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第33話 好きかもしれない

午後二時過ぎ。


「ただいま……」


みおがマンションの玄関を開けると、リビングからさきの声が返ってきた。


「おかえりー」


靴を脱ぎ、バッグを置いてリビングへ向かう。


ソファーでは、さきが部屋着姿でくつろいでいた。ローテーブルの上には大学の課題らしい資料と、飲みかけのコーヒーが置かれている。


さきが顔を上げた。


「どうだった?」


「ん?」


「病院」


「ああ」


みおは少し遅れて答えた。


「いつも通り。特に問題ないって」


「そっか。ならよかった」


さきの表情が柔らかくなる。


「うん」


それだけ答えて、みおは自分の部屋へ向かおうとした。


「……」


さきの目が細くなる。


いつものみおなら、病院帰りに何を食べたとか、駅前で何を見たとか、帰りにスーパーへ寄るかとか。何かしら話す。


ところが今日は妙に静かだ。


しかも。


さっきから、頬がほんのり赤い。


「みお」


「何?」


振り返る。


「今日、なんかあった?」


「……」


ほんの一瞬。


返事が遅れた。


「別に?」


さきが笑った。


「はい、あった」


「なんで!」


「今の間」


「普通でしょ!」


「あと『別に』」


「それ黒瀬先輩だって使うじゃん!」


「ほら」


「何が!?」


「そこで黒瀬先輩出てくる」


「……」


みおが黙った。


さきは自分の隣をぽんぽんと叩く。


「座りなさい」


「なんで尋問みたいになってるの」


「いいから」


「……」


少し迷ったものの。


みおは諦めて、さきの隣へ腰を下ろした。


◇ ◇ ◇


「で?」


「何が」


「病院出てから、何があったの?」


「……」


「黒瀬先輩?」


「違う」


「じゃあ誰?」


その質問にも。


返事が一瞬遅れた。


さきが見逃すはずもない。


「男だ」


「なんでそうなるの!」


「その反応」


「もう!」


みおは近くにあったクッションを抱える。


しばらく黙ったあと。


「……一ノ瀬先輩」


さきの眉が上がった。


「あ」


以前。


弁当を四つ作った朝に聞いた名前だ。


「例の?」


「例のって何」


「黒瀬くん以外に、みおがお弁当作った男子」


「その覚え方やめて」


「背が高くて格好いい人」


「……そう」


さきが体ごとみおへ向き直る。


「会ったの?」


「偶然」


「街で?」


「うん」


「病院の近く?」


「駅に向かってる途中」


みおは、ぽつぽつと今日の出来事を話し始めた。


凌も偶然買い物に来ていたこと。


声をかけられたこと。


自分が治療の定期診察帰りだと話したこと。


「へえ」


さきは少し感心したような顔をする。


「治療のこと言ったんだ」


「うん」


「詳しく聞かれた?」


「全然」


そのときだけ。


みおの表情が少し柔らかくなった。


「『どうだった?』って聞かれて。問題ないって言ったら、『ならよかった』って。それだけ」


「……なるほど」


「変に気を遣われる感じもしなかったし」


「似た経験があるから?」


「それもあるかもしれないけど……」


みおは少し考える。


「一ノ瀬先輩、もともとそういう人なんだと思う。相手が言いたくなさそうなことは、無理に聞かないっていうか」


「ふーん」


さきは顎に手を添えた。


「いい男じゃん」


