その5
コリンは再び、全速力で駆け出した。オリヴァーが住んでいる住所は、大通りに面した衛士詰め所からは随分離れた地区であり、初めて入る路地の石畳はところどころ捲れていたり抉れていたりと、整備が行き届いていない。
建ち並ぶ建物もどこか陰鬱で古びて痛みが目立ち、行き交う人々の衣服も同様だ。
ここは間違いなく聖なる大神殿を戴く街であり、華やかな表通りの裏側に当たる場所なのだった。コリンが今まで足を踏み入れた事がない世界でも、オリヴァーにとってはきっと、当たり前に馴染んだ風景。
「……はぁ、ふぅ、こ、こ、か……」
既に体力は尽き果て、殆ど気力だけで無理やり走って……いや、早歩き程度の速度だったが、ともあれコリンはようやく、オリヴァーが住んでいるという集合住宅の前に辿り着いた。外観は二階建てで長細い印象のそこは、周囲の建物と比較してもなお古めかしい。
コリンは外側に取り付けられた階段を上って、二階の端の部屋の前に立った。そろそろ足が思うように動かなくなってきたが、ここで倒れる訳にはいかない。
コンコンコン! と、勢い良くドアをノックする。きっと誰か、付き添いの人物が居るはずだ。いくらなんでも、オリヴァーを独りきりで放置しているなんて事は……
「はーい、どちらさま?」
ドアの向こう側から、やたらとのんびりとした誰何が向けられ、コリンは唖然として硬直してしまった。どう聞いても、今の声は……
固まって動けずにいるコリンの目の前で突如、ガチャガチャン! と、慌てて鍵を開錠する金属音が聞こえ、もどかしげにドアが開かれた。
「コリン!? お前、こんなとこで何やってんだ!?」
玄関前に立っているのはやはり、どっからどう見ても、コリンの恋人である衛士のオリヴァーである。頭の天辺から爪先までじっくりと眺め回してみるも、クドいようだがどっからどう見ても、健康的かつ元気そうにピンピンしている。
呼吸がまだ整っていないのと、混乱から言葉も出ないコリンの顔色から何かを察知したのか、オリヴァーは恋人の背に腕を回して室内に招き入れた。一度玄関に向き直って、元通りドアを閉め施錠する。
「おり……びょ、いん、いっ……」
「……誰かから俺が病院に行ったって聞いて、心配して家まで駆け付けてきたのか?」
苦しい呼吸の中、途切れ途切れにコリンが事情説明を求めて自分の来訪理由を語ると、オリヴァーは「ふぅ」と溜め息を吐き出し、曖昧な発言からコリンの真意を推測してきた。コクコクと頷き正解であると示す恋人の頭を、グシャグシャと撫でてきた。
「……狭い上にとっ散らかってるが、まあ座れ。
お前体力無いクセに、どんだけ走ってきたんだよ? まさか丘の上からここまで全力疾走じゃねえよな?」
オリヴァーの気遣わしげな眼差しには、ひとまず首を左右に振って否定を表す。
狭くて散らかっている、とオリヴァーが自分でも認めた通り、その部屋は家具が少なく殺風景であるが、フローリングな床の上には書類やら何やらがあちこちに散乱している。
座れと促されたものの、テーブルはあるがイスさえ無く、コリンは仕方なく部屋の片隅に設えられたベッドに腰を下ろした。何故か、座るよう勧めた当の家主が一瞬困ったような表情を浮かべたが、彼もまたコリンと並んで腰を下ろした。
「お前が誰に何を吹き込まれたかは知らんが……
俺が今日、病院行ったってのは本当だ」
そう言って、オリヴァーはおもむろに利き手とは逆の腕の袖をめくり上げた。服の下から現れた腕には包帯が巻かれているが、怪我を負ったらしき本人は、さして痛がる素振りもない。
「だって……詰め所に行ったら、ヒースとアゼルが……」
段々調ってきた呼吸、コリンは深く息を吸ってから、今日の出来事を掻い摘んで説明してみる。その話に耳を傾けていたオリヴァーは段々肩を落とし……遂には頭を抱えてしまった。
「……あのな、コリン。
俺が昼間、詰め所に居なかったのは、昨日と今日は夜勤だからだ。で、怪我の方は見ての通り数日間包帯が取れねえが、だいたい一週間ぐらいで治るらしい。他に外傷は無し。
ついでにヒース先輩とアゼル先輩は、巡業芝居小屋の俳優以上の名俳優だ」
「……」
オリヴァーの丁寧な説明に、コリンは無言のままパッタリとベッドに倒れ込んだ。その寝台に敷かれた寝具から仄かに漂う彼氏の匂いが鼻をくすぐって、走ったせい以外の理由で心臓がドキドキしてくる。けれども、それ以上にコリンの身を包み込むのは、深い安堵感。
