隔に照らし出し、黒瀬の横顔に深い影を落としては消えていく。
相馬はバックミラーに映る自分の疲弊した顔を一瞥し、次なる現場への覚悟を静かに固めた。
テレビ局の敷地の最も外れに、周囲の華やかな高層ビル群から取り残されたように佇む旧館。
その地下へと続く搬入口は、立ち入り禁止の黄色いテープで塞がれていた。
だが鎖を留める南京錠は新しいものに付け替えられていたにもかかわらず、すでに破壊されている。
封鎖後の侵入痕だった。
「篠宮が拾った管理記録の通りだな。この旧館地下は、事故後に再開発計画や管理移管に巻き込まれて封鎖された。誰の責任範囲にもならず、片づけも止まったまま放置された区画だ」
相馬は壊れた南京錠を足元へ退け、錆びついた鉄扉に手をかけた。
蝶番がひどく軋む。
冷たく淀んだ空気が、カビと埃、古い紙の匂いとともに吹き出してきた。
「篠宮、聞こえるか。旧館地下の旧スタジオ保管フロアに突入する」
通信機に向かって短く告げ、相馬は片手に握った懐中電灯の光を暗闇の奥へと向ける。
光の円が捉えたのは、迷路のように入り組んだ巨大な空間だった。
廃棄された古い照明機材、使われなくなった美術セットの残骸、大量のケーブルの束。
それらが無造作に積み上げられ、巨大な影となって静まり返っている。
普段は誰も立ち入ることのない、完全に忘れ去られた空間。
相馬と黒瀬の足音だけが、コンクリートの床に反響して不気味に響く。
だが相馬が床に光を落とすと、分厚い埃の層の中に、不自然な痕跡が無数に刻まれているのがわかった。
台車の重い車輪が削った擦過痕。床にこびりついた黒ずんだ靴跡の名残。剥がし損ねた導線テープの色褪せた跡。
埃の下から、五年前の雑な運用だけが浮かび上がっていた。
「……ひどい有様だな」
相馬の硬質な声が、障害物に吸収されて低く響く。
ここは明らかな危険区域であり、本来ならば関係者であっても立ち入るべきではない場所だ。
しかし五年前のイベント運営は効率と成功を最優先するあまり、この無法地帯をスタッフの移動経路として酷使していた。
黒瀬は床の痕跡を静かに見つめ、ゆっくりとその上を歩き始める。
「当時、ここが表の会場から裏方区域へ抜ける中継点として使われていたことは知っていた。だが事故現場へ続いていたと分かるのは、今ここに残った痕跡を見たからだ」
彼の目は、五年前にこの暗がりを駆け抜けていたスタッフたちの姿を幻視しているかのようだった。
「そこだ」
迷路の奥深く、ひときわ高く積み上げられた機材の山の手前で、黒瀬が足を止めた。
相馬が懐中電灯の光を向けると、旧式の配電盤の裏側に、黒いダクトテープで固定された四角い物体があった。
隙間から赤いタイマーの数字が暗闇の中に不気味に浮かび上がっている。
「爆発物発見。処理班を大至急回せ」
相馬の緊迫した声が通信機に飛ぶ。
爆弾の構造はこれまでのものと同様、起爆の罠が幾重にも張り巡らされた精緻なものだった。
だが相馬の視線は、爆弾そのものよりもその周囲に散乱する雑多な残骸に引き寄せられた。
破れた仮設案内板、端の破れた現場用の案内コピー、文字の一部が読めないスタッフ向けメモ、搬入ラベルの貼られた設営箱。
それらは完全な重要資料ではないが、公式説明から消された裏方導線が実在したことを如実に物語っていた。
「正式な資料は消せても、誰の担当でもなくなった場所までは消されなかったということか」
鷹城が整えた言葉の外側に、この場所は生々しく残っていたのだ。
「爆弾が弾ければ、これらがすべて灰になる」
相馬の呟きに、黒瀬は首を横に振った。
「いや、燃やすためじゃない。ここを見つけさせるためだ」
黒瀬は爆弾の配置と残骸の位置関係を、絶対零度の瞳で冷静に観察する。
「警察に、公式な現場として踏み込ませるための火だ」
つまり犯人は、これらの残骸をすべて燃やし尽くしたいわけではない。
むしろ警察をこの最奥部に誘導し、爆弾とともに、公式説明から消された裏方導線の痕跡を、警察の目の前に置く。
そのために、この爆弾はここにあった。
数十分後。
静まり返った地下フロアに駆けつけた爆発物処理班によって、起爆装置の配線が慎重に切断された。
明滅していた赤い数字が完全に停止し、暗闇に訪れるはずだった破壊は水面下で回避された。
相馬は手袋をはめた手で、現場に残された古い現場資料の箱を押収する。
箱の奥には、封鎖扉の先に続く「旧施設裏方面」の表示が色褪せたまま残されていた。
「ここは、澪さんが転落した場所ではない。だが、彼女を正解の外へ押し出した導線は、この先に続いていたのかもしれない」
相馬の指先が、古い紙片を静かにめくる。
黒瀬は少し離れた場所で、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、封鎖された奥の扉を見つめ続けていた。
当時、彼が最後まで追わなかったものはまだこの先に続いている。




