第50話 変わったのは、凌だけじゃない
その日の放課後。
二年生の廊下。
結衣は友人と話しながら、昇降口へ向かっていた。
「じゃあ、また月曜ね」
「うん、またね」
友人と別れ、階段へ向かおうとしたとき。
「……あ」
少し先。
窓際に、見覚えのある長身の男子生徒が立っていた。
一ノ瀬凌。
同じ二年生ではあるものの、結衣自身は凌とまともに話したことはほとんどない。
けれど。
最近は、その姿を目にする機会が明らかに増えていた。
理由は簡単だ。
「佐倉」
階段を上がってきたみおへ、凌が自然に声をかける。
「あ、一ノ瀬先輩」
結衣のいる場所からでは、何を話しているのかまでは聞こえない。
それでも。
二人の表情は見えた。
「……」
以前から。
仲はよかった。
一緒に帰っているところも見たことがある。
でも。
最近は少し違う。
凌は、人混みの中でもすぐにみおを見つける。
みおが話しているときは、ちゃんとその顔を見る。
そして何より。
みおへ近づこうとしていることを、もう隠そうとしていない。
そのとき。
凌が何か言った。
「えっ」
みおの目が少し大きくなる。
そして。
頬が、ほんのり赤くなった。
「……もう」
困ったように何かを言い返す。
凌が笑う。
すると。
みおも少しだけ笑った。
「……」
結衣は、その顔をじっと見た。
変わったのは。
凌だけではない。
◇ ◇ ◇
少し前までのみおなら。
凌に何か言われても、
――またからかわれてる。
そんな顔をすることのほうが多かった。
でも。
今は違う。
凌に何か言われれば。
その意味を考えて。
照れる。
目を逸らす。
それでも。
嫌そうにはしない。
「……そっか」
結衣が小さく呟く。
一ノ瀬凌を。
みお自身が。
ちゃんと恋愛の相手として意識し始めている。
少なくとも。
結衣には、そう見えた。
◇ ◇ ◇
やがて。
みおは一年棟へ。
凌も二年の教室へ戻っていった。
結衣は昇降口へ向かう。
校門の近くでは。
「結衣」
真琴が待っていた。
「お待たせしました」
「ううん」
自然に並び。
二人で駅へ向かう。
「疲れた」
真琴が言う。
「委員ですか?」
「うん」
「お疲れさまです」
「甘いもの食べたい」
結衣が笑った。
「この前も言ってました」
「今日は別」
「毎回別ですね」
「結衣も食べるでしょ」
「食べます」
「じゃあ問題ない」
そんな話をしながら。
しばらく歩く。
けれど。
結衣は、さっき見た二人のことが少し気になっていた。
真琴が横を見る。
「結衣」
「はい?」
「何か考えてる?」
「分かります?」
「うん」
少し間。
「みお?」
結衣が目を丸くする。
「なんで分かったんですか?」
「最近、結衣が考え込んでると大体みおか天野」
「陽翔先輩まで入ってる」
「今あいつ、さきさんのことでうるさいから」
「それは……そうですね」
二人で少し笑う。
「今日はみおちゃんです」
「何かあった?」
「さっき」
結衣は少し言葉を選んだ。
「一ノ瀬君と話してるところを見ました」
真琴の表情が少し変わる。
「また?」
「はい」
「仲いいね」
「かなり」
真琴が横目で結衣を見る。
「何か気になった?」
「一ノ瀬君もなんですけど」
「うん」
結衣は、さっきのみおの表情を思い出した。
「みおちゃんも変わりました」
「……みおが?」
「はい」
真琴の足が。
ほんの少しだけ遅くなる。
「どういうふうに?」
「ちゃんと照れてるんです」
「……」
「一ノ瀬君に何か言われて」
結衣は続けた。
「その言葉の意味を分かった上で、照れてる感じ」
「……ああ」
真琴にも。
何となく意味が分かった。
「前は、一ノ瀬に押されても、戸惑ってるほうが強かったもんね」
「そうなんです」
「今は?」
「嬉しそうなときがあります」
真琴が。
少し黙る。
「それは結構……」
「ですよね」
二人とも。
同じことを考えた。
一ノ瀬凌だけが。
一方的にみおへ近づいているわけではない。
みおの気持ちも。
少しずつ。
