第12話 必要な入力だけは遅れない
昼休みの踊り場は、いつもより少し暑かった。
窓が開いている。
グラウンドから、サッカー部の声が聞こえる。
風は入ってくるのに、湿った空気だけが階段の隅に溜まっていた。
凛はノートを開いていた。
今日は弁当の横に、スマホスタンドまで置いてある。
「それ何」
「動画見る用」
「本気だな」
「負けたから」
「言い方」
「勝った時より、見るところが多い」
悠は何も言えずに、隣へ座った。
弁当を開ける。
今日は唐揚げが二つ入っている。
昨日より多い。
でも、あまり嬉しくなかった。
凛はスマホで昨日の試合映像を出した。
前半三十二分。
見たくない場所。
相手が右へ流す。
切り返す。
悠のカーソルが飛ぶ。
失点。
凛は映像を止めた。
「ここ」
「分かってる」
「たぶん、分かってるのと、押せるのは別」
「昨日も聞いた」
「今日は、どうするか」
凛はノートに小さな四角を書いた。
その横に矢印。
さらに、斜めの線。
「相手が身体を入れてきた時、風見くんは毎回、その場で考えてる」
「考えないと取られる」
「でも考えてる間に取られてる」
正しい。
正しいけど、言い方が少し刺さる。
悠は唐揚げを箸でつまんだ。
落としかけて、弁当箱のふたに当たった。
油が少し付く。
「じゃあ、どうするんだよ」
「決める」
「何を」
「この場面になったら、この入力だけするって」
凛はスマホの映像を少し戻す。
「派手な技は要らない。相手が身体を入れに来た時、一歩だけずらす。ずらして、半歩加速する」
「そんな基本で通じるのか」
「通じるかは分からない」
「また分からない」
「でも、今は基本すら試合中に迷ってる」
悠は黙った。
階段の下から、誰かが上がってくる音がした。
二人とも一度だけ口を閉じる。
足音は途中の階で止まり、別の廊下へ消えた。
凛は声を少し落とす。
「昨日の相手、すごい技で風見くんを抜いたわけじゃない」
「速かった」
「速かった。でも、やってることは単純だった。身体を入れる。切り返す。加速する」
「それが速いから困るんだろ」
「うん。だから風見くんも、ひとつだけ速くする」
ひとつだけ。
その言葉は、少しだけ現実味があった。
全部を上手くするのは無理だ。
黒須みたいな操作には届かない。
昨日の相手にも追いつけない。
でも、ひとつだけなら。
そう思いかけて、すぐに怖くなる。
ひとつだけ練習しても、通じなかったら。
「今日、配信でやるの?」
悠が聞く。
凛は少し考えた。
「全部は見せない方がいい」
「じゃあどうする」
「練習してることだけ見せる。使い方は見せない」
「そんな器用なことできるか」
「できなかったら、見せすぎる」
「ダメじゃん」
「だから、少しだけ」
凛は真顔だった。
悠は、唐揚げを口に入れた。
少し冷えている。
味は分かる。
ただ、噛むのに時間がかかった。
「あと」
凛が、映像をもう一度戻した。
「ここ、負けたあとに顔を上げるのが遅い」
「顔?」
「選手のじゃなくて、風見くんの視点。奪われたあと、画面全体を見るのが遅い」
「そんなの分かるのか」
「分かる。カーソルが一瞬迷ってる」
悠はスマホを覗き込む。
たしかに、奪われた直後、カーソルが一度だけ中途半端に動いている。
右へ合わせたいのか。
中央を塞ぎたいのか。
判断が揺れている。
その間に、相手はもうシュートまで持っていっていた。
「見えてから押してるんじゃなくて、見えてから選んでる」
凛が言う。
「違うのか」
「違うと思う。押す形が決まっていれば、選ぶ時間が減る」
「減るだけだろ」
「その減った分で、間に合う場面がある」
悠は返事をしなかった。
小さな差だ。
たぶん、本当に小さな差だ。
でも昨日の失点も、最後のシュートも、その小さな差で決まっていた。
予鈴まで、あと少し。
