「陽の当たらない場所」1
『吸血鬼は、吸血対象の遺伝子情報、存在そのものの組成を取り込み、自己進化を繰り返す。それにより、際限のない進化を続けた吸血鬼たちは、いつからか、不老不死を実現するに至った』──『魔界読本』より
─◇◆◇─
──山の中を、一人の少年が駆けている。黒い髪に、蒼い目をした、端正な顔立ちの少年だ。その容姿は西洋人のようである。
地面を蹴り、木に捕まり、振り子運動のような調子で大きく前に跳ぶ。跳躍と着地。前者は見事なものだったが、後者は粗末なものでしかなかった。ほとんど墜落するように、彼は地面に全身を打ち付けた。
だが、彼の体には打撲痕も、擦過傷もない。色白の、どちらかと言えば病弱なその体には、どこにも欠けた部分がなかった。
──と、ふと。少年は咳き込んだ。
反射的に、彼は手で口を押さえる。そして、掌を見、しかめ面をした。
その掌には、赤黒い血がこびりついていたからだ。喀血だ。通常それは臓器に何らかの異常がある者にのみ起こるものだが、少年はそうではなかった。
少年の異常は、その霊体そのものにあるのだ。
少年は再び走り出した。まるで停止を恐れているかのような調子だった。
駆ける、駆ける。四つ足の獣のような走力で、どこまでも。
──と、ふと。少年は疾駆を止め、大きく横っ飛びした。
少年が跳躍先に着地すると同時。さっきまで彼が立っていた地点に、光の粒子が収束し、その光の中から、一人の女が現れた。
それは赤い髪をハーフアップに束ねた、切れ長の目の女だった。歳は非常に若く見えるが、若手特有の浅薄さはその立ち振る舞いからは一切感じられない。
その手には、何やら古ぼけた本が握られている。
「ようやく見つけたわ、吸血鬼」
開口一番、彼女はそう言った。
「だ、誰だ、あんた」
少年が訊く。それに彼女は、
「仄宮楓。天下の吸血鬼様には、なじみのない名前かしら?」
「い、いや、あんたらのことは知ってる。仄宮家。この国の名家の人間だろう」
「まあね。……私には、関係のない話だけれど」
言い、女は手も触れずに本を展開した。
「おれはベゴニアだ。まあ、あなたは知っているだろうな。この体を欲しがってるのが同胞だけじゃないことくらい、察しがつく」
「察しが良くて助かるわ、ベゴニア。さて、じゃあ手短に要件だけを。──私に協力してくれない?」
その口調は一方的だった。声には自信が満ちあふれており、断られることなど一切考慮していないかのようだ。
「ああ、構わない。どうせ行く場所などない」
「本当に話が早いのね」
「ああ。急がなければ、奴らが来てしまう」
「……同胞か。確かに、厄介な相手ではある──」
言いつつ、楓は手元の本に視線を落とした。
そして、一旦閉口した後に、演説でもするように、言う。
「14万円、使用」
しかし、何も起きなかった。本は光っているが、それだけだ。
「ちっ。不足か」
楓はそれを確認するや、直ぐにロングコートのポケットから厚い封筒を取り出し、本に突っ込んだ。すると、その厚みがゼロになった状態で、封筒だけが本から放り出されてきた。
「これで大丈夫でしょう。14万円、使用」
今度の宣言は、上手くいったようだった。楓とベゴニアは光の粒に包まれ、その粒が霧散する頃には、もうその場所には居なかった。
数秒後。その場所に、目深にフードを被った集団が到着した。
「──おかしい。臭いはここで途切れている」
「魔術か? だが、瞬間移動の使い手は本土だろうと数えるほどしかいない筈だ」
「待て、心当たりがある。確か日本には、仄宮家があった。奴らなら可能だろう」
「──ちっ、守銭奴どもが。由々しき事態だぞ、これは」
「そう苛つくこともない。連中で出来ることなどたかが知れている。ゆるりと攻めていこう。我々は誇り高き種族だ」
その会話には配慮というものが、一切欠落していた。むき出しの自尊心と差別意識が、そのまま音として放たれているのだ。それは先刻の楓の物言いなどとは、比べものにならないものだった。
都内、某所。
その場所は、傍目からはただのビルにしか見えない建物の内部にあった。
巨大なドーム状の研究施設──聖堂のような趣のある建築物だ。空間を拡張する魔術により、建物内部に構築されているのだ。
そこでは、何人もの研究者が計器と向き合っていた。そこに表示されているのはどれもルーン文字などの魔術言語だ。
魔術研究所。そこはそう呼ばれる施設だった。
長い歴史の中で、魔術は科学との融合を果たしていた。
「ようこそ、魔術結社“レーテ”へ。早速で悪いけど、あそこに腰掛けてくれる?」
言い、楓は手に持った本で、ドームの中央部を指さした。そこには一つの椅子が置いてあった。玉座のような造形のその椅子には無数のコードが繋がれており、椅子が安置されている床には、無数の幾何学模様と魔術言語が刻まれていた。
「解析をするってわけか。随分と用意がいいな、しかし──」
そこで、少年は咳き込んだ。今度は手を押さえるのが間に合わず、血が地面についてしまう。
異常は、その瞬間に起きた。
ドーム全体が赤い光に包まれたのだ。それは警告だった。
『異常発生、異常発生。魔術僻地内の浄化魔術式に甚大な損傷が確認されました。レーテ維持のため、術式の再構築を開始します』
生物の血には、「穢れ」がある。
魔術においてその穢れは、その発動を阻害する危険なものであると認識されている。
そのため、全ての魔術研究所には浄化の術式が付与されており、並大抵の生物の血液であれば直ぐに排除できるのだが──吸血鬼の血液は例外だ。
先刻の警告音は、まだ鳴り響いている。再構築が追いついていないのだ。
次第に、警告音も、電池残量の少ないおもちゃのように、歪んだ音になっていく──施設そのものが限界なのは明白だった。
「やむを得ない──60万円使用!」
ほとんど金切り声のような調子で楓は叫んだ。その時にはもう、彼女の手の本は開いている。
本が光り、魔術が行使される。それにより、地面の血は完全に消滅した。
「すまない……」
「対策が必要ね……流石に何度もやられちゃたまらないわ」
そう言って、彼女はため息をついた。
「しかし、あなたの魔術は、金銭を消費しているんだな」
「……仄宮家のことは知ってるのに、久宝魔術のことは知らないのね」
「情報は統制されていたからな。魔術のことはほとんど教わっていない」
「……なかなかにハードね」
「そうでもないさ」
言い、ベゴニアは椅子に腰掛けた。
それを確認すると、彼女もまた、空気を魔術で固め、そこに座り、口を開いた。
「さて。それじゃ、あなたの話をしてもらおうかしら。
世界で唯一、「死」を捨てきれなかった究極生物。それがいかにして生まれたのか──その秘密と略歴を」