凌のほうへ動いている。
◇ ◇ ◇
「結衣」
「はい?」
「みお、一ノ瀬のこと好きだと思う?」
「……」
結衣は。
すぐには答えなかった。
「まだ」
少し考えて。
「『好き』って言い切るところまでは、本人も分かってないんじゃないですか?」
「私もそう思う」
「でも」
「うん」
「もう、ただ仲のいい先輩ではないと思います」
真琴が小さく息を吐く。
「……そっか」
「真琴先輩」
「何?」
「心配ですか?」
「誰を?」
「黒瀬先輩」
真琴は。
隠すことなく頷いた。
「多少はね」
「やっと自覚しましたもんね」
「本当にやっと」
二人で。
少し遠い目になる。
「でも」
結衣が言った。
「競争じゃないですよ」
「分かってる」
真琴はすぐに答えた。
「誰が先に好きになったとか」
「はい」
「誰が積極的とか」
「はい」
「そういうので決まる話じゃないし」
結衣が頷く。
「最後に決めるのは、みおちゃんです」
「うん」
真琴は。
少しだけ笑った。
「だから私たちができるのは、見てるくらい」
「真琴先輩、黒瀬先輩に何か言いません?」
「多少は言う」
「言うんだ」
「友達だから」
結衣が笑った。
「でも決めるのは黒瀬先輩」
「そう」
「選ぶのはみおちゃん」
「そういうこと」
それで。
二人の意見は一致した。
◇ ◇ ◇
少し歩いてから。
結衣がまた口を開いた。
「でも」
「?」
「みおちゃん、幸せそうですよね」
「……」
真琴が結衣を見る。
「二人に好かれてるから?」
「それだけじゃなくて」
結衣は少し考えた。
「誰かを好きになったり」
「うん」
「自分が誰かに大切にされてるって分かったり」
「うん」
「そういうことで、前より表情が増えた気がします」
「……」
真琴は。
少しだけ考えてから頷いた。
「それはあるかも」
転校してきたばかりの頃のみおは。
笑ってはいたけれど。
どこか。
ずっと周囲を気にしていた。
今は。
怒る。
照れる。
拗ねる。
笑う。
悩む。
いろいろな顔を見せるようになった。
「恋ってすごいですね」
結衣が言う。
「急だね」
「だって」
結衣が笑った。
「好きな人のことであんなに悩んでるのに、それでも楽しそうです」
「確かに」
「真琴先輩は?」
「何が」
「私のことで悩みます?」
「……」
真琴が止まった。
結衣がにこっと笑う。
「悩まない?」
「……悩む」
「何を?」
「言わない」
「教えてください」
「嫌」
「真琴先輩」
「嫌」
「照れてます?」
「照れてない」
結衣の笑顔が大きくなる。
「絶対照れてる」
「うるさい」
今度は。
みおでも。
凌でも。
蓮司でもない。
二人自身の話になった。
そして。
そのまま。
いつものように並んで駅へ向かった。
◇ ◇ ◇
その頃。
みおは。
蓮司と、いつもの帰り道を歩いていた。
「佐倉」
「はい?」
「今日、何かあった?」
「なんでですか?」
「なんか、ぼーっとしてる」
「……」
みおは少しだけ顔を逸らした。
昼休み。
屋上。
凌の言葉が。
まだ頭に残っている。
――俺、佐倉のこと好きになってきてるなって思った。
――俺、佐倉といるの好きだよ。
「……」
思い出すだけで。
また少し顔が熱くなる。
「何」
蓮司がこちらを見る。
「何でもないです」
「最近それ多くね?」
「先輩に言われたくないです」
「俺そんな言ってねえ」
「言います」
「いつ」
「いっぱい」
「覚えてねえ」
「ほら」
みおが笑う。
蓮司も。
少しだけ笑った。
「……」
その顔を見る。
すると。
さっきとは違う形で。
胸の奥が温かくなる。
凌に気持ちを向けられれば。
心臓が速くなる。
嬉しい。
もっと話したいと思う。
でも。
こうして蓮司の隣を歩けば。
やっぱり。
ここが好きだと思う。
「……」
以前なら。
そのどちらかを否定しようとしていた。
どちらかが本当なら。
もう片方は違うはずだと。
でも。
今は。
簡単にはそう思えなかった。
「佐倉?」
「はい」
「またぼーっとしてる」
