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試験終了後、リルアは死んだように深い眠りで一日を潰した。
十日間に渡る緊張期間。修行と思案、挑戦だらけの日々で湧いた疲労を消し去るようにぐっすりと。
そして大体一日後。まるで合格が夢であったとすら思えるほど、リルアは爽やかに起床した。
「起きてすぐに風呂へ入り、そして貪るように食いまくる。……獣か己は」
「んぐっ、仕方ない、仕方ないの。一日食べてなかったし、はむっ、ライの料理めっちゃ旨いんだもん」
リルアは呆れの表情を見せるライに目もくれず、テーブルに出された食事に没頭する。
皿に載ってるどれもが美味。鼻を擽る香ばしさが食欲をそそり、本当に一日分食べてしまえそう。
すぐに山を下りて店でも開いてほしいくらいな絶品の数々。ライの多彩さに心の片隅で感謝しつつ、そんなことよりと欲のままに食を貪り続ける。
「──ぷはぁ!! ごちそうさま。ほんっとに美味しかった!」
「はいどうも。合格記念、満足してもらえて何よりだよ」
大量の皿を洗うライに感謝を告げながら、側に置かれた布で口の周りを拭きながら食後の余韻に酔いしれるリルア。
あれほど感じていた空腹感はすっかり満足感へ、お腹ははち切れそうなほどの満腹感で満たされている。
これほど食べたのはいつ以来だろう。嗚呼、登山前に食べた梺の村の肉料理が懐かしい。
「ほら、食後の一杯」
「どうもー。……苦っ、いやちょうど良い?」
「調整草を煎じた茶だ。食い過ぎた胃と口にはこれが一番いい」
湯気が漂う容器を受け取り、ゆっくりと口を付け喉に流し込む。
一口目は突き抜けるような一瞬の苦み。そして次の一口は暖かな優しさのまろやかさが通り抜ける。
口内から胃へ優しく巡る暖かみ。
その間に通る全てを穏やかに整えられていく感覚。気のせいか、満腹特有の苦しさも減った気がした。
「さて。お前も落ち着いたところでそろそろ本題に入ろうか」
「……本題。そうだ、一応私の勝ちだし勇者様の場所教えてくれるんだよね!」
「もちろん教えるさ。お前が探して止まない魅の勇者。勇者トゥールの居所を」
ライの言葉を聞き、ようやく食べ物よりも優先すべきことを思い出すリルア。
勇者の居場所。それを知るために死ぬほど努力したのであって、豪華な食事のために十日を過ごしたわけじゃない。満腹だけでちょっと満足しかけていたのが恥ずかしくなる。
「そもそもあいつの居場所を教えない理由ってのは二つあってな? 単純にあいつが人に会いたくないってのと、そこが並の奴じゃあ辿り着けない場所だからなんだ」
「……辿り着けない? あの森の中央やら湖の底にでもいるんです?」
「うーん惜しい。残念ながら外れだが、発想自体は中々に悪くない」
リルアは思いついた場所を挙げてみるが、返答はそれを肯定するものではなかった。
「森で拾った直後のお前なら到達出来なかっただろう。だからこそ、呼吸の洗練が必要不可欠だったんだが」
「──もったいぶらずに教えてよ! あの人はどこにいるの!?」
回りくどい言い方にリルアは思わず机を叩いてしまい、鈍い音が部屋へ鳴り響く。
乾いた音が部屋へと響く。
ライは動じることなくそんなリルアを前に軽く頭を掻き、そのままの流れで人差し指を一本真上に立てる。
「……はっ? 空?」
「違うわ。そこだけ察し悪くならずともよろしい」
最初に連想した場所を口から漏らすも、ライは顔に手を当て呆れを見せるのみ。
ならばどこだ、どこにいる。勇者のいる場所とは、ライの指はどこを指しているというのだろうか。
「ったく、ここがどこだか忘れたか? お前は何を登って俺の元まで来ようとしたんだ?」
「……まさか」
「そういうこと。さ、落ち着いたところで準備しろ。続きはゴールしてからだ」
そこまでヒントを挙げられてようやく答えに辿り着くリルア。
そんな彼女に呆れのため息を吐きながら、ライは手を合わせて音を鳴らし、ゆっくりと立ち上がる。
「さあそろそろ出発するぞ。目指すはこの山の頂上。そこで勇者の真実がお前を待っているってわけさ」
ライは端正な顔に笑みを浮かべながら、覚悟を決めたかのように目的の場所を告げた。
肌を刺す冷気。雪積もりと氷に染められた白床。
緑や獣が失せてどれほど経ったか。周りが分厚い雲に覆われてから、果たしてどれくらい経過したか。