「ったく……お坊ちゃん育ちが、こんな界隈をウロつくんじゃねえよ。かっ払いやらスリやら人攫いが出たらどーすんだ」
「その時は……オレの必殺技を出す」
「必殺技ぁ?」
限界極限まで心身を酷使したせいか、身体が重たくて身を起こせない。疲労感から両目を閉じると、信じられないほど心地良い感覚と睡魔がコリンに忍び寄ってくる。
「オレ、人間十人ぐらいの重さなら、外壁の外まで吹き飛ばせるよ?」
「……マジか」
疲れ果てた身には、オリヴァーの手の平が労るように頭を撫でてゆく動きがとても幸せで。無意識のうちにコリンは微笑みながら、恋人の腰に腕を回して抱き付いた。あったかい。
「なあ。何で、怪我したの……?」
「ん? ……笑われそうだから、言いたくねえ」
どうしてか些細な事を秘密にしようとする恋人。コリンは膨らませた頬をグイグイと彼に擦り付けた。
「わっ、バカおまっ、どこに顔押し付けてんだ!?」
「ん~?」
丁度よく枕にしてしまおうと、眠気に見まわれ目を閉じたまま、のそのそと体勢を整えたコリンには、オリヴァーに抱き付いているという事実以外はよく分からない。寝やすい体勢であるのなら、何でも良い。
「分かった、言う、言うからそこから顔を退かせ!」
強引に寝返りを打たされたが、どちらかと言うと先ほどまでのくの字よりも、こちらの体勢の方が寝やすいので、コリンにも否やはない。
「明け方前の巡回で……夕べから呑んでたらしい飲んべえが、酒場の前でケンカしてたんだよ。アホらしい事に片方が懐から刃物持ち出して、俺は先輩とそれを止めに入ったんだが……そこに、酔っ払いの息子が親を探しに来て。そいつまだちまっこいガキんちょで、こんくらいの長さの髪で。色もこんなキラキラした感じ」
オリヴァーの指先が、コリンのショートボブを梳き下ろしてゆく。
「ガキの寝間着がお誂え向きに白っぽくてよ。一瞬そっちに気ぃ取られて取り押さえてた酔っ払いの拘束緩んじまったらしくて、酔っ払いが振り回した刃物が、腕掠ってた」
「……オリヴァー……」
何だか言葉を発する事も、彼の声を理解する事さえ段々難しくなってきた。ストンと落ちてゆきそうな極上の漆黒の世界が、コリンの前に広がってきていて。
「……んだよ?」
「オレの守り石……片っぽ、受け取って……?
オレの祈りが、オリヴァーの事、絶対守るから」
物心つく前から、毎日毎日熱心に祈りを捧げてきたコリンが、肌身放さず身に着けている守り石のピアス。それは下手なお守りよりも確実な効果がある。
それさえ身に着けていればナイフの刃先が肌を掠めた程度の災厄など、簡単に跳ね返してのけてくれる筈だ。
そして、神官が自らの守り石を与えるという行為は求婚に他ならず、受け取ったそれを身に着けるのは、承諾を意味する。
「……サンキュ」
頬に掛かっていた髪を除けられて、そこに柔らかい感覚が優しく落ちてくる。
……大好きだよ、オリヴァー。その呟きをきちんと声に出せたかどうか、穏やかな夢の世界に旅立ってしまったコリンには、よく分からなかった。
大勢の人が行き交う雑踏の中、コリンは独りきりだった。
神子である事を示すストラ、更には聖職者の身上を証立てる法衣を平凡な衣服に着替えてしまえば、誰もコリンに気を払ったりなどしない。
街には、こんなに人が溢れているのに。コリンは理由の分からない孤独感に苛まれていた。
コリンはゆるりと、片手を上げた。大通りの片隅にポツンと佇むその姿に、やはり誰一人注意を向けようとはしない。
「あなた様は、選ばれたのでございます」
人の流れを邪魔しない通りの片隅。そこに置物よろしくしばらく無言のまま佇んでいたコリンが、突然脈絡もなく発したその台詞に、幾人かが驚いたように台詞の主を探して軽く顔だけ振り向き、すぐに興味を失ったようにまた歩み去る。
そんな中で、エイクリード街衛士の制服を身に纏っている、コリンよりも幾つか年上に見受けられる黒髪の少年だけは、コリンとしっかり目を合わせてきた。それを例え、彼本人は職業意識からの行動だと考えていようとも。
……見つけた、と、歓喜で背筋が震えた。
今日、この日この場所で。
やっと見つけた、コリンの運命の相手。
選ばれたのは彼で、選んだのもまた、彼。
繋ぎ合った指先はとても温かくて。ただオリヴァーがそばに居てくれるだけで、コリンは幸福感に包まれたまま、微笑みと共に、夢現に微睡んでいた。




