10-2
長いバー・カウンター。原色できらびやかな照明。心臓の鼓動を凌ぐ重低音。音源の中心部では会話もままならない、早いテンポのダンス・ミュージック。
繁盛期に比べれば、物足りないほどの客の数。
『ストーン・ベイ』の夜は、これから始まるのだ。騎道たちは早く出向きすぎた。
客のまばらな、暗がりの多いスポット照明のカウンターは、二人にはおあつらえむき。低い会話が通るほど、音楽が押えられているのも、彼等だけでなく、影を一つにするほど親密な恋人たちには都合がよかった。
「だめよ。全部終わってからって、自分で言ったわ」
「……。ケリを付ける前にって言えばよかった」
未練がましく、騎道は言い訳した。キスの代わりに、彩子の髪に頬を触れさせる。
「自信があるのね。そうね、騎道は強いから」
騎道は頭を振って、カウンターに腕を乗せた。
「そうとはいえない……。何が起きるか、まるで予測がつかない。このまま、逃げ出したい気分だ」
カウンターの騎道の手に、彩子は掌を重ねた。
「いいよ。どこにでも、付いていく」
TVドラマみたいにセリフが、さらって言えてしまう自分が、彩子は不思議だった。反面、本当にそんな気持ちに、人間ってなるものなのねと、自分の感情を素直に認めた。
「別人みたいだね。君は僕の言うことは何でも逆らわない」
「騎道だってそうよ。私の言いなりだわ」
「仕方ないよ。君には勝てない。
……ずっと、君の顔を見ていたい」
彩子は頭を振った。
「いくらでも時間はできるよ。全部、終わったら」
「今がいい。……。先が見えないから、今」
「君が弱気になったら、私が支えるわ。
平手打ちなら得意よ?」
「そういえば、随分貰ってない。これって、いいことなのかな」
「なら、試してみる?」
手を上げる代わりに、彩子は騎道の肩に頭を押し付けた。
「騎道って無敵なの?」
「まさか。勝てないものは沢山あるよ」
「代行はその筆頭ね」
「彩子さんだよ、一番は」
「騎道って、優しくしてくれる女の人全部に弱いんじゃない?」
一瞬、本当のことなので、騎道は言葉に詰まった。
すかさず、彩子は騎道の弱みにつけこんだ。
「騎道のことを教えて?」
少しためらった騎道は、冷えたグレープ・フルーツジュースを一口飲んだ。習って、彩子は同じグラスを手にした。
「僕らは時間を越える」
「騎道はきっと、その人たちの中でも重要な人なのね」
「さあ。後ろを振り返る余裕はないから、どんな評価があるのか知りようがないけど。
すべてがうまくいっているとは思わない」
「でも、騎道の助けを待っている人がいるんでしょう?」
「僕じゃなくても、誰かが状況を変えることができる。世の中はそんなものだ。スペアはかならず存在する」
「そんなことないよ。
騎道じゃなければだめな人はいるはずだわ」
「まだ逢わずにいる人のことなんて考えられないよ。
今で精一杯だ」
「今までに、別れてきた人のことは?」
「……沢山居るね」
「覚えている? その人たち全部を」
「……。彩子さんは僕からどんな答えが聞きたいの?
君が喜びそうな嘘を言うことも、僕にはできるのに」
彩子はグラスを置いて、騎道を真っ直ぐに見た。
「騎道は私に、嘘はつかないでしょ?」
困ったように頭を振って、しばらく考えてから、騎道はうなずいた。
「この闘いに負けたらどうなるの?」
「負けたりしない」
「教えて。負けたなら何が起きるの?」
すべてを知りたがる彩子。肩に腕を回し、騎道は引き寄せた。
「君はいなくなる。白楼后が君の心を追いやって、君の体を支配するだろう」
「私が欲しいのね」
「その後は、見当が付かない。
彼女の本当の望みが何なのか。肉体を手に入れて、彼女の恋人を探すのか。あるいは、過去の魂を招くのか」
「……騎道は後悔する?」
うなずく。
「騎道のせいじゃないのに」
「僕の責任だよ。僕は君を守ると約束した」
「責任なんて感じなくていい。私……」
「そんなことは起こらない。だから考える必要なんてない」
「騎道……?」
「僕が信じられない? ……僕はもう嘘は言わない」
「騎道君……。営業妨害だよ。君たちを見て、女性客が帰っていくんだ……」
あまりにも似合いの二人すぎて……。
ストーン・ベイのチーフ・マネージャーとして、暗に仄めかしたつもりだった。カウンターを挟み、さりげなく彩子のグラスを取替えながら、滝川は二人に声をかけた。
「そうですか? マサキさんに感謝しなくちゃ。マサキさんのコーディネイトのお陰ですね」
まあ、それもある。丹精込めて、今夜のマサキが選んだ服は。騎道の方は、普段に比べれば地味なくらいのグレイのスーツ。しなやかで光沢のある生地が、薄い暗がりでは鈍く銀色に縁取られる。