「……まあ」


「認めるんだ」


「だって、いい人ではあるし」


「しかも格好いい」


「それ前にも言ったでしょ!」


「モテる?」


「らしいよ」


「なるほどねえ」


さきの顔が。


少しずつ楽しそうになっていく。


「それで?」


「何が?」


「偶然会って話しただけで、今みたいな顔にはならないでしょ」


みおの身体が。


わずかに固くなった。


「……ご飯食べた」


「二人で?」


「うん」


「デート?」


「違う!」


即答だった。


「偶然会って、お互いまだお昼食べてなかったから!」


「それを世間ではランチデートと」


「言わない!」


「はいはい」


さきは笑う。


「何食べたの?」


「オムライス」


「一ノ瀬先輩は?」


「ハンバーグ」


「楽しかった?」


「……普通に」


「へえ」


みおが嫌そうな目を向ける。


「その『へえ』やめて」


「まだ何かあるね」


「……」


みおは。


抱えていたクッションへ、ぎゅっと力を込めた。


さきが見る。


「みお」


「何」


「顔、赤いよ」


「暑いだけ」


「エアコンついてる」


「……」


「一ノ瀬先輩に何された?」


「な、何もされてない!」


あまりにも反応が大きかった。


さきの表情から笑みが消える。


「……何された?」


声も少し低くなった。


みおが慌てて両手を振る。


「あっ、違う違う! 嫌なことじゃないから!」


「本当?」


「本当!」


「無理やり何かされたとかじゃない?」


「全然違う!」


みおは必死に否定する。


「むしろ私が勝手にびっくりしただけだから!」


さきは数秒、妹の顔を見た。


怖がっている様子はない。


それどころか。


どう見ても。


恥ずかしがっている。


そこで、少しだけ肩の力を抜いた。


「じゃあ何」


「……」


みおが俯いた。


言いたくない。


でも。


ここまで来たら、もう逃げられそうにない。


「別れ際に」


「うん」


「この前のお弁当のこと、謝ったの」


「学校で変な噂になったやつ?」


「うん」


月曜日。


自分が二年生の教室まで弁当を届けたことで、凌と付き合っているという噂が広がった。


「私が教室まで持っていったから、変な噂になってごめんなさいって」


「うん」


「そしたら一ノ瀬先輩が……」


みおの顔が。


また赤くなる。


「……」


さきは待った。


「何?」


「……壁ドンしてきた」


「……」


さきが停止した。


「は?」


「だから!」


みおの顔が一気に真っ赤になる。


「壁ドン!」


「一ノ瀬先輩が!?」


「声大きい!」


「いや待って!」


さきが完全に身を乗り出す。


「リアル壁ドン!?」


「リアルだよ!」


「漫画じゃなく!?」


「そうだってば!」


「それで!?」


「……」


みおはクッションで口元を隠した。


そして。


消え入りそうな声で。


「『本当に付き合ってみる?』って」


「…………」


今度は。


さきが完全に無言になった。


みおが恐る恐る見る。


「お姉ちゃん?」


さきは両手で顔を覆った。


「ちょっと待って」


「何」


「情報量が多い」


「私だってそうだったよ!」


「背高いイケメンのトランス男子に街中で壁ドンされて、『付き合ってみる?』?」


「改めて言わないで!」


みおがクッションを投げる。


さきはそれを受け止めた。


