第40話 初めて、黒瀬先輩の部屋へ
そして土曜日。
昼過ぎ。
みおの部屋では、ベッドの上に大きめのボストンバッグが広げられていた。
「……着替え」
一泊分の服。
下着。
洗面道具。
タオル。
スマートフォンの充電器。
一つずつ確認しながら詰めていき、最後に少し迷ってから、小さなポーチもバッグへ入れる。
いつもの薬が入ったポーチだ。
「よし」
これで大丈夫。
そう思ってファスナーへ手を伸ばしたところで、みおの動きが止まった。
「……」
今日。
黒瀬蓮司の家に泊まる。
もちろん、二人きりではない。
陽翔も。
真琴も。
結衣もいる。
分かっている。
ちゃんと分かっているのに――。
――俺ん家、泊まりに来い。
先日。
蓮司にそう言われた瞬間が蘇る。
そして。
それにつられるように、余計なものまで頭へ浮かんできた。
さきに押しつけられた、あのBL漫画。
夜。
同じ部屋。
近づいていく二人。
その先の――。
「……っ!」
みおは勢いよく首を振った。
「違う違う!」
「何が?」
「ひゃっ!」
みおが飛び上がるように振り返る。
部屋の入口に、さきが立っていた。
「お姉ちゃん!」
「ノックしたよ」
「聞こえなかった!」
「何、一人で赤くなってんの?」
「なってない!」
「なってる」
さきは楽しそうに笑いながら部屋へ入ってくると、ベッドの上に広げられたボストンバッグを覗き込んだ。
「準備できた?」
「だいたい」
「忘れ物ない?」
「たぶん」
「歯ブラシ」
「入れた」
「充電器」
「入れた」
「着替え」
「入れた」
「薬」
「入れた」
一拍。
「BL」
「入れない!」
即答だった。
さきが吹き出す。
「一冊くらい持ってけば?」
「何に使うの!?」
「夜の読書会」
「絶対やらない!」
「真琴ちゃん、意外と読むかもよ」
「桐谷先輩まで巻き込まないで!」
「面白そうなのに」
「全然面白くない!」
みおが睨む。
さきは悪びれる様子もなく笑いながら、今度は妹の格好へ視線を移した。
今日は制服ではない。
淡い色のニットに、膝下まであるスカート。
その上から軽いジャケットを羽織り、髪もいつもより少し丁寧に整えている。
耳元には、昨日買ったばかりのピアス。
「……」
さきの目が細くなった。
みおがすぐに警戒する。
「何?」
「気合い入ってない?」
「入ってない」
「髪もちゃんとしてる」
「外出するんだから普通でしょ」
「ピアスまで変えてる」
「昨日買ったから使いたかっただけ!」
「へえ」
「その『へえ』嫌い!」
みおはボストンバッグのファスナーを閉めると、そのまま立ち上がった。
「もう行く」
「何時集合?」
「二時」
さきが時計を見る。
「今、一時二十分だけど」
「……」
「黒瀬くんの家まで徒歩四分でしょ?」
「途中で何か買うかもしれないし!」
「それでも早くない?」
みおが黙る。
さきの口元が、ゆっくり上がった。
「楽しみなんだ」
「みんな待たせたくないだけ!」
「集合四十分前から?」
「だから買い物するかもしれないって言ってるでしょ!」
「はいはい」
これ以上話せば。
絶対にまたからかわれる。
みおはバッグを持ち、そのまま玄関へ向かった。
さきも後ろからついてくる。
靴を履いて立ち上がり。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
さきが手を振る。
そして。
「みお」
「何?」
呼び止められて振り返ると。
さきの顔から、少しだけからかう色が消えていた。
「夜、体調悪くなったら無理しないでね」
みおの表情も柔らかくなる。
「うん」
「黒瀬くんたちにも、言える範囲でちゃんと言いなよ」
「大丈夫」
「ならいい」
さきが頷く。
そして次の瞬間には。
いつもの顔へ戻った。
「あと」
「何?」
「黒瀬くんと何かあったら、明日全部教えて」
「行ってきます!」
「逃げた!」
みおは返事もせず玄関を出た。
背後で。
さきの笑い声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎの住宅街。
空は晴れ、風も穏やかだった。
みおはボストンバッグを肩へ掛けて歩き出す。
蓮司のアパートまでは徒歩四分ほど。
近所なのだから、当然道も知っている。
それでも。
蓮司の部屋へ入るのは、今日が初めてだった。
これまでは、いつも逆だった。
蓮司がみおの家へ来る。
さきと三人で夕食を食べる。
それから蓮司は。
ほんの数分歩いて、自分のアパートへ帰っていく。
みおも建物の場所は知っていた。
けれど。
その先。
蓮司が一人で生活している部屋へ入ったことはない。
「……」
今日。
初めて。
そこへ行く。
そう考えただけで。
少しだけ緊張した。
「……みんなでお泊まり会」
小さく呟く。
「みんなで」
もう一度。
「……みんなで」
ちょうど近くを通り過ぎた女性が、ちらりとみおを見る。
「……」
みおは黙った。
自分でも。
何を必死に確認しているのか分からない。
◇ ◇ ◇
少し歩いたところで。
コンビニの前を通りかかった。
「……何か買っていこうかな」
全員、完全な手ぶらというわけではない。
陽翔はお菓子担当。
結衣は飲み物を持ってくるらしい。
真琴は、
『黒瀬の家にまともな食器があるか怪しい』
と言って、紙皿や紙コップを用意してくると聞いている。
「……」
みおは少し考え。
コンビニではなく、近くのスーパーへ足を向けた。
◇ ◇ ◇
十五分後。
スーパーを出てきたみおの手には、買い物袋が一つ増えていた。
中身は。
夕食の材料。
「……買うつもりなかったんだけど」
本当に。
最初は何も作るつもりなどなかった。
陽翔は、
――ピザ取ろうぜ!