空の色で刻を判定することすら叶わない、終わらぬ吹雪が阻む山道。
そんな中を、リルアとライの二人は黙々とひたすらに歩き続けていた。
「……で、これどんだけ登るんすか。もう結構な時間進んでるよね」
「そう焦んなって。ペースは割と速い方だし、景色と高さの割に辛くはないだろ?」
「……それはまあ、確かに」
「それが呼吸を洗練させるってことだ。空気は俺の生活域である中腹より更に薄く、魔力の濃さも約二倍。俺と出会う前のお前なら、例え聖樹の葉があったとしてもとっくに力尽きてるだろうさ」
言われてみて、確かに疲労は驚く程に少ないと気付くリルア。
そもそもがスタート地点が高い山の中。正確な標高はわからないが、歩数相応の高さには到達しているはず。
それなのに足が重くなることはなく、むしろそこらで走った程度の疲労にしか感じていない。獣や魔物の襲来が少ないとはいえ、最初に死にかけた時の方が遙かに辛かった。
「カルボ山の標高は約七千と五百メル。ただそれは計測した時代の資料に基づいた記録で、正確な高さは俺だって知らない。だからここがどのくらいだってのは答えられんな」
「七千五百……。たっか……」
「だがまあ、今はおおよそ九合目ってところか。最短経路で進んでるし、もうすぐこの雲も晴れるだろうよ」
ライは少し考えてそう答える。
こんな場所にも関わらず、まるでここがどこかわかっているかのように迷いなく。
「……なんか根拠。気休めちょうだい」
「地面を見てみろ。ほのかに魔力を帯びているだろ? それが先人が残した道、この暗闇に敷かれた唯一の道しるべってわけだ」
もらったゴーグル越しに目を凝らせば、小さな魔力の点が道を形成するように繋がっているのがわかる。
以前の自分なら言われても気づけなかったであろう微弱な魔力。ライが迷いなく進めていたのはこの点を辿っていたからか。
「はぐれたら一巻の終わりだぞ。順路から逸れればここいらに住む怪物共の領域に踏み込んじまう。独自の進化を遂げた固有種共。数こそ少ないが、俺ですら手を焼く連中ばっかりだ」
「……ひえー」
「そして根拠ならもう一つ。さっき小さな灯りを通り過ぎただろ? あれは俺が目安として設置した不沈の灯火で、その光の色で大体の見当を付けてるってのがタネってわけだな」
「……へー」
ライの話の聞き、何度か通り過ぎた地面に刺さった杖。そこに掛けられていたカンテラの存在を思い出す。
……成程、合点がいった。時々見かけた光はそういうことだったのか。
正直何であるんだろうとは思ってたが、まあ誰かの忘れ物だろうと気楽に受け止めてしまっていた。
「そら、話をすればそろそろだ。風が変わった」
会話が途切れてしばらく後、ライはふとそんなことをリルアに伝えてくる。
風が違う。そんなことを言われても、生憎リルアにその微々たる変化など掴めやしない。どんな鋭利な感覚を持っていればそんなことがわかるのだろうか。
……まあそんなことは今考えなくてもいい。どうせ頂上に着けば解決することだ。
彼は話すと言ってくれたんだし、そこで聞けないのなら自分から質問してみればいいだけのことだ。
それからいくらか経ち、段々と空の色が変化し少しずつ明るくなってくる。
心なしか吹く風も暖かさが宿っている気がしなくもない。少なくともライの言うとおり、過酷な吹雪地帯を抜けようとしているのは事実だとリルアも少しは安堵する。
少しずつ、少しずつだがリルアの鼓動が大きくなり、心なしか浮き足立つ。
過酷な登山による疲労か。それとも緊張か。──或いは待ち受けるものへの興味による興奮か。
きっとそれら全て、それ以上に様々な想いの凝縮であろう。
何せこの雲の先に、この闇の奥に、リルアが待ち望むものがあると彼は言ったのだ。ならば、どんなものであろうと平静でなんていられない。
──さあ、速く晴れろ空。この過酷な山の最果てよ。私に答えを見せてくれ。
進む、進む。逸る気持ちを燃料へ変え、ひたむきに歩むリルア。
そしてついに、分厚かった雲の壁は終わりを告げる。無限に続いた白の壁は失せる。
雲一つない青の空が、そしてそれ以上に目を惹く建物が、彼女の願いに応えるよう姿を現したのだ。
「うそっ。なにあれ……」
遙か彼方──世界の果てである虚ろの溝や、世界の中心とされる正体不明の塔すら見通せる高所。