「で!?」


「何が!」


「返事!」


「してない!」


「じゃあどうなったの?」


「……目が泳いだ」


「目が泳いだ?」


「何言えばいいか分かんなくて!」


みおは両手で顔を覆った。


「もう本当に頭真っ白になって……」


「うん」


「そしたら一ノ瀬先輩、笑って」


少し間を置き。


「『冗談』って」


さきの眉が動いた。


「……冗談?」


「うん」


「本当に?」


みおが顔を上げる。


「本人がそう言ったよ」


「ふうん……」


さきの表情が変わった。


さっきまで面白がっていた顔ではない。


少し。


考えるような顔。


「何?」


「いや」


「何、その顔」


さきは少しだけ首を傾げた。


「その一ノ瀬先輩」


「うん」


「みおのこと、結構好きなんじゃない?」


「……は?」


みおが固まった。


「ないないない!」


「なんで?」


「だって冗談って言った!」


「だから?」


「だから……」


言葉に詰まる。


さきはクッションを抱え直した。


「興味もない後輩に、わざわざ壁ドンして『付き合ってみる?』なんて冗談言う?」


「一ノ瀬先輩、ちょっと人をからかうところあるし」


「ふーん」


「本当だよ」


「まあ」


さきは意外にも、そこであっさり引いた。


「本人に聞いたわけじゃないから分かんないけどね」


「そうだよ」


「でも、可能性はあるよね」


「……」


みおは答えなかった。


凌。


確かに。


最近よく話しかけてくる。


一緒に昼を食べる。


自分の帰る方向とは違うのに、途中まで一緒に帰ってくれた。


荷物を持ってくれる。


弁当を作ってほしいと言う。


今日も偶然会っただけなのに、昼食へ誘われた。


――また誘う。


そうも言われた。


「……」


「みお?」


「……分かんない」


「うん」


「でも」


少し考えて。


みおは素直に口にした。


「一ノ瀬先輩といるのは楽しい」


さきは黙って聞いている。


「話しやすいし」


「うん」


「似た経験があるから、いちいち説明しなくても通じることもあるし」


「うん」


「でも、『同じだから全部分かる』みたいには言わない」


「うん」


それが。


みおには心地よかった。


同じトランスジェンダーだからといって。


同じ人生を歩いてきたわけではない。


凌は。


そこを最初から分かっていた。


そして。


「すごく自然に、女の子として見てくれるし」


みおは少しだけ目を伏せる。


それも。


やはり大きかった。


凌の中には。


そこに迷いが一切ない。


自分がトランスジェンダーであることを知ったうえで。


佐倉みおという一人の女の子として接してくれる。


「……もし」


みおが、小さく言う。


「黒瀬先輩と出会ってなかったら」


さきが見る。


「一ノ瀬先輩みたいな人を好きになることも、あったのかな」


「……」


さきは。


今度は茶化さなかった。


「あり得るんじゃない?」


「……そっか」


「だって、みおがいい人だと思ってるんでしょ?」


「うん」


「格好いいとも思う」


「……うん」


「一緒にいて楽しい」


「うん」


「だったら、恋愛対象になり得るのは普通じゃない?」


みおは。


ゆっくりと頷いた。


「……うん」


でも。


そこで。


あの瞬間を思い出す。


壁。


顔の横につかれた凌の手。


近かった顔。


――本当に付き合ってみる?