騎道が銀なら、彩子は暗闇の中に立ち上るような真紅。
紅いワンピースの裾の短いサテン・ドレスに、黒のボレロ。オレンジがかった赤のシルクの手袋。
「……そういう意味じゃなくてね……。その……」
頬を摺り寄せるようにして、二人が滝川を見上げる。
「彩子さんとは、もう離れられないんです」
……。滝川は細い眉を寄せた。
「最近の高校生は進んでいると、覚悟はしていたんだが。
君にそこまで言われると……困るね。若い父親みたいに」
「滝川さんって、そんな年じゃないでしょう?」
彩子に尋ねられて、滝川は厳格な調子で頭を振った。
「いやいや。彩子君が騎道君の帰りを待って、明日から毎日、閉店まで店に居ること事態が、私の父性本能を刺激するんだ。女の子の夜遊びはよくない」
「もしかして、彩子さん以外は、女の子だと思ってない?」
「それとマサキちゃんもね。お客様に、性別はない」
目を丸くする騎道に、経営者らしい回答を教えた。
「そういう事情があるなら、君は首だな。
恋人同伴のアルバイトじゃ、客寄せの役に立たない」
解雇を告げながら、滝川は笑顔だった。
「すみません。光輝ともども、お世話になりました」
騎道はスツールを降り、頭を下げた。
「楽しかったよ。久瀬光輝ともども。対照的な君達を眺めていられたことは、とても興味深かった。
……似ているよ。君たちは『兄弟』のように……」
彩子を促し、着替えの為に従業員控え室へ引き返す騎道。
二人の後姿を見送りながら、滝川は誰に言うともなく呟いていた。
「幻のように現れ。誰よりも大きく輝き……」
「……夢のように立ち去ったか……」
呟きの後を引き取ったのは、声を暗くした滝川の上司。
滝川が電話を入れると、自分で車を飛ばして店に駈け付けてきた男だった。
「四条チーフ? これで諦めが付きましたか?」
「惜しかったよ。目を疑うような美人に化けた……。
あんなガキ相手に……」
「ガキじゃありませんよ。あの久瀬の『弟』です。
……雰囲気が、並の人間ではなかった」
もう、あの『兄弟』にしてやれることはなくなった。
滝川は、最後の挨拶のように現れた騎道に予感していた。
ストーン・ベイを出て、騎道は夜の空高くを見渡した。
サーモンピンクの襟巻とミトン。高校生に戻った彩子が、立ち尽くす騎道に尋ねた。
「何を見ているの?」
騎道は黙って、彩子の手を握り歩き出す。
人込みの厚くなった繁華街を早足で抜ける。裏通りに入ると、冷え込みが強くなった気がする。
騎道はためらわず、その一帯では一番の高層マンションに向かっていた。広い玄関ホールに踏み込む。
右手の探偵事務所の金文字と騎道の顔を見比べる彩子。
オートロックの自動ドアの前に立ち止まり、騎道は手元のプッシュ・パネルを一瞥した。同時に、ドアが左右に開く。彩子の手を引き、暖かいエレベーターに飛び込んだ。
最上階でエレベーターを降りる。階段を昇り、屋上に続く無機質なドアの前で、騎道は彩子を振り返った。
寒いからと、彩子のコートの襟を立ててやる。
ドアを押し開けると、乾いた寒風が全身を打った。
彩子は騎道の後について、屋上の中央まで進み出た。
街の明りが、冴えた大気の中でくっきりと輝く夜。
空は雲に覆われている。遠くで、秦野山が薄く浮かぶ。
騎道はためらわず、一方を指差した。
「何があるの?」
「僕らの学園がこの先にある」
言われてみれば、住宅地の明りの中、黒々とした大きな建物が横たわっているように見えるけど。
彩子の背後に立ち、騎道が彩子の視界に何かを掲げる。
眼鏡。黒い縁の眼鏡が、彩子の目の前に。彩子は手を添え、眼鏡越しに騎道の指した方角を眺めてみる。
「!」
思わず身を引く彩子。
背中が騎道の胸に受け止められる。
「これ……」
唇が震えかける。言葉にはならない。
騎道の表情を曇らせていた光景が、今は彩子を怯えさせ驚愕させた。
「酷い光景だ」
黒いフレームで囲われた視界には、街の真実の姿が映っている。
学園を囲むように、四方に打ちたてられた、真紅の巨大な火柱。立ち上り、黒い雲を貫いてさえいる。
捩じれ、吹上げられた火炎のような迸りは、天空で磁石に引きつけられるかのように歪み、その先端は学園へと向かっている。
学園を飲み込み、呪われた舌で覆い尽くすかのように。
あの四つの火柱は、それぞれが四つの命によって穿たれた、死への苦痛、苦悶の生々しい具現の姿。
無為に命を奪われたという断末魔の叫びが、眠りについていたはずの数多の妄執を呼び覚まし、集め、怨念の標となった。
言葉では聞かされていたけれど。
あれが、人の魂の仕業だとは。理解できない。
圧倒的なまでに、太い竜巻のようにある火柱。隣接する住宅を巻き込んでさえいる。あの住人は?
