このエピローグには些細な問題があります
山道を車が降っている。
夕刻を過ぎた山道は明かりもなく風景はまるで見えない。やはり運転手は気が利かない男でバラードばかりが繰り返し流れてくる。こんなとき自分で運転ができればと思うが、私――一条院楓はすでに死者であるため永遠に運転することはできない。ゆえに、ここからのわずかな話は私からの最後のサービスである。
助手席で町田紅葉が諦めを溜息を変換して吐き出す。そして、彼女はこの道の先にあるものを想像する。
おおよそ良いことはないだろうが、いまよりはマシだろうという予感があるのか紅葉の機嫌は悪くない。さきほどまでの緊張感が溶けて凝固していた油分が液化しているのかもしれない。紅葉は自らの額に手を当ててみる。熱はないと思うが自分からは分からないと彼女は苦い顔をした。
「お嬢さんは不機嫌のようですね」
運転手の男が往路と変わらぬ言葉を言った。紅葉は車のミラーで顔を一瞬だけ確認して「いいえ、そんなことないわ」と瞬時につくった笑顔で応じた。ただし、このときの笑顔は本心から不機嫌だった。一瞬でそれまでの蕩けたバターのような気持は冷め切っている。
「先生、私はとても不幸だと思うの」
先生と呼ばれた男が「君はどうして不幸なのかな?」と気取った言い方で尋ねる。その言い方があまりに即席の作り物のようで紅葉は指を三本立てた。
「一つは、卒業生にまた制服を着させて高校に通わせる変態教師に出会ってしまったこと」
「それは、随分な教師に出くわしたものだね。きっとかわりに良いことがあるよ」
男はそれがまるで別の世界の話であるようにのんびりとした声で答える。これが真っ暗な山道ではなくうららかな日差しの平原であればそれが似合ったに違いないが、この場では場違いなだけである。紅葉は指を一本たたむ。
「二つはこんなにも私は頑張っているのに誰も褒めてくれないこと」
「委員長ちゃんは頑張ってるよ。とても頑張ってくれてる。すごいなぁ」
文字数に対して情報量のない誉め言葉がヘリウムガスのような軽さで浮かび上がる。球場を飛び交うロケット風船でさえもっと重みがあるに違いないが、この車内ではもっと軽いものがあるらしい。くたびれたような緩慢さで紅葉がもう一本の指を曲げる。
「最後は仕事とはいえ手首を切ってこれからは真夏でも長袖しか着れなくなってしまったこと」
紅葉は最後の指を閉じるとそのまま手首に視線を向ける。そこには真横に真っすぐのびた真新しい傷があった。一条院楓が死んだときに布団や衣類にまき散らされた血はすべてここから流れたものだ。
「大丈夫大丈夫。委員長ちゃんなら半袖だろうがノースリーブでも着こなせるよ」
「それにそんな血がない状態で麓まで強制下山を命じられた挙句に、警察や共同体への連絡をさせられ、しまいには意味もなく炒飯と餃子を用意させられたんですよ。ちょー不幸だと思いませんか?」
「そうだねー。ちょー不幸だね」
軽い言葉しか吐き出さない男の頭に紅葉の手が振り下ろされて、車が左右に揺れる。
「先生、安全運転してもらえます? 私、先生と心中とか嫌ですよ。ただでさえこの手首の傷でメンヘラっぽい感じなのに。新聞で高校教師。元教え子と転落死。禁断の関係の果てかとか書かれるの嫌ですからね」
「ええー、俺は教え子に手を出したことなんて一度もないけど?」
「嘘ばかりですね。私なんか先生に手を出されたせいで人生狂いまくりですよ。もうクルクルまわってどちらが上か下か分からなくなってますよね」
「人聞きが悪い。委員長ちゃんが共同体の仕掛けた事件を解決しちゃったせいなんだから。おかげでこっちは大損害。ひどい負債だよ」
「その負債が全部私に請求されてるのにですか?」
「だから、責任をとって仕事を斡旋しているじゃないか」
紅葉が無言でもう一度、男を殴りつける。
「――もう、疲れました。もう寝るので私に手を出さないでくださいね」
「ええ、おしゃべりしようよ。夜道って眠たくなるんだよ」
「なら、楽しい話をしてください」
「そうだなぁ……。金持ち学校のドロドロの三角関係を解決した学級委員長の話とかどうかな?」
「おやすみなさい」
紅葉は運転席とは逆のほうに顔を背ける。窓ガラスの向こうはまっくらで見えない。かわりに運転席の男が見える。速度計のわずかな明かりに照らされた男は笑ってはいなかった。紅葉は思った。ずっとそういう顔をしていればいいのに。
さて、これでこの話は終わりである。悪役令嬢――一条院楓の役割はもう終わったのだ。
もし、私に似た誰かに会ったならまずは疑ってほしい。
なにを? それは悪役令嬢をである。
無事完結いたしました
ありがとうございます。