そして。


その瞬間に。


自分の中で起きたこと。


「……お姉ちゃん」


「何?」


「壁ドンされたとき」


「うん」


みおは少し恥ずかしそうに。


けれど。


今度は逃げずに言った。


「黒瀬先輩の顔が浮かんだ」


さきの表情が止まった。


「……一番最初に?」


「うん」


「一ノ瀬先輩に『付き合ってみる?』って聞かれて?」


「……うん」


「黒瀬先輩が?」


「うん」


さきは。


しばらく何も言わなかった。


そして。


小さく笑う。


「それ」


「何?」


「結構、答え出てない?」


みおの顔が赤くなる。


「出てない!」


「本当に?」


「だって!」


みおは必死に言葉を探した。


「一ノ瀬先輩と付き合うってなったら、黒瀬先輩がどう思うかなって考えただけかもしれないし!」


「なんで黒瀬先輩がどう思うか気になるの?」


「……」


完全に。


詰んだ。


「お姉ちゃんずるい!」


さきが笑う。


「でも」


今度は。


少しだけ優しい声だった。


「今日、一ノ瀬先輩と話して、自分でも少し分かったんじゃない?」


「……」


みおは膝の上へ視線を落とした。


凌は。


自分より先に気づいた。


――黒瀬先輩のこと好きなんだな。


そのときは。


まだ否定した。


少し意識しているだけ。


そう答えた。


でも。


今。


さきから同じところを指摘されて。


以前ほど強く。


違うとは言えない。


「……好きなのかな」


初めて。


自分からその言葉を口にした。


とても。


小さな声だった。


さきには。


ちゃんと聞こえている。


それでも。


すぐに「そうだよ」とは言わなかった。


「みおは、どう思う?」


「……」


少し考える。


「会うと嬉しい」


「うん」


「一緒に帰るの、いつの間にか普通になってて」


「うん」


「お弁当作って、美味しいって言われると嬉しい」


「うん」


「他の人と付き合ってるって思われるのは……」


そこで。


みおは止まった。


月曜日。


凌との噂を聞いた蓮司。


自分は。


あのとき必死に否定した。


「……嫌だった」


「噂が?」


「それもだけど」


みおはゆっくり言う。


「黒瀬先輩に、そう思われるのが」


さきは。


何も言わない。


みお自身が。


自分の言葉で最後まで言えるように。


ただ待った。


「……嫌だった」


もう一度。


みおが言った。


それから。


両手で顔を覆う。


「……あー、もう」


「みお?」


「なんか分かってきたかも」


「何が?」


「言わせないで」


「はいはい」


さきが笑う。


みおは。


顔を隠したまま。


「……たぶん」


少し間を置き。


「私、黒瀬先輩のこと好きかもしれない」


初めて。


その気持ちに。


言葉がついた。


さきは少しだけ目を細める。


嬉しそうに。


でも。


今度はからかわずに。


「そっか」


それだけだった。


みおが指の隙間からさきを見る。


「何?」


「何が?」


「もっとなんか言うと思った」


「例えば?」


「『知ってた』とか」


さきが少し笑った。


「知ってた」


「やっぱり!」


みおがクッションを奪い返し、さきを叩く。


「痛い痛い!」


「最初から言ってよ!」


「自分で気づかなきゃ意味ないでしょ!」


「もう!」


何度かクッションで叩いて。


最後には。


みおも笑っていた。


◇ ◇ ◇


少し落ち着いてから。


さきが尋ねた。


「で」


「何?」


「一ノ瀬先輩はどうするの?」


「どうするって?」


「もし、本当にみおのこと好きだったら」


「……」


みおの表情が。


少しだけ曇った。


そこまでは。


考えていなかった。


凌は。


大切な友人になり始めている。


似た経験を持つ先輩として。


話しやすい人として。


そして。


一ノ瀬凌という一人の人間として。


できれば。


これからも仲良くしたい。


「私」


みおは少し不安そうに言った。


「一ノ瀬先輩とは、普通に仲良くしたい」


「うん」


「もし本当に、私のこと好きだったとしても……」


言葉を探す。


「変に避けたりしたくない」


「それでいいんじゃない?」


「でも」


「うん」


「期待させたら、悪くない?」


さきは少し考える。


「まだ本人から『好き』って言われたわけじゃないんでしょ?」


「……そうだけど」


「だったら、今から勝手に答え決めて距離置くほうが変じゃない?」


みおも少し考えた。


「……そっか」


「もし本当に告白されたら」


さきは続ける。


「そのときちゃんと考えて、ちゃんと答えればいい」


「……うん」


「それまでは今まで通りでいいんじゃない?」


みおは頷いた。


「うん」


それから。


数秒。


「……でも」


「何?」


「もう壁ドンは嫌」


さきが吹き出した。


「本当に?」


「恥ずかしすぎる!」


「相手が黒瀬先輩なら?」


「……!」


みおが一瞬で真っ赤になる。


「お姉ちゃん!!」


またクッションが飛んだ。


「冗談冗談!」


「最悪!」


「でも今、想像したでしょ?」


「してない!」


「顔真っ赤」


「もう黙って!」


笑い声が。


リビングに響いた。


◇ ◇ ◇


その日。


みおの中で。


一つの大きな変化が起きていた。


ずっと。


意識しているだけ。


仲のいい先輩。


まだ分からない。


そうやって名前をつけずにいた感情。


それが。


一ノ瀬凌との偶然の休日をきっかけに。


ようやく。


ほんの少しだけ。


形を持ち始めた。


――黒瀬蓮司が、好きかもしれない。


その自覚は。


まだ小さい。


まだ不安定で。


本人にも。


「好きです」と断言できるほどのものではない。


それでも。


もう以前のように。


簡単に。


「違う」とは言えなかった。


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