と言っていたし。
それでも。
蓮司。
陽翔。
真琴。
結衣。
そして自分。
五人で集まるのなら。
みんなで何か作って食べたほうが楽しいかもしれない。
ただし。
問題が一つ。
「黒瀬先輩のキッチン、どこまで使えるんだろ……」
調理器具が揃っている保証がない。
だから、難しい料理はやめた。
焼きそば。
簡単なサラダ。
スープ。
そのくらいなら。
最低限の鍋とフライパンさえあれば何とかなる。
「……勝手に買っちゃったけど」
迷惑だっただろうか。
一瞬だけ不安になる。
でも。
蓮司が。
今日の夕飯をきちんと準備して待っている姿を想像する。
「……してないよね」
即座に断言できた。
たぶん。
何も考えていない。
下手をすると。
陽翔と一緒に、本当にピザだけで終わらせるつもりだったかもしれない。
「ふふっ」
想像すると。
少し笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
買い物を終え、住宅街を歩いていると。
前方に。
見覚えのある後ろ姿を見つけた。
大きなリュック。
そして。
両手いっぱいのコンビニ袋。
明らかに。
中には大量のお菓子が入っている。
「あ」
すぐ分かった。
「陽翔先輩!」
男が振り返る。
「おお!」
陽翔が笑顔になる。
「みおちゃん!」
「こんにちは」
「早いね!」
「陽翔先輩も」
「俺は楽しみすぎて早く来た!」
胸を張って言い切った。
そのあまりの迷いのなさに。
みおが笑う。
「何買ったんですか?」
「お菓子!」
陽翔が袋を持ち上げる。
「多くないです?」
「泊まり会だぞ!」
「だからって……」
「ポテチ三種類!」
「はい」
「チョコ!」
「はい」
「グミ!」
「はい」
「アイス!」
「……」
みおが止まった。
「溶けますよ!?」
「……」
今度は陽翔が止まった。
ゆっくり。
手に持った袋を見る。
「……やばい!」
「急ぎましょう!」
二人はそろって早足になる。
その途中。
陽翔が、みおの持っているスーパーの袋に気づいた。
「それ何?」
「夕飯の材料です」
「作るの!?」
一瞬で。
陽翔の顔が輝いた。
「簡単なものだけですけど」
「やった!」
「まだ黒瀬先輩にキッチン使っていいか聞いてませんよ?」
「大丈夫!」
自信満々。
みおが怪訝そうに見る。
「なんで分かるんですか?」
「蓮司は、みおちゃんの飯なら何でも喜ぶから!」
「……」
みおの歩幅が。
ほんの少しだけ遅くなった。
「……そうですか?」
「そうだよ」
陽翔は。
本当に何の疑問も持っていないらしい。
「毎回すげえ嬉しそうじゃん」
「そんな顔してないですよ」
「してるって」
「いつも『普通』とか言ってますよ?」
「口ではな」
「……」
その言葉に。
胸の奥が。
少しだけ温かくなる。
みおの頬も。
わずかに熱を持った。
陽翔が横から覗く。
「あれ?」
「何です?」
「赤くなった?」
「なってません」
「なってる!」
「陽翔先輩」
「何?」
「アイス溶けますよ」
「そうだった!」
陽翔が慌てて前を向く。
みおは。
こっそり息を吐いた。
うまく。
話を逸らせた。
◇ ◇ ◇
数分後。
二人は蓮司の住むアパートへ到着した。
「……ここなんですね」
みおは建物を見上げる。
三階建ての、小さなアパート。
古すぎるわけではないけれど、新しいとも言えない。
どこにでもありそうな。
一人暮らし向けの建物だった。
「来たことない?」
陽翔が尋ねる。
「建物は知ってます。でも、部屋の前までは」
「近所なのに?」
「だからって普通、用もないのに来ないでしょ」
「それもそうか」
陽翔は外階段へ向かう。
「二〇三だったはず」
「知ってるんですか?」
「前に一回来た」
「へえ」
階段を上がり。
二階の廊下へ。
奥から二番目。
二〇三号室。
陽翔がインターホンを押した。
ぴんぽーん。
数秒。
部屋の中から。
どたどたっ。
何かが慌ただしく動く音が聞こえた。
「……」
みおと陽翔が顔を見合わせる。
みおが小声で聞いた。
「今、片付けてます?」
陽翔も小声で返す。
「たぶん」
数秒後。
扉が開いた。
そこに。
蓮司が立っていた。
黒のTシャツ。
ラフなパンツ。
完全な部屋着。
銀灰色の髪も、学校で見るときより少し無造作に乱れている。
「……早え」
第一声だった。
陽翔がすぐに腕時計を見る。
「十三時四十分!」
「二時っつっただろ」