エーデラークで三指に入る大山。その頂にあるものがそれだけならば、驚きはすれど何ら違和感ない絶景であろう。
だがあれは違う。
それは自然の中に、遙かなる山の高みにあるなどとは予想出来ないもの。
まるで雲と雪がそう固められたかのような、或いは真っ白な大理石のみで築かれた純白の崩れた城は、紛れもなく誰かの手によって創られた形に他ならない。。
……神殿。そう、神殿だ。
遙か昔に造られたであろう神秘。その成れの果てが、目の前には聳え立っていたのだ。
「あれが何でどういう目的で建てられたのか、その名称を含め俺も知らん。わかるのは原初の勇者が存在したとされる遠き過去──唯女神時代の数少ない遺物だってことくらいだ」
「メラミス……」
隣に並ぶライの説明を聞いても、そこまで学のないリルアにはピンと来ない。
それでも、そんな無知な自分でも、あの建物が理解出来る。
どれほど朽ちようと、あれはただの廃墟ではない代物であると。ただそこにあるだけで未だ測りきれぬ、計り知れぬほどの価値を持つ何かであろうことを。
──そして同時に。覚えのない懐かしさすら過ぎったことも嘘ではないのだろう。
「ほら進むぞ。目的地はあの中だ」
眼前にある建造物の迫力に魅入り、気圧されていたリルア。
そんな彼女の背をライは押すように叩き、再び変わりのない速度で先へ進み出す。
ライの背を歩きながら、近づくごとに増す既視感が、ルアの胸をざわつかせる。
教会や神が縁の地に訪れたときに感じたものに近く、それでいてまったく異なるもの。
まるで故郷に、そんな場所はないけれど、両親の待つ家に帰宅したかのよう。……こんな場所、来たことは愚か、今日初めて存在を知ったくらい無関係な場所であるはずなのに。
罅の入った階段の前に立ち止まり、大きく息を吸ってからゆっくりと踏み入れる。
通路に置かれる数多の像。それはまるで、生き物をそのまま固めたかのよう。
羽を広げる大きく勇猛な大鳥。
頭に棘を乗せた三つ叉の大蛇。
寸分の狂いも乱れのない完璧な女体。その他諸々。
それら全ては今にも躍動しそうなほど精巧。
けれども微塵も動くことはなく、ただそこにあるのが至高とも思えてしまうほど命の熱を持たず、あるがままそこに鎮座するのみ。
「……ん?」
「どうした?」
「いや、何かに見られたような気がしたんだけど」
「気のせいだろ。こんなところに人がいたらおれもびっくり仰天だわ」
……だから気のせいだろう。今一瞬、そのどれかに鋭い視線で射貫かれたような気がしたのは。
咄嗟に腰の愛剣へ伸ばしかけた手を引っ込め、警戒しながらも再度歩みを再開する。
「あれだ。あれこそが今日の目的。そして語るべき真実を裏付ける、唯一絶対のの証明だ」
少し進み、神殿の最奥に辿り着きかけた時、ライはある物を指差しながらそう言う。
彼の指先が示したのは剣。刃の半分が地面に刺さる、一本の鞘なしの剣だった。
「剣……なんでこんなところに? これも古代の……?」
「違う。あれは俺が刺した。この場所で唯一の俺の物だ」
この白色の神殿で唯一明確な色を持つ異端。
刃こぼれ一つない銀刃は陽の光に照らされ、柄に埋まる小さな透明の宝石が煌めいている。
だがわかる。胸が一層ざわついて仕方ない。
あれは決して、そんな稚拙な言葉で言い表していい物じゃない。優れた剣の一言で測れないほど価値のある、取るべき者のみが握るべき剣。……それこそ、勇者のために存在する物だ。
「剣の銘はエクシール。聖剣とはこの世に六本のみとされた、勇者のみが担える神秘。そしてあれは、かつて容姿と救済を以て人に希望を与えた“魅の勇者”が使った一振りだ」
「勇者様の……剣……」
「もう隠す意味もない。全て話そうリルア。お前になら」
勇者トゥールの愛剣。厄災を討ち滅ぼし、世界を救ったあの人の剣。
そんな武器を前にして立ち止まるリルアをよそに、ライはゆっくりと聖剣の元へ近づいていく。
厚手の手袋越しに彼の指が柄を撫でる。勇者の私物だというそれを、あたかも自らの物のように。
「俺の名はライ。カルボ山に住む隠居人。だがそれは、戦いの最中に名乗った名ではない」
「──まさか、まさかッ!!」
「では改めて。我が名はトゥール。かつて世界を滅ぼさんと人の世を襲った煉魔王。黒き厄災を討ち果たし、役割を終え世を離れた勇者。その張本人さ」