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Ultima ratio - 9

「……冥?」


 眼前まで伸ばされたのたうつ触手。

 有を貫くはずだったそれが、冥が身を盾にしたことで間一髪届かずに済んだ。

 しかし、その代償は――


「冥!」


 頭が理解するより先に、触手を引き抜かれ幽かな笑顔を浮かべてくずおれた冥に駆け寄り、その身体を抱き上げた。


『―――』


 立ち上がった怪物の不快な叫びが木霊する。その向かって右側の頭に、ぎょろりと蠢く目が開いていた。


「よかっ、た……無事で」


 口角から血を流しながら、有の無事を確認して冥は微笑む。

 いつの間にか法衣は見慣れた制服に戻り、じわりと赤黒い染みが広がっていく。

 背中まで貫かれた傷は人間なら致命傷で、それでもまだ冥の意識があるのは彼女が悪魔であるからか。


「待ってろよ……今、回復させて――っ」


 再び眩暈に襲われ、冥の輪郭がぼやける。

 集中力が保たず、どころか持っていたDSが滑り落ちた。


「ケッ……大口叩いてこれで終わりかよ。呆気ねェ」


 氷室の興醒めした声が頭の中で反響する。

 その使い魔【名を秘すべき虚影の獣】は本体である【扇動者】を斬り伏せたことで、活動を停止したはず。なのになぜ、何事もなかったかのように立ち上がっているのか。


(……あぁ、くそっ。そういうことかよ)


 靄のかかった頭に氷室の言葉が思い出された。


――だからこう願ってたのさ! 『影のように後ろから、凡百を支配する男になりてェ』ってな!


 つまり、【扇動者】という使い魔の正体は――


「気付きましたか。えぇ、私の使い魔の真の権能は、他の悪魔に寄生してその力を強化し、人格はそのままに方向性を支配するものです。君たちが本体だと思っていたのもそうした傀儡に過ぎず、今はまた別の悪魔を統率個体に押し上げました」

『――力が――溢れる。素晴ら――しい、感触――だ』


 翅虫の羽音じみた声はそのままに、話し方が深く落ち着いたものに変化している。まるで別人ような変わり様が、氷室の言葉を肯定している。


「では、記念すべき最初の命令です。――あいつらを殺せ」

『あい――わかった』


 緩慢に歩み寄った怪物の、丸太のごとき腕が振るわれる。満身創痍の有たちはなすすべもなく紙切れのように吹き飛ばされた。


(ここで終わり……なのか?)


 宙を舞う有。その目に少しでも庇おうと抱き締めた冥と、気を失ったビトの姿が映る。


(こんなところで……あんなやつ、なんかに……!)


 認められない。認めてなるものか。

 身体中の血液が沸騰したかのような、怒りを交えた気迫が全身を 駆け巡る。

 その意志に反応するかのように、同じく吹き飛ばされたDSの画面が輝きを帯びる。


(頼む! 誰でもいいから、力を貸してくれ……!)


 骨と筋肉が軋みを上げる。それでも伸ばした腕は、しっかりとDSを掴み取り――




「――ッ!」


 気が付けば、有は一人でどことも知れぬ場所に立っていた。

 どこまで見渡しても黒一色の空間に独り。使い魔たちも氷室たちもどこにも見当たらない。

 しばらく視線をさ迷わせていると、目の前に炎で描かれた巨大な魔法陣が出現した。


「これは……」


 縦に長い鉄十字を中心に据えた左右対称な図案を囲う、MARCHOSIASという文字列。


「マルコ……シアス……?」


 それを読み上げると、炎は一層強く燃え盛った。


――我を喚ぶのは卿なりや?


