第2話「帰れと言う男」
相馬環は古びたアパートの前に立ち、錆びついた鉄製の階段を静かに見上げた。
最寄り駅から徒歩二十分という不便な立地であり、建物の外壁には無数のひび割れが目立っている。
彼女が探している男は、こんな吹き溜まりのような寂れた場所で息を潜めて暮らしていた。
かつては難解な出題で業界に名を知られた男だが、今は匿名の構成補助として社会から半ば降りたように細々と生活している。
相馬は冷たい風にコートの襟を立てながら、軋む階段を上っていく。
あの小規模な爆発事件から数時間が経過しており、警察の威信をかけた捜査は完全に暗礁に乗り上げている。
暗号めいた予告文は、一切の糸口を与えずに警察を袋小路へと追い込んでいた。
その精緻な文章構造と黒瀬透の作問思想があまりにも似ていると篠宮が指摘したため、相馬は上層部の渋い顔を無視してここへ足を運んだのだ。
色褪せたドアの表札には名前すらない。
相馬が迷うことなくインターホンを押し、数回のコールの後、ようやく鍵の開く乾いた音が響いた。
ゆっくりと開いたドアの隙間から、無精髭を生やした一人の男が気怠そうに顔を覗かせる。
彼がかつて世間の注目を集めた出題者、黒瀬透その人だった。
「警察の方ですか。悪いですが今は忙しいので、さっさと帰ってください」
部屋の奥からは埃とインスタント食品の入り混じった停滞した匂いが漂う。
黒瀬の目はどこか焦点が合っておらず、抑揚のない声には社会との関わりを断ち切った人間の冷たさがあった。
相馬は閉められそうになるドアの隙間に靴の爪先をねじ込み、強引に押しとどめる。
諦めるという選択肢は、彼女の辞書には存在しない。
「少しだけ時間をいただく。あなたにしか解けない問題かもしれないんだ」
黒瀬は小さくため息をつき、諦めたようにドアから手を離した。
薄暗い部屋の床には無数の本や資料が無造作に積み上げられ、足の踏み場もない。
壁際に並ぶ複数のモニターには、細かいテキストの羅列が淡く光っていた。
黒瀬はパイプ椅子にどっかと腰を下ろし、相馬に視線すら向けずにモニターを見つめる。
「警察が私のような底辺の人間に何の用ですか。クイズの答えならテレビ局にでも聞いてください」
皮肉交じりの言葉に苛立ちを覚えながらも、相馬はポケットから折りたたんだコピー用紙を取り出し、黒瀬の視界に入るように机の端へ置いた。
それは数時間前に報道各社へ送りつけられた、予告文の全文だ。
黒瀬は紙を一瞥しただけで、すぐに興味を失った。
「興味ありません。他を当たってください」
「タイマー付きの出題だ。次がある」
相馬が食い下がるが、黒瀬の態度は変わらず「もう用が済んだなら帰ってください」と冷たく拒絶するだけだった。
彼にとって外の世界の出来事は、モニターの中のテキストほどの価値もないように見えた。
「あなたは現場を見ていない。だが、この文には確かな法則がある」
相馬はコピー用紙を手に取り、そこに書かれた最初の文章をゆっくりと読み上げた。
『高くて浅い場所にて、影は真昼の光を裏切る』
奇妙な一文が、部屋の澱んだ空気を震わせた。
その瞬間、モニターから目を離さなかった黒瀬の肩がわずかにピクリと動いた。
相馬は犯人が添えた「最初の火はただの合図に過ぎない」という文句も続けて読み上げる。
黒瀬はゆっくりとパイプ椅子ごと振り返り、初めて相馬の目をまっすぐに捉えた。
時が止まったかのような、緊迫した一拍の沈黙が部屋に落ちる。
焦点の合っていなかった彼の瞳に、かつての出題者としての鋭い光が確かに宿っていた。
次の瞬間、黒瀬は相馬の手から用紙をひったくるように受け取り、文面を食い入るように見つめた。
無気力な態度は完全に消え去り、そこには精密なパズルを前にした純粋な思考者が息を吹き返していた。
重い沈黙の中、黒瀬の視線が紙の上の文字を一文字ずつ舐めるように動いていく。
相馬は口を挟むことなく、彼の脳内でどのような思考の飛躍が起きているのかを静かに見守った。
やがて黒瀬は何度か文章を読み返し、忌々しそうに舌打ちをした。
「……この癖を、まだ覚えている人間がいるのか」
黒瀬は紙面から目を離さずに呟き、紙を机に乱暴に放り投げた。
「暗号じゃない。誘導だ」
黒瀬は無感情に、だが鋭く言い放った。
先ほどまでの敬語は消え去り、思考の回転に追いつくための短い言葉だけがこぼれる。
「どういうことだ。誘導とは?」
相馬が問い返すと、黒瀬は答える。
「読む側の反射を使ってる。高いと書けば上を見る。それだけだ」
人間が言葉を読むときの思い込み。犯人はそれを巧妙に利用して論点をずらしているのだという。
警察は犯人が提示した表面的なイメージに飛びつき、まんまと間違った方向へ走らされているのだ。
真の標的は言葉の裏に隠された全く別の場所にあり、それに気づかなければ絶対に答えには辿り着けない。
犯人はただ挑発しているのではなく、出題者としての確信を持ってこの緻密な罠を仕掛けている。
相馬は背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、この男の頭脳が必要だと認めざるを得なかった。
「あなたなら、この先にある本当の答えを見つけ出せるな」
相馬は黒瀬の目を真っ直ぐに見つめて問う。
黒瀬はしばらく黙り込み、自分の過去と現在の間に引かれた境界線を睨みつけるかのように深く俯いた。
彼は社会から降りて匿名の存在として生きることを望んでおり、再び表舞台の厄介事に巻き込まれることを極端に嫌っている。
だが、彼の前に提示されたこの精緻な出題は、かつて彼が身を置いていた遊戯の世界の本質を強烈に刺激していた。
黒瀬の脳内ではすでに、犯人が仕掛けた言葉のトリックを解体するための無数の仮説が生まれては消えている。
「仕掛けが分かれば、あとは拾うだけだ。行くぞ」
黒瀬は忌々しげに短く言い捨て、コートを掴んで立ち上がった。
二人は言葉少なに部屋を出て、冷たい風が吹く錆びついた鉄階段を降りていく。