凛はノートの端に、短く書いた。
迷う前に、一歩。
一歩で足りなければ、半歩加速。
「ダサいな」
悠が言う。
「分かりやすい」
「配信のタイトルにするなよ」
「しない。たぶん」
「する気だろ」
「少し考えた」
「やめろ」
凛はそこで、やっと弁当を食べ始めた。
白米を一口。
卵焼きを一口。
それから、少し眉を寄せた。
「卵焼き、甘い」
「どうでもいい情報」
「眠いと甘いのが強く感じる」
「寝ろよ」
「風見くんが勝ったら寝る」
「俺に睡眠を背負わせるな」
凛は小さく笑った。
その笑い方が、昨日より少しだけ疲れて見えた。
悠はそれを言おうとして、やめた。
言えば、凛はたぶん「気のせい」と返す。
そういう返事が来るところまで見えた。
◇ ◇ ◇
夜。
悠は配信をつけた。
タイトルは短い。
《負けたところを直します》
同時接続は、昨日の敗北後でも千を超えた。
勝った時だけ人が来るわけではないらしい。
それがありがたいのか、怖いのか、まだ分からない。
「昨日、負けました」
悠はそう言った。
コメント欄が動く。
『見た』
『惜しかった』
『操作差だったな』
『今日は反省会?』
『逃げないの偉い』
偉い。
そう言われると、少し居心地が悪い。
負けただけなのに。
「操作が遅れたので、今日はそこを練習します」
悠はトレーニングモードを開いた。
選手一人。
相手ディフェンダー一人。
広いピッチ。
観客の音も、実況もない。
ただ、ボールを持った選手が立っている。
右へ一歩。
またぐ。
半歩だけ前へ。
加速。
相手を置く。
ボールが少し伸びる。
失敗。
『地味』
『基礎練?』
『このレベルでこれやるんだ』
『逆に好感』
悠はコメントを見ないようにする。
もう一度。
右へ一歩。
またぐ。
半歩前へ。
加速。
今度は少しだけ抜けた。
でも、ボールが足元から離れすぎる。
試合なら取られる。
もう一度。
失敗。
もう一度。
また失敗。
十回。
二十回。
指の腹が熱を持っても、形はまだ体に落ちてこない。
右へ一歩。
またぐ。
半歩。
加速。
その並びだけが、頭の中で先に覚えていく。
コメント欄の勢いが少し落ちる。
『修行配信?』
『寝そう』
『でもこれ大事なんだろうな』
『上位勢は無意識にやってるやつ』
悠の親指が痛い。
同じ場所を押しすぎている。
このまま続けて、明日の試合で指が重くなったらどうする。
ふと、そんなことを考えた。
その考えが入った途端、次の入力が遅れた。
ディフェンダーに止められる。
「遅い」
小さく言った。
マイクに入った。
『自分で言った』
『遅いな』
『でも少しマシになってる』
『指、大丈夫か?』
指。
コメントに出ると、急にそこが気になった。
悠は一度コントローラーを置いた。
親指の腹が赤い。
痛いというほどではない。
でも、熱い。
練習で壊したら意味がない。
負けた原因を直す前に、別のミスを増やすだけだ。
水を飲む。
ぬるい。
スマホが震える。
凛からだった。
『力入れすぎ。押すんじゃなくて、置く』
悠は画面を見た。
押すんじゃなくて、置く。
また分かるような、分からないような言い方だった。
でも、強く押していたのは事実だった。
悠はコントローラーを持ち直す。
力を抜く。
指を置く。
相手が来る前提。
右へ一歩。
またぐ。
半歩前。
加速。
抜けた。
今度は、ボールが足元に残った。
『お』
『今の良い』
『ちょっと速くなった』
『力抜いた?』
悠は返事をしない。
もう一度。
抜ける。
もう一度。
止められる。
もう一度。
抜ける。
少しずつ、成功の割合が増える。
体に入る、というほどではない。
まだ頭で数えている。
でも、最初より迷いが減った。
配信開始から一時間近く経っていた。
『まだやってる』
『この根性は好き』
『次の試合で使えるかは知らん』