「考え事です」
「何の」
「内緒です」
「……何だそれ」
「内緒は内緒です」
蓮司が少し不満そうな顔をする。
みおは。
それを見て小さく笑った。
まだ。
答えなんて分からない。
それでも。
一つだけ。
はっきりしていることがある。
一ノ瀬凌は。
もう。
ただの話しやすい先輩ではない。
そして。
黒瀬蓮司も。
今までと変わらず。
自分にとって、とても大切な人だった。
二つの気持ちは。
まだ。
どちらか一つに整理できそうになかった。
【真琴と結衣の休日デート】
日曜日の午後。
真琴と結衣は、駅前の本屋で待ち合わせをしていた。
先に着いていた真琴がスマートフォンを見ていると、
「真琴先輩!」
聞き慣れた声がして顔を上げる。
小走りでやってきた結衣の手には、小さな紙袋があった。
「お待たせしました!」
「まだ待ち合わせの五分前だけど」
「でも真琴先輩、絶対早く来てると思って」
「……まあ、来てたけど」
結衣がにこっと笑う。
「やっぱり」
「何その得意げな顔」
二人はそのまま本屋へ入った。
目的は、新しく発売された漫画を見に行くこと。
最初は並んで新刊を見ていたのだが、気づけば結衣は可愛い雑貨が並んだコーナーで足を止めていた。
「あ、これ可愛い」
結衣が手に取ったのは、小さな猫が描かれたしおり。
「結衣、こういうの好きだよね」
「好きです。でも今日は漫画買うので我慢します」
そう言って棚へ戻す。
真琴は何も言わなかった。
本屋を出たあと、二人は近くのカフェへ。
結衣は季節限定のいちごパフェ。
真琴はコーヒー。
「真琴先輩、一口食べます?」
「甘そうだからいい」
「絶対おいしいのに」
「結衣が食べればいいじゃん」
そう言いながら。
結衣が差し出したスプーンを、真琴は結局そのまま口に入れた。
「どうです?」
「……甘い」
「それだけ?」
「おいしいよ」
結衣が嬉しそうに笑う。
その顔を見て、真琴も少しだけ笑った。
しばらくして。
結衣が思い出したように、待ち合わせの時から持っていた紙袋を差し出した。
「これ、真琴先輩に」
「何?」
「昨日クッキー焼いたんです」
「また作ったの?」
「はい。上手くできたので食べてほしくて」
真琴が袋の中を見る。
綺麗に包まれたクッキーが入っていた。
「……ありがと」
「どういたしまして」
真琴は少し考えてから、自分の鞄を開けた。
そして。
「はい」
結衣の前に、小さな袋を置く。
「え?」
開けてみると。
中に入っていたのは、さっき本屋で結衣が見ていた猫のしおりだった。
「……これ」
「欲しかったんでしょ」
「いつ買ったんですか?」
「結衣が漫画見てる時」
結衣はしおりと真琴を交互に見る。
それから。
ものすごく嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「そんな喜ぶ?」
「だって、真琴先輩が私のために選んでくれたんですよ?」
「選んだっていうか、結衣が欲しそうにしてたから」
「それが嬉しいんです」
「……そ」
真琴はコーヒーを飲む。
少しだけ。
耳が赤かった。
カフェを出たあと。
結衣がスマートフォンを取り出した。
「真琴先輩、写真撮りましょう」
「いいけど」
「もっとこっち寄ってください」
「近くない?」
「恋人なんだからいいじゃないですか」
「……はいはい」
結衣が真琴の腕にくっつく。
カメラに向かって笑う結衣。
その隣で。
真琴もほんの少しだけ笑っていた。
帰り道。
「今日楽しかったです」
結衣が言った。
「漫画買って、パフェ食べただけじゃん」
「それでいいんです」
「そう?」
「真琴先輩と一緒なら」
真琴は少し黙った。
そして。
歩きながら、結衣の手を取った。
「……じゃあ、また来よう」
結衣がその手を握り返す。
「はい!」
特別なことは何もない。
本屋へ行って。
カフェで甘いものを食べて。
少しだけ買い物をして。
手をつないで帰る。
二人にとっては、そんな普通の休日が一番心地いい。