「楽しみだった!」
「帰れ」
「ひどい!」
蓮司が陽翔を睨む。
そして。
その視線が。
陽翔の後ろへ移った。
「……」
みおと。
目が合う。
「こんにちは」
「……おう」
学校の制服ではない。
家の中の。
完全に気を抜いた蓮司。
初めて見る姿だった。
「……」
今度は。
蓮司のほうが。
みおを見る。
淡い色のニット。
スカート。
いつもと少し違う髪。
耳元のピアス。
そして。
ボストンバッグ。
視線が。
順番にそこを通った。
みおが気づく。
「何です?」
「いや」
蓮司は。
すぐに顔を逸らした。
「別に」
「またそれ」
「うるせえ」
けれど。
耳が。
少しだけ赤い。
陽翔が。
蓮司を見る。
次に。
みおを見る。
そして。
にや。
「……何だよ」
蓮司が睨む。
「何でもない」
「その顔やめろ」
「本当に何でもないって」
絶対に何かある顔だった。
みおは。
これ以上陽翔が余計なことを言う前に。
手に持っていたスーパーの袋を上げた。
「あの」
蓮司が見る。
「何」
「夕飯の材料、少し買ってきました」
「……飯?」
「はい」
「作んの?」
「キッチン使ってよければ」
蓮司が。
ほんの少しだけ目を見開いた。
「……別にいいけど」
間髪入れず。
陽翔が笑う。
「ほら喜んだ!」
「喜んでねえ!」
「絶対喜んでる!」
「うるせえ!」
みおも。
思わず笑った。
陽翔が言っていたことは。
本当なのかもしれない。
「じゃあ」
みおが靴を脱ぐ。
「お邪魔します」
「……おう」
蓮司が横へ退いた。
玄関を抜け。
みおは。
初めて。
黒瀬蓮司が毎日一人で帰っている場所へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
「……」
室内へ入ったみおは。
少しだけ辺りを見回した。
ワンルームではなく、小さな一DK。
手前にダイニング兼キッチンがあり、その奥に居室が続いている。
家具は。
必要最低限だった。
小さなテーブル。
テレビ。
ベッド。
棚。
思っていたより。
きちんと片付いている。
「……」
いや。
正確には。
片付けた。
その形跡が。
ものすごく残っていた。
部屋の隅には。
何を詰め込んだのか分からないほど膨らんだ収納ボックス。
クローゼットは。
微妙に閉まりきっていない。
キッチンの横には。
まとめて隅へ追いやられたコンビニ袋。
「……」
みおが無言で見ていると。
蓮司がすぐに気づいた。
「何だよ」
「片付けたんですね」
「元からこうだ」
「絶対嘘」
「うるせえ」
陽翔が。
さっそく収納ボックスへ手を伸ばす。
「ここ開けたら――」
「触ったら殺す」
「はい!」
手が。
一瞬で引っ込んだ。
みおが吹き出す。
「何入ってるんですか?」
「何でもいいだろ」
「気になる」
「気にすんな」
また。
いつもの言い合い。
でも。
場所だけが。
いつもとは違う。
みおは。
部屋の奥へ目を向けた。
ここで。
蓮司は毎日生活している。
朝。
ここから学校へ向かう。
夜。
ここへ帰ってくる。
みおの家で。
さきと三人で夕食を食べた日も。
一緒に料理をした日も。
笑いながら帰っていったあと。
最後には。
この部屋へ。
一人で戻る。
「……」
なぜだろう。
少しだけ。
胸がきゅっとした。
「佐倉」
「はい?」
呼ばれて振り返る。
蓮司が。
みおのボストンバッグを見ていた。
「重いだろ」
「あ、大丈夫です」
「貸せ」
「自分で持てます」
「知ってる」
「……」
みおの動きが。
一瞬。
止まった。
――自分で持てるのは知ってる。
以前、重いサブバッグを持ってくれたとき。
凌も、同じようなことを言った。
一ノ瀬凌。
「……」
ほんの一瞬。
今日ここにはいない人の顔が。
頭の中へ浮かんだ。
蓮司が怪訝そうに見る。
「何」
「あ……」
みおは。
小さく首を振った。
「いえ。何でもないです」
それから。
バッグを差し出す。
「じゃあ、お願いします」
「おう」
蓮司はそれを受け取ると。
何でもないように部屋の奥へ運んでいった。
みおは。
その背中を見つめる。
黒瀬蓮司。
今日。
この人の家に泊まる。
もちろん。
みんなで。
それでも。
少しだけ。
特別な一日になりそうな。
そんな予感がした。
そして。
その胸の片隅には。
今日。
ここにはいない。
一ノ瀬凌の姿も。
ほんの少しだけ。
残っていた。