 どこまでも深い男声が響き渡る。

 それに誘われるように炎が吹き上がり、そしてすぐに再び足首に届くか程度にまで勢いを弱める。

 そして、陣の中心に。

 三メートルを越える巨体を煌々と輝く赤銀色の全身鎧に包んだ騎士が、堂々と佇立していた。


『ふむ……良い目をしている。それにこれは、我が眷族の気配か』


 騎士が狼を模した兜の顎に手を当てる。


「貴方、は……」


 その冥以上の存在感に圧倒されながらも有が尋ねる。


『――【誠真なる騎狼の統者(マルコシアス)】、魔術王の従者、第三五位である』

「魔術王……まさか、本物の【ソロモン七二柱(ゲーティア)】……?」

『然り』


 頷く騎士。その眼光が有を射抜く。

【ソロモン七二柱】――それは古代イスラエルの王ソロモンが従えたという伝説の使い魔たち。

 各々が悪魔を従えた軍勢を率いる大将軍であり、現在の使い魔とは比べ物にならない超越者であった――かつて愛美がそう話していたことを思い出す。


『して、卿は何を求め、何を望み、我を喚び出した?』


 伝説にある最上級魔神の問いかけに、有は。


「……お願いです。力を貸してください」


 敬意と礼を以て、深々と頭を下げた。


『その理由は?』

「それは――」


 あの怪物とその主人の暴虐を止めるために。

 そう言おうとして、しかし口を突いて出たのは別の言葉だった。


「――守りたい人たちを、今の俺には守る力がないから……です」


 四年間、ともに歩んできた白狼を。

 同じ学校で学ぶ仲間たちを。

 そして、まだ出会って一週間にもならないけれど、いつも真っ直ぐな女の子を、守りたいと願うから負けられない。

 その答えに、騎士の姿をした魔神は。


『……合格だ、少年』


 満足げに、その目を愉快そうに細めて頷いた。


『ただ怒りに身を任せるのでなく、なぜ怒るのかを識り、己が本質を見誤らない。なるほど我が眷族の主に相応しい』

「……えっと。その、眷族っていうのは……」

『卿が願い育てた氷の魔狼だ。我は炎で卿の使い魔は氷と、違いはあるがな』


 腰に下げた剣を引き抜く【誠真なる騎狼の統者】。

 その切先が有に向けられた。


『我が基幹願望は『常に正しき道を望む』。なればこそ、卿の誠意に応えぬ道理なし』


 目を逸らさずに偉大な騎士を見上げる有。その左胸に剣の切先が軽く押し当てられた。


『他者にとっての導きの星でありたいと願う少年よ。我が炎を卿に預けよう。その代償は――』

「……代償は?」


 それが何であっても受け入れようと決意を固めて。


『――そうだな。卿の魔狼に我が存在の一端を混ぜることで、今後その願いの一部を受け取ろう』

「それは……」

『察しの通りだ。卿の使い魔は変質し、以前とまったく異なる存在になるやも知れぬ。今と変わらぬままかも知れぬ。主人として、その覚悟があるか?』

「……わかりました」


 半呼吸ほどの逡巡もなく、有は首を縦に振った。

 たとえ変わってしまったとしても、その程度で最高の相棒を見限るほど、自分たちの絆は薄っぺらではないという誇りにかけて。


『くくっ、なるほど。卿のその純粋な願いを味わうのが楽しみになってきた。それに、あの大公閣下に恩を売るのも悪くあるまい』

「大公閣下?」

『卿のもう一人の使い魔、その父だ。では、いくぞ』


 肩を僅かに震わせて、剣を握る手に力を込める。

 すると、刀身に紅蓮の炎が沸き上がる。


「っ――!」


 突然のことに身を竦める有。しかし炎は毛一本も焼くことなく、有の胸に吸い込まれていった。

 程よい熱が全身に伝播し、活力に満ちていく。


『さぁ、迷いは不要! その意志に星を抱く者よ! 己が望む道を征くがいい!』


 剣を天へと掲げ、雷鳴のように騎士が吼えた。


――Alea(ただ前へ) iacta(とひた) est(走れ)!


 その激励のような言葉に包まれて、有の視界はぼやけていった。

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