彩子は気付いた。家には明りが点っていない。窓ガラスは砕け、荒れ果てた様を晒していた。
……怨念の四陣は、徐々に街に荒廃をもたらす。
そう、聞かされたことがある。
「あれを、……どうするの?」
毎夜、彩子を自宅に送ってから、騎道は四陣の弱体の為に街を巡っていたはずだった。あんなものを相手に、騎道は一人で。
彩子は知るよしもない。騎道がどんなに能力を駆使しても、すべてが徒労であり、火炎の成長を止めることすらできずにいた事実を。
「僕らの力で消してしまうんだ。
今はまだ、特別な人しか見えないけれど。いずれみんなの目に映るようになる。そうなる前に……」
「騎道と、私が?」
彩子が顎を上げるようにして、騎道を振り仰ぐ。
「そう。他にも手を借りなくちゃならない人は居るけど、一番の要になるのは君だよ」
瞳を蒼に変え、彩子を見下し言った。
少し動悸を鎮めて、もう一度、彩子は正面を見た。
騎道の手を掴む右手に力が籠もる。
怖がる彩子をしっかりと胸に引きつけ、騎道は眼鏡を取り上げた。
「私……、わからない……。
私に何が出来るの? どうして、私なの?」
塞ぎこむ彩子の肩を騎道は掴んだ。
「こんなのってないわ。なんであの人、こんなに恐ろしいことができるの?!」
「想いを残したからだ。肉体は滅びていくのに、死を受け入れず、精神のバランスを崩した。
気の触れた心だけを残してしまったんだ」
「私も、そうなるの?
同じ顔だわ。あの人と同じ血が……」
混乱する彩子の耳に騎道は囁いた。
「君と彼女は違う。別の人間だ。
彩子さんには何の力もない。それが証拠だよ」
「力って?」
「彼女は僕のような、超能力者だ。
生まれてずっと、彼女は土蔵に閉じ込められていた。
成長し、当然のように、外の世界に心を引かれた。
その外への憧れが、彼女の能力を目覚めさせた。
唯一の友。雛から育てた鷹の目を通し、普通の人間以上の高みから、故郷を眺めて暮らしてきた。その眺めるという生活だけで満足してきた。
けれど、鷹は射抜かれしまった。矢を射たのは、羽島隆浩。失った目の代わりのように、今度は彼が彼女の目となり、籠の中から解き放った」
最愛の夫というだけでなく、御鷹姫にとっては、両眼両足に等しい男だった。
「彩子さん。君もいつか、飛び立てるよ。
自由に……」
小さく囁く騎道の言葉の意味が、今の彩子には届かなかった。
「こう姫の屋敷に、夜、使用人が誰も居なかったのは、こう姫自身のせいなんだ。彼女は、闇の中でも自由に歩けるから。それを見た使用人たちが鬼女だと騒ぎ、悪い噂が立たないよう。羽島が人払いをさせたんだ。
その頃、半ば、精神のバランスを崩していた彼女は、夢遊病者のように森を彷徨うことがあったから。
彼の気持ちは、完全に離れていたわけではなかったのに」
なぜ皮肉にも、二人は擦れ違ったのか。
人の心の不思議に思い当たる。
見せ付けられるのは、心が生み出した恐ろしさばかり。
「……彼女の強い超能力が、激しい気性と相俟って、この世に未練を残した。復活の機会を待っていた」
柔らかく抱き締められて、彩子は不安が拭われていく気がした。吐く息は白くかわり、風に一瞬で飛ばされていくけれど。永遠に変わらないような暖かさに、彩子は囲われ守られている。
「怖いよね。僕も怖くてたまらない。
たった一人の想いが、あんなふうになる。
それを否定できる正義を僕はまだ見つけていないのに。
彼女と……」