『でも一個武器になるといいな』
一個武器になる。
悠はそのコメントを見た。
武器。
そんな大げさなものではない。
ただの基本動作だ。
でも、昨日の自分にはなかったもの。
見えた後に迷わず押すための、形。
「もう一回だけ」
悠は言った。
何回目か分からない。
相手ディフェンダーを前に置く。
右へ一歩。
またぐ。
半歩。
加速。
抜けた。
今度は、少しだけきれいだった。
大きな歓声はない。
ゴールでもない。
でも、悠はその一回を保存した。
まだ終わる気にはならなかった。
トレーニングモードを出る。
今度は練習試合。
CPU相手。
強さは少し高めにした。
『実戦で試す?』
『ここから本番』
『今の形だけ狙うのか』
悠は返事をしない。
相手のサイドバックが寄ってくる。
右へ一歩。
またぐ。
半歩前。
加速。
抜ける。
でも、次のパスが遅い。
取られる。
カウンター。
失点。
『草』
『抜けたあとが課題』
『そこまでセットじゃないと意味ないな』
そう。
抜けただけでは意味がない。
昨日も、見えただけでは勝てなかった。
悠は再開する。
もう一度、右サイド。
右へ一歩。
またぐ。
半歩。
抜ける。
今度はすぐ戻す。
中央へ。
トップ下が受ける。
シュートコース。
相手が出る。
悠は打たない。
左へ流す。
遅い。
相手に読まれる。
カット。
また失敗。
「違う」
声が出た。
『何が?』
『自分にキレてる』
『今の惜しかった』
何が違うのか、自分でもまだ言葉にできない。
半歩で抜きたいのではない。
半歩で相手の足を止めたい。
止めて、次の選択肢を作りたい。
悠はもう一度ボールを持つ。
右へ一歩。
相手が来る。
またぐ。
半歩。
相手の足が止まる。
画面の中の選手より先に、悠の親指だけが止まった。
今のは、抜いたんじゃない。
止めた。
悠は抜き切らない。
そこで戻す。
中央。
トップ下。
前を向く。
シュート。
枠の外。
ゴールではない。
でも、今の方が近かった。
『抜かずに止めた?』
『今の何』
『相手だけ止まったな』
悠は水を飲む。
喉が乾いている。
「これかもしれない」
小さく言う。
コメント欄が反応する。
『何が?』
『説明して』
『本人だけ分かってるやつ』
悠は説明しようとして、やめた。
まだ言葉にしたら、逃げていきそうだった。
試合では、まだ使えないかもしれない。
でも、ただ抜くだけの半歩ではない。
相手を止める半歩。
その感触が、指に少し残った。
◇ ◇ ◇
配信後。
スマホを見ると、凛からメッセージが来ていた。
『最後の一回、保存して』
『した』
『明日、そこだけ見る』
『他も見ろよ』
『見るけど、そこが一番大事』
悠はベッドに座った。
指の腹が少し赤い。
コントローラーのスティックに触れると、まだ少し痛む。
スマホがまた震える。
『今日の練習、配信で全部見せすぎたかも』
悠は少しだけ笑った。
今さらかよ。
そう打とうとして、やめた。
『そうかもな』
送信。
既読。
『でも、できなかったものができるようになるところは見せてよかったと思う』
悠は、その文をしばらく見た。
できなかったものが、できるようになる。
まだ、できるようになったとは言えない。
一回きれいに抜けただけだ。
一回、相手の足を止めただけだ。
でも、その一回は残っている。
動画にも。
指にも。
「必要な入力だけは、遅れない」
悠は声に出してみた。
少し変だった。
でも、嘘ではない気がした。
黒須の操作には届かない。
昨日の相手にも、まだ追いつかない。
ただ、一つだけ。
見えた時に押す形が、少しだけできた。
スマホに次の対戦予定が表示される。
予選三戦目。
相手はまだ未確定。
悠は画面を伏せた。
怖さは消えない。
でも、昨日の負けとは違う場所に、手がかかっている。
そんな気がした。




