十六話 俺は柚月のことが
これが『恋スク』のメインヒロイン・白姫柚月の抱えていたものだった。
転校生という目立つ立場に加えて、人目を惹くほどの美貌。
男子と少し親しくすれば、「色目を使った」「横取りした」と女子に陰口を叩かれる。
告白を断れば、「期待させた」「騙された」と逆恨みされる。
——私の何を知っているの。
ゲームで語られたその一言が、今でも強く印象に残っている。
そんな出来事を繰り返すうちに、柚月は誰からも嫌われないように振る舞い、誰にも深く踏み込ませない生き方を選んだ。
けれど、それはあくまでゲームの中で語られていた設定にすぎない。
今、目の前にいる柚月は、誰にも本音を打ち明けられず、一人で苦しんでいるように見えた。
「でも、まさか桜庭くんに見つかっちゃうなんて……ね」
柚月は、いつもの笑顔を浮かべた。
「この学園に、ほかにも一人になれる場所はあるのかしら」
冗談めかした口調だった。
けれど、きっと今は、唯一ありのままでいられたこの場所さえ、失ってしまったような気持ちなのだろう。
誰にも見せたくなかった姿を見られたことで、これからは学園にいる間、どこにいても気を抜けなくなるかもしれない。
本来なら、ここで主人公は——。
『俺の前では、完璧な柚月じゃなくてもいい。どんな柚月を見たって、俺は嫌いにならないから』
確か、そんな言葉をかける。
その一言をきっかけに、柚月は少しずつ主人公へ心を開いていく。
そして、この外階段の踊り場は主人公と柚月にとって特別な場所になる。
だが、その言葉はほとんど告白と変わらない。
それは、柚月ルートを進めるための言葉だ。
今の俺にとって大切なのは、この場を手早く終わらせ、余計なフラグを立てないこと。
だからといって、目の前で苦しんでいる柚月に、何も言わず立ち去ることもできなかった。
「いつもの柚月も、さっきの柚月も、どっちも本当の柚月なんじゃないか?」
「……何を言っているの?」
「もう少し肩の力を抜いてさ。思ったことを、そのまま口にしてもいいんじゃないか」
「そんな勝手なこと、言わないで」
柚月の水色の瞳が、鋭く揺れた。
……ゲームでは、こんな反応はなかった。
俺は、柚月がこれまでどんな経験をしてきたのか、ゲームの知識でしか知らない。
それでも、一人の友人として、少しでも柚月の苦しみを軽くしたかった。
「……ごめん。
でも、素の自分を見せたからって、離れていかない人だっている。少なくとも華憐や凪なら、そんなことで柚月を避けたりしないさ」
「本当にそうかしらね」
「え?」
「私が桜庭くんのことを好きだと言っても、二人は今まで通りに私と仲良くしてくれると思う?」
柚月が一歩、また一歩とこちらへ近づいた。
「おい……な、何を言ってるんだ」
気づけば、互いの吐息が触れそうなほど距離が縮まっていた。
俺の鼓動が大きく跳ねる。
こんな台詞も、こんなシーンもゲームにはないぞ。
それに柚月は、過去の経験から、特に男子には勘違いさせるような態度を絶対に取らない。
「きっと、そうは思わないわ」
柚月は俺を見上げながら、さらに半歩近づく。
「取られたって……横取りされたって、きっとそう思うはずよ」
「そんなことは……」
「それなら、桜庭くんは華憐や凪が見ている前でも、こうしていられる?」
柚月は俺との間に残っていた最後の一段を上がると、ゆっくり両腕を腰へ回した。
「白姫さん……離れてくれ」
「どうして?」
「どうしてって……」
揺れる水色の瞳が、間近から俺を見つめている。
制服越しに伝わる体温。
鼻先をくすぐる、ほのかに甘い香り。
下から見上げる柚月が、たまらなく愛おしく見えた。
このまま強く抱きしめたい。
この子を、誰にも渡したくない。
俺だけのものにしてしまいたい。
そんな欲望が、熱に浮かされたように胸の奥から次々と湧き上がってくる。
違う。
こんなのは俺の本当の気持ちじゃない。
俺は、こんなことを望んでいなかったはずだ。
「桜庭くんは……私のこと、どう思ってるの?」
柚月が、甘く掠れるような声で囁いた。
「俺は……」
柚月の想いに答えなきゃ。
そんな考えが頭の中を埋め尽くしていく。
そして、ひとつの言葉が浮かんだ。
『俺は何があっても、柚月のそばにいる』
そう言ってしまえ。
その言葉を口にすれば、柚月はお前のものになる。
——学園一の美少女が、お前だけを見てくれる。
やめろ……
——約束された幸せが待っている。
やめてくれ……
甘い誘惑が、頭の奥で何度も繰り返される。
それは主人公が柚月ルートへ進むための言葉だ。
俺が望んでいるのは、詠子と——。
そう思ったはずなのに、柚月の甘い香りを吸い込むたび、意識がぼんやりと霞んでいく。
息が荒くなり、体温が上がっていく。
「ああ……俺は——」
違う。
言うな。
「何があっても……」
止まれ。
こんな言葉、俺は望んでいない。
「柚月のそばにいる」
口からこぼれたのは、俺が最も避けようとしていた、柚月ルートの決められた台詞だった。
その言葉に、柚月の瞳が大きく揺れた。
そして、俺の腰に回されていた腕から、ふっと力が抜ける。
まるで、求めていた答えを聞いて満足したかのように